季節の木

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2019年6月19日 (水)

教会はお父さんを応援してます!!

6月16日(日)の礼拝の中で、お父さんの祝福をお祝いしました。教会はいつもお父さんを応援しています。祈りで家庭と社会をリードしていって下さい。

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2019年6月17日 (月)

2019年6月9日(日)ペンテコステ礼拝説教概要

説教タイトル「聖霊に満たされる約束」

説教テキスト:使徒行伝1115

 

初めに

山下訓史(のりふみ)さんは三段跳びの日本記録保持者であり、現在は福島市在住である。彼は198661日の日本選手権で日本記録を樹立した。17.15mは、32年経った現在も破られていない。日本記録を出した時、彼は自分が飛んだ感じがしなかった。後ろから誰かに押されているような感覚だったとコメントしている。彼が日夜努力を惜しまず練習に励んだ事で、本番で練習以上の事が起こった。これは聖霊に満たされることに通じるものがある。聖霊に満たされるとは、今日の礼拝だけで真剣に祈ればそれで受けられることではない。私たちが主の弟子として過去現在未来に渡って生きる中で与えられるもの。また、今まで私たちが主の弟子としてイエスとどのような関係を築き、そこからどんなことを学んできたのかということが大切である。

 

  • 誰への約束なのか

1:4)で言われている約束は「彼ら」に与えられている。では「彼ら」とは誰。それは(1:2)の使徒たちこと。彼らが使徒として生きるようになったのは、初めにイエスが彼らを選んで下さったから。聖霊に満たされる約束は、使徒たちが今までイエスに従ってきて、イエスの十字架と復活の出来事の後で、彼らに与えられている。つまり、使徒たちが途中でイエスに従うことを止めたならば、彼らはイエスの約束を聞くこともできなかったし、受け取ることができなかった。では、約束は使徒たちだけに限定されているのか。約束に応答した者たちは、11使徒たち以外にもいた。その人たちが(1:14)に書かれている。「婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たち」であった。イエスの兄弟たちは(マタイ13:55)に書かれており、4人。「この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」 婦人たちが何人いたか不明だが、56名だとすると合計人数は20人前後。さらに(1:15)を見てみると、祈り会の合計人数は120名程に膨れ上がっていた。(1:22)で、ペテロはそこに集まっていた120名の人たちのことを「始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち」と言っている。つまり20名から120名になる過程において、先に集まった20名がイエスの弟子たちを祈り会に誘い、その人数が120名になった。聖霊に満たされる約束は、イエスの弟子に対する者であり、イエスの約束を信じて集まった者たちのことを指している。

 

  • 何処で与えられる約束なのか。

それはエルサレム。何故エルサレムでなければいけなかったのか。それは神様が定められたスタート地点がエルサレムであったから。では何故エルサレムがスタート地点だったのか。それはエルサレムがイスラエル国家の中心地であったからだ。神はエジプトで奴隷にされていたイスラエルの民を解放し、カナンの地に導かれた。その後ダビデによってイスラエル国家が建設され、エルサレムが首都として定められた。ソロモンの時代にエルサレムに神殿建築。バビロン捕囚を経て、再度エルサレムに神殿が再建された。エルサレムはイスラエル民族がそこで神を礼拝すべき場所であった。

しかしエルサレムは神の愛を拒絶し、神の1人子イエス・キリストを殺す町であった。イエスは言っている。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。」(ルカ1334節) 旧約時代に遣わされていた預言者たちはエルサレムに拒絶され続けていた。ここでイエスが言われているエルサレムは土地ではなく、神に選ばれたイスラエルの民のことを指している。

しかし父なる神はエルサレムを諦めてはおられなかった。エルサレムでイエスを蘇らせ、エルサレムで弟子たちに現われて下さった。イエスが弟子たちにエルサレムで約束を待つように命令されたのは、エルサレムでなされたイエスの十字架の御業と、エルサレムでイエスが教えた神の国を思い起こすためである。そしてエルサレムいる弟子たちから福音が拡大するため。

ではエルサレムに行かなければ、約束のものを頂けないのか。そうではない。イエスは(ヨハネ4:21)でサマリヤの女性に「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と言われた。また(黙示録212)には「21:2また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 」と書かれている。エルサレムとは場所ではなく、夫イエスのために着飾った聖徒たち。

聖霊に満たされる約束は、特定の場所で祈れば与えられるものではない。私たち自身が夫イエスに受け入れられるエルサレムとなること。

 

  • 何の目的で与えられる約束なのか。

聖霊が与えられる目的は、イエスの証人となること。証人とは殉教者の意味。であるから、イエスの証人は、自分の命をかけて、または自分の命がイエスのために失われるようなことがあったとしても、イエスを証しする者となること。そんな生き方をするためには、自分から解放される必要がある。自分とはイエスに命をかけることができない自分である。自分の死を恐れる自分と言ってもよい。私たちの命は神によって与えられた命。罪によって汚された人間は自分の命を、何とか命に満たそうと努力して生きる。しかしイエスを信ぜず、神を認めないならば、死を刈り取って生きるしかなくなる。聖霊の満たしはそのような状態から解放して下さり、イエスのために喜んで命を捧げる生き方に変えて下さる。

聖霊に満たされた弟子たちは、蘇られたイエスを証しした。つまり彼らの証しの背後には、自分の死がイエスによって解決された体験をしている。また蘇られたイエスが自分たちと共におられること体験している。だから彼らの証は、死に支配された人々をイエスの命で征服する力が伴っていた。使徒2章でペテロがなしたメッセージによってその事が起こった。彼は、集まってきた野次馬たちを、イエスを殺した張本人であると断罪した。彼らに殺されたイエスは神から遣わされた者であり、死んで蘇られ、天に昇られたお方。聖霊は悔い改めて洗礼を受ける者に賜物として与えられる。彼のメッセージは野次馬たちの心を突き刺し、彼らは悔い改めてイエスを受け入れ、神の命に満たされた。

 

終りに

「聖霊に満たされる約束」について見てきた。聖霊に満たされる約束は、イエス・キリストの約束に応答して祈る者に与えられる。また自分がエルサレムとなる覚悟を持つ者に与えられる。また自分の命をかけてイエスを証しする者に与えられる。

約束というものの性質について考えてみたい。約束の意味は当事者間で取り決めること。つまり1人では約束は成立しない。神様はイエスによって、私たちに聖霊に満たされる約束を与えて下さっている。その約束を私たちが守る時に、私たちは神の約束を体験する。また約束というものは、約束の先にある事が大切である。例えば、明日18時に夕食を一緒にするために、1730分にある場所に集まる約束をしたとする。その約束を当事者が守るためには、まず予定を調整して、1730分に指定された場所に集まること。17時30分に集合したことは約束のスタート地点に立ったに過ぎない。何故なら約束は共に夕食を食べるためにしたから。共に夕食を食べた時に約束を全て果たしたことになる。聖霊に満たされる約束も同じである。約束の先のことがある。異言を語ることは約束のスタート地点に立ったに過ぎない。エルサレムは神を拒否する者から神を愛する者へと変えられ、そのエルサレムからイエスの証が語られ、神を知らない者たちがイエスを受け入れるドラマが展開される。それが再臨に至るまでなされる。それが神と私たちが結ぶ約束である。あなたは神の約束を守ることができるか。

2019年6月16日(日)父の日記念礼拝説教概要

説教タイトル「礼拝心改革 ~父親が持つべきもの~」

説教テキスト:エズラ記10144

 

初めに

飼い犬の問題行動の90%以上は飼い主のメンタルによるものという説を、ある動画で知った。そのコメントを聞いた時、犬にも50パーセントくらい問題はあるはずだと思った。しかし動画の主のコメントを最後まで聞いた時、動画の主の考えに同意せざるを得なくなった。何故なら動画の主は、問題行動のある犬を自分でメンタルで改善させていたからだ。メンタルは目に見えないが、表情やしぐさに表れる。優しいメンタルを持っている人の表情は怖いものにはならない。反対に、怒りメンタルを持った人の表情は優しいものにはならない。人は相手の持っているメンタルを外見から一瞬で判断する能力を持っている。犬も飼い主のメンタルを一瞬で見抜き、自分の行動を決めている。自分のメンタルは相手に大きな影響を与えている。エズラのメンタルで礼拝心改革を起こっている。

 

  • エズラのとりなし心

雑婚問題に対する改革の始まりは、エズラがそのことを嘆き、執り成しの祈りを捧げることからスタートしている。彼は自分の問題や自分の家族の問題のために祈っているのではない。ペルシャからエルサレムに帰国した同胞の民が神様の道を踏み外した結婚をしていることを知り、執り成しの祈りを捧げた。彼が執り成しの祈りを捧げることができたのは、彼が神の言葉を何よりも大切にしていたからだ。彼が大切にしていた神の言葉は(8:22)「われわれの神の手は、神を求めるすべての者の上にやさしく下り、その威力と怒りとはすべて神を捨てる者の上に下る」 この神の言葉には、民が為すべきことが示されており、それは神を求めることである。しかし民は神を捨てた。神を知らない異国の女性たちと結婚をした。その結婚は、神の怒りが注がれることに繋がるものであった。エズラはそのことを嘆き祈っていた。彼が祈っていると、彼に賛同する者たちが集まって、悔い改めの祈り会がスタートした。注目すべき事は、礼拝心改革はエズラの人目につかないような場所での祈りから始められたことである。

 

  • エズラの祈りに感化された指導者たち

エズラの嘆き悲しみは民の指導者たちに波及し、彼らは民が犯した罪を嘆き悲しむようになった。その中でシカニヤという者が、民が為すべきことをエズラに告白し、彼がその事を行うように進言した。シカニヤの進言は、神の言葉に基づくものであり、娶った妻と子どもをペルシャに引き返させること。この案は民の指導者たちに受け入れられた。この案は人道的に見たら大問題である。今まで一つ屋根の下で衣食住を共にした家族には大きな悲しみをもたらすことになる。しかし彼らが最優先したことは、神の言葉であった。神を求めることを第一とした。彼らの先祖たちは真の神ではない神々を信じる妻たちを娶り、真の神を捨てた。その結果神はイスラエル王国はバビロンに捕囚され、王国は滅んでしまった。エズラが(8:22)で告白していることは。自分たち国民が信じる神と自分たちの民族のアイデンテイを告白している。「われわれの神の手は、神を求めるすべての者の上にやさしく下り、その威力と怒りとはすべて神を捨てる者の上に下る」 シカニヤの案が民の指導者たちに受け入れられ後で、初めてエズラは(10:1011)で正式なお触れを宣言している。「あなたがたは罪を犯し、異邦の女をめとって、イスラエルのとがを増した。 10:11それで今、あなたがたの先祖の神、主にざんげして、そのみ旨を行いなさい。あなたがたはこの地の民および異邦の女と離れなさい」。 礼拝心改革は、エズラから民に一方的に発信されていったものではなく、神の言葉に従う心を持った指導者たちと共に行われた。

  • 罪を犯した者たちの悔い改め

礼拝心改革はさらに具体的に展開していく。民はエズラからのお触れを必ず実行することを約束した。さらに民はその約束を果たしていく過程の中で、指導者、長老、裁判人が罪を犯した者たちを調べた上で事を実行するようにした。民の悔い改めは個人がそれぞれに行うものではなく、指導者が事実関係を調べ、彼らの指導の下で行われた。その過程の中で、罪を犯した者は自分の罪を、神と神が立てた指導者の前に晒し、結婚した妻と子どもを母国に去らせた。この悔い改めは個人ではなく地域レベルのものである。そうすることにより、悔い改めた者たち良き行いが地域に証されていった。

また民の悔い改めは、神の恐れるものであった。(1014)で彼らは「そうすればこの事によるわれわれの神の激しい怒りは、ついにわれわれを離れるでしょう」と告白している。民は神の怒りを恐れる心を持っていた。夫は妻と子どもの顔色よりも神の怒りの方を恐れた。罪を犯した当事者ならば、家族を守るために、離婚せずに今までの生活を続けたいと思うもの。しかしそのような選択を続けていたならば、過去の歴史は再び繰り返される。先祖たちがそのような選択をしたので、神は敵国によって自分たちの国を滅ぼされたのだ。つまり民は神を恐れて自分たちの罪を悔い改めなければ、彼らの家庭を支えている国家自体が滅んでしまうことを知っていた。だから彼らは潔く自分たちの罪を悔い改めた。その目的は礼拝心を持って生活するため。

 

終りに

先ず私たちが持つべきメンタルは祈ることにより上がっていく。男性は祈りでリーダーシップを発揮していくこと。命令や重圧で家族を従わせることは簡単。しかし家族は、リーダーのメンタルを一瞬で見抜くことができる。神様からきたものなのか、それとも気分やその場の感情なのかどうかを。そうではなく、自分の祈りに家族のメンバーが従うようにさせることである。そのためには、神様を自分のリーダーとしていること。自分が神様に服従する生き方をすること。男性のリーダーシップは神様に服従することから与えられていく。その服従心で家族を神に従わせていくこと。神に祈ることができる人は神に服従している人。神に祈らないと自分が神となり、家族を命令や重圧で従わせるようになる。エズラは「われわれの神の手は、神を求めるすべての者の上にやさしく下り、その威力と怒りとはすべて神を捨てる者の上に下る」というメンタルを持って生きていた。だから民を神様に従わせることができた。

また私たちのメンタルは神の前に悔い改めることにより上がっていく。自分が悔い改めなければ、家族を悔い改めさせることはできない。悔い改めのメンタルは、エズラから始まり、指導者たちと民に感染していったことを覚えて欲しい。ではどのように悔い改めればよいのか。まず神への恐れが無ければ(私たちの心の中心に神の言葉が宿っていなければ)悔い改めることはできない。また自分1人の力では悔い改めはできない。この2つの条件を満たす悔い改めが、主日礼拝で指導者が語られる御言葉聞いて、御言葉に沿った悔い改めをすることである。神の言葉を受け取る時に、私たちは神を恐れる心が与えられる。悔い改めの目的は、悔いることではなく、自分の生活の中で神礼拝するため。神礼拝しない思いと行動を自分から切り離すこと。

 

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