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2019年7月31日 (水)

読んだ本の紹介 藤沢周平著『隠し剣 孤影抄』(文春文庫 2004年)

 秘剣を持つ主人公たちの人生模様が描かれている短篇。小説(ストーリー)と私たち読者とはどのような関係にあるのか。小説は実際のものではなく創作だから、自分とは関係ないと言ってしまえば、それまでである。藤沢氏の小説を読んでいると、自分と関係がないと割り切って読むことができなくなる。自分がその世界で生きていたら一体どんな風に生きるのか、ということを考えながら読んでしまう。また主人公の生き方に引き込まれてしまう。私たちの人生は1つであり、幾通りもの生き方を体験することはできない。しかし自分と別の生き方(ストーリー)が自分の心にあり、それと自分の生き方を照らし合わせることができたなら、例えばとか、もしかしたら、という別のストーリーを自分の心の中に描くことになる。そこまでいかなくとも、自分の生き方とストーリーを比較するようになる。そんな作業を自分で行っていくと、自分の人生に厚みが生じてくることになる。喜怒哀楽もストーリーの中で体験できるので、情緒豊かな生き方もできる。

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2019年7月30日 (火)

2019年7月28日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「弱者の叫びに応えて」

説教テキスト:ネヘミヤ5119

 

初めに

 昭和44年に千葉県松戸市に「すぐやる課」が設置された。「すぐやる課」生みの親はドラッグストア「マツモトキヨシ」の創業者・松本清氏。彼は「市民の要望がたらい回しにされている」と考えたので、市長は、部署にとらわれず市民の困りごとに対処する課を誕生させた。最初に寄せられた要望は「子供が熱を出したのに剣道大会に行っている夫と連絡が取れない」というもの。携帯電話のない時代ならではの要望に、課は直ぐに動き、その旦那さんを探し出した。民からのSOSに職員が急行するスタイルは今も変わらない。ネヘミヤも弱者の叫びを聞いてすぐに行動を起こしている。

 

  • 訴えを聞いた

 4章では迫害が起こり、民は槍と道具をもって城壁工事に従事するようになった。5章ではまた別な問題が起こった。それはユダヤ人の生活苦の問題。生活苦には3種類の人たちがいた。①子どもが大勢いるので、食べ物を得ることが困難な人たち。(52)②飢饉で食べ物がなく、食べ物を得るために、同胞の裕福な民に畑と家を借金の形にとられた人たち。(53)③税金を払うために、畑と家を抵当に入れ、同胞の裕福な民にお金を借りた。しか借金が返せないので、息子娘を奴隷として売ろうとする人たち。(545) 貧しいユダヤ人たちが同胞の裕福な者たちを訴えていた。この時、貧しいユダヤ人たちは城壁工事に携わり、同時に生活苦に陥っていた。彼らは苦しい中で城壁工事をしていたことになる。この問題が放置されるならば、城壁工事に携わる者はいなくなってしまう。ネヘミヤは富める者たちの代表として、彼らの訴えに耳を傾けた。今まで民の底辺でしか呟かれなかった声が上層部トップのネヘミヤに届いた。もしネヘミヤが彼らを苦しめていたならば、彼はこの問題を正当に取り扱うことはできなかった。しかし彼は神の御心を最も大切にする心を持っており、さらに彼は他国に売られた同胞の民を買い戻していた。だから彼は貧しい者たちの訴えを受け取ることができた。

 

  • 公の場で解決

 ネヘミヤはこの問題を直接富める者たちと話合い、この問題の解決のために大会を開いた。そして即座にこの問題の解決をした。彼は同胞の民が異邦人からのそしりを受けないために、エルサレムに城壁を築くためにやってきた。しかし富める者たちは同胞の息子・娘たちを異邦人たちに売り、異邦人からそしりを受けるような事を行っていた。彼らは異邦人からのそしりよりも、自分の懐に不正なお金を得ることの方が大切であった。神を恐れないと、隣人を愛するよりも、物やお金を愛するようになる。ネヘミヤにとって、それは神の御名が蔑まれる行為であった。だから彼は彼らの行いを非難し、神を恐れて生きることを忠告した。

 また彼のこの問題に解決は妥協を許さないもの。債権者は債務者から担保として取っていた家と畑を全て返すようにし、また不正に懐に入れていたお金や食べ物も返すようにした。すると富める者たちは素直にネヘミヤの忠告に従った。また今後この問題が起こることがない様に、祭司を立ちあわせて、貧しい者を苦しめる者は神の呪いに遭う事を警告した。大会には、債権者と債務者の他に、問題とは関係のない人たちも来ていた。それは全てのユダヤ人が神を恐れて、同胞の民に愛と憐れみを示して生きること示すものであった。

 

  • 自分の手当を返上

この問題が起きてから、ネヘミヤはユダヤの総督としての手当を受け取ることを拒否した。彼がユダヤの総督として任命されたのは、エルサレムに来た後のこと。彼はペルシャの献酌官としての給与が与えられていたので、総督の手当がなくとも生活ができたと思われる。彼以前のユダヤの総督たちの手当は、ユダヤの民の税金と現物によって支払われていた。総督が手当を受け取ることは必要なものであったが、その手当が過剰なものであった。それが民の生活を苦しめていた。総督以下の役人が甘い汁を吸っていたならば、民の訴えはもみ消されてしまう。誰もその事にストップをかける事はできなかった。しかしネヘミヤは神を恐れて、その悪習慣を絶ち切った。さらにネヘミヤと部下の食事は自弁であった。彼のこの行為は民のご機嫌を取るためのパフォーマンスではない。(515)で彼が言っている通りのことであり、神を恐れる生き方であった。民は彼の総督としての生き方の中に、愛と正義の神を認めることができた。

 

終りに

 「弱者の叫びに応えて」について見てきた。今朝の御言葉から2つの事をお勧めしたい。1つは、教会は弱者の叫びを受け止めるべきところ。エルサレム教会には、配給がなおざりにされていたギリシヤ語を使うユダヤ人たちがいた。教会はその声を受け止め、教会に給食係りを置いて対応した。その結果、神の言葉はさらにエルサレムに広がっていき、信者の数は増えていった。教会は教会成長のために、弱者の声に耳を傾けるのではない。神が弱い者を配慮するように願っておられるので、教会はそれに倣うのである。私たちが弱い者と関わったとしても、彼らの問題の全てを解決することはできないかもしれない。しかし弱い人の声を受け取る事によって、彼らの問題が解決されていく。弱い人が教会に受け入れられる時、彼らは自立することができるかもしれない。また彼らの家族は、教会を通して神の愛を知るようになる。

 もう1つの勧めは、問題に対する素早い対応である。ネヘミヤは大会開催日に弱い者たちの問題を解決した。私たちが抱えている問題にはすぐに解決しなければいけないものがある。直ぐ解決する問題を長い期間引きずってしまうと、その付けを刈り取ることになる。自分自身がクリスチャンとして生きていくことができなくなる。またその影響は家族と教会に及ぶことになる。神を恐れないならば、何が問題なのかを知ることができない。神を恐れて、直ぐに解決に向けて動き出すこと。

2019年7月24日 (水)

2019年7月21日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「迫害の中での仕事」

説教テキスト:ネヘミヤ4123

 

初めに

徴兵制を行っている国の中で、その対象は男子のみであるが、唯一女子も対象なのがイスラエル。イスラエルでは18歳になった時に、軍隊に行くことが義務つけられている。イスラエルのユダヤ人の大多数は徴兵制とパレスチナを攻撃することに賛成している。しかしそれを拒否している小数のユダヤ人たちがいる。拒否の理由がイスラエル軍のパレスチナ住民に対する暴力行為。無抵抗なパレスチナ住民が被害に遭っている。徴兵制を拒否する人たちが結託して活動をすることによって、その活動に理解を示すユダヤ人が起こされている。良い事は小数であっても必ず広がっていく。

 

  • 神の名のために

民が城壁を築くことにより、敵は城壁が築くことがないように策を打ってくる。嘲笑や脅しに始まり、さらにエスカレートして暗殺計画まで練るようになっていった。民は迫害の対応に追われるようになった。また(410)では民は肉体労働で体に疲れを覚え、城壁周辺に土がたまっていて城壁を築くことができない問題を抱えていた。問題は1つではなく次から次に別な問題が起こり、その対策に追われていく。

ネヘミヤは迫害者の嘲りを聞いた時に、(445)で神に祈りを捧げている。その中で彼は「彼らは築き建てる者の前であなたを怒らせた」と祈っている。ネヘミヤは迫害者が神を怒らせることについて憤った。そういう怒りは少年ダビデも持っていた。ゴリアテが毎朝イスラエルを大声で嘲っていた時に、イスラエル軍隊は震えあがって怯えていたが、少年ダビデだけは、生ける神の軍隊が的になぶられていることを聞き、神の名のために立ち上がった。

またネヘミヤは(4:14)で、敵が城壁内に攻め込もうとしている時に民を励ましている。「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい」 単なる励ましではなく、民が大いなる恐るべき主を覚える励まし。

ネヘミヤは迫害を受けた時に、迫害者そのものをどうにかしようと行動を起こしていない。彼は神の御名のために城壁を建てることに全精力を傾けた。

 

  • 武装して

ネヘミヤは信仰に燃えていると同時に、敵からの攻撃に武装して備えていった。初めは見張りを置く程度であったが、敵が暗殺を仕掛けることを知ってからは、民に剣と弓を持たせて見張りを置くようにし、さらに働く者たちは手に武器を持ちながら工事を行っていった。また民は二交代勤務で仕事をするようになり、昼には城壁工事、夜は武器を持って見張りをするようになった。また緊急事態が起きた時にはラッパを吹いて、民がエレミヤのところに集まるようにした。

民は今まで体験したことがないような環境で仕事をするようになった。誰からも邪魔されない環境で仕事をすることができたらどれ程良かったことだろう。もし彼らがそのように仕事をしていたならば、彼らの中にはワーカー(仕事人)レベルの意識しか生まれなかったのではないか。しかし民が敵からの攻撃を受けて、ネヘミヤの指導の下で仕事をしていく中で、彼らはワーカー(仕事人)からソルジャー(戦士)に変化していったはず。何故ならワーカーは道具だけを持ち、ソルジャーは手に武器を持つからだ。彼らは手に両方のものを持っていた。つまり彼らの仕事は神に敵対する悪の勢力との戦いであった。だからネヘミヤは(4:20)で民を「どこででもラッパの音を聞いたなら、そこにいるわれわれの所に集まってほしい。われわれの神はわれわれのために戦われます」と励ましたのだ。神は今朝のテキストと似たようなことを過去のイスラエルの民になしている。それはギデオンをミデヤン人との戦いに遣わす時に、戦士として振る舞うことができた戦士300人だけを遣わした出来事。彼らは水を飲む時に膝を折らずに、手を口にあてて水をなめた者であった。神は彼らを通してイスラエルに勝利を与えた。

 

終りに

「迫害の中での仕事」について見てきた。私たちは目に見える城壁を築こうとする者ではなく、目に見えない城壁であるイエスを自分自身と私たちの周りの人たちに築こうとする者。イエスは御自身の事を譬えて門であると言っている。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13) 「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10: 9) 

門を築こうとする時に、私たちは必ずそれに反対する反応に直面する。その時に私たちがなすべきことは反対する者たちと争うことではない。城壁であるイエスを神の名のために築くこと。

「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(2テモテ3:12)と書かれている。迫害を受けるためにイエスを信じるのではない。イエスにあって信心深く生きる結果、迫害に遭う。何故迫害に遭うのか。それは私たちのイエス・キリストを信じる信仰が私たちの周りの人たちを支配していくから。周りの人たちは自分の罪の領域をイエスによって犯されるから。自分の信仰が相手を支配していくので迫害が起こる。それが相手の嘲りや怒りとなって表わされていく。今朝の御言葉から、私の信仰は相手から迫害を受けるまでになっているだろうか。それとも私は周りの人たちと当たり障りなくして、自分だけのために信仰をしているだろうか。

迫害に遭う時に、私たちは自分の身を武装しようと努める。逃げるために武装するのではなく戦うために武装する。自分の信仰が無くならないように祈る。相手がイエスを信じるように祈る。迫害に負けることなく大胆にイエスを証しするように生きていく。迫害に1人で立ち向かうことはできないので、教会に祈りの要請をする。「キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。」(2テモテ2:3) あなたはキリストの良い兵士だろうか。良い兵士は戦いの苦労の中に生きている。

2019年7月16日 (火)

読んだ本の紹介 江川紹子著『勇気ってなんだろう』『「カルト」はすぐ隣に』(岩波ジュニア新書 2009年、2019年)

 著者は言わずと知れたオウム真理教が事件を起こした時にテレビ番組でひっぱりだこで活躍したコメンテーターであり、ジャーナリストとして活躍している方です。

 『勇気って~』は勇気をもって行動した人たちが紹介されています。本の中での著者のコメントからは、ジャーナリストとして培ってきた優しく正義に満ちた心が滲み出ており、読む人の心を熱く、そして温かくさせてくれます。

 『「カルト」は~』は、オウム真理教で事件を起こした人たちの生い立ちと彼らの手紙が紹介されており、彼らがいかにしてカルトにのめり込んでいったのかを知ることができます。本の中で紹介されている人たちは、オウム入信前に人生を真面目に生きようと模索した人たちばかりです。しかし彼らがオウムにのめり込んでしまった結果、彼らは自ら考えることを停止させられ、教祖の言われるままに犯罪に手を染めてしまいました。彼らにとって犯罪は宗教行為であると洗脳されていたのです。オウムがあの時代に跳梁できたのは、それに至るまでの社会状況や、その当時のマスコミの報道も大きく関わっています。ジュニア文庫から出版されていますので、若い世代の人たちにお勧めの本です。

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2019年7月15日 (月)

2019年7月14日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「城壁再建スタート」

説教テキスト:ネヘミヤ3章1節32

 

初めに

フィリピン宣教師のS先生が当教会に来て宣教報告をして下さったことがあった。その中で、S先生が宣教地における建物の建て方について話して下さった。日本だと、建築のための資金が全てそろってから建築をスタートさせる。しかしフィリピンだと、今手元に持っているお金の分だけの建物を建て、その後お金を貯めて、建物を建て増していくそうである。S先生は、建築途中教会の土台の部分だけを写真で見せて下さった。この事にはフィリピンの国民性が表わされていると思う。フィリピンでは教会の集会時間は時間通りには始まらない。30分~1時間遅れは当たり前。要するにおおらかな国民性を持った国民であるように思う。第二神殿の城壁方法は、信仰に満ちたイスラエル民族の国民性が表わされている。

 

  • 協力して

今回の聖書テキストの文章を繋ぐ言葉は「その次に」と「その後に」。(2:17)のネヘミヤ「あなたがたの見るとおり、われわれは難局にある。エルサレムは荒廃し、その門は火に焼かれた。さあ、われわれは再び世のはずかしめをうけることのないように、エルサレムの城壁を築こう」の呼びかけに、心ある者たちは応答した。

戦時中、男性は軍隊または軍需工場へ行っていたので、地域には女性、子ども、年配者しか残されていなかった。防災は婦人の役目であった。空襲に備えて、婦人たちが消火訓練をしていた。婦人たちは一列に隊列を組み、水が入ったバケツをリレーして、火事に見立てた目標物に水をかけていた。バケツ・リレーというのは予めその場所に並んでいないと、次から次にバケツをリレーすることはできない。婦人たちを一致団結させていたのは、天皇陛下のため、お国のために役に立つことであった。

同様に、城壁再建の仕事に従事した者たちは、ネヘミヤの指示で、それぞれの持ち場に就き、次から次へと城壁を付け足していった。彼らを一致させたのはネヘミヤであり、彼の持っていた信仰「我々が辱しめを受けないため」である。それは最終的には、イスラエル民族によって神の御名を崇められること。城壁工事をした人たちは神の御名が崇められるために一致協力した。

 

  • 自分を捨てて。

城壁工事に携わった者たちは様々な人たちがいた。大抵は普通の人たちであったが、その中には大祭司(31)、祭司(31328)、金細工人(38)、製香者(38)、知事(3:15317319)、金細工人(331)がいた。

城壁を築くという仕事は、崩れた石を組み直すことだけではなかった。新しい石を石切り場で切り、それを運び、城壁を組み直すこともした。それはどれも重労働。しかしその重労働に縁が無い人たちがそれに従事した。それを見た市民は驚きと感動を覚えたことだろう。いつも高級スーツに身を包み、肩で風を切って仕事をしている県知事や社長が作業着を来て、汗をかきながら重労働に励んでいたならば、市民や社員は驚きと感動を覚えるはずだ。

つまり大祭司、祭司、金細工人、製香者、知事、金細工人たちは自分たちがいつもしている仕事に固執しなかった。いつもの自分を捨て、今目の前に求められている神の仕事のために身を捧げた。彼らの献身は他の城壁工事をする者たちの士気を高めた。

城壁工事に携わった者たちの服は石の埃で汚れた。彼らの仕事は一日二日の仕事ではなく、週から月単位に渡ってのもの。だからと言って彼らは疲労困憊した表情で仕事をしていたのではない。彼等には神のために働いている神喜びがあったはず。城壁は自分を捨てた者たち汗と喜びの結晶であった。

 

終りに

城壁を築いた人たちの生き方はイエス・キリストの生き方そのもの。イエスは弟子たちと共に福音を伝え、彼らに福音を委ねられた。福音は1人占めするものではなく、教会が共有するものであり、教会が一致協力して伝えるべきもの。一致とは仲良しこよしの関係ではない。福音を共に受け取り、福音を共に伝えて生きることによって一致は生み出されていく。

ネヘミヤは自分たちが(御名が)辱められているので、城壁再建のために立ち上がった。主の祈りの中の、御名が崇められますように私たちは本気で祈り、行動する必要がある。何故なら、私たちは御名が辱められている現実を見るからである。御名が崇められるために、教会は福音に生き、福音を伝えていく。福音は戒律ではない。福音は罪人を神に愛される者、神を愛する者に造り変える良きおとずれである。

またイエスは神の在り方を捨てて、人間の姿になられ、この地上に来られて十字架の御業を成し遂げられた。イエスが自分を捨ててこの地上に来なければ、私たちは罪の中に滅んでいた。私たちはへりくだったイエスを信じているし、そのイエスの御霊が私たちの内に宿っている。だから私たちは新しい神の働きのために自分を捨てること。今まで通りの同じ働きをしていればよいのではない。御国は自分を捨てて神の働きをする者を通して広がっていく。私たちに福音を伝えて下さった人たちは自分を捨てた人たちである。

 

2019年7月10日 (水)

第3回 生き方カフェ ~結婚すること~

 生き方カフェとは、私たちの生き方に必要なテーマをピックアップし、パネラーの体験談を聞き、テーマを深めていく集まりです。今回のテーマは結婚。他の人の結婚の体験談を聞く機会は殆どありません。つまり成功や失敗を知らないまま、未知の世界に飛び込んでいくことになります。そのような意味において、先輩の体験談は道しるべの役目を果たします。3名のパネラーの方々は、イエス・キリストによって良きモデルに造り変えられた体験談を語って下さいました。それは次世代への贈り物となります。お仕事に感謝申し上げます。また沢山の方々の参加にも感謝致します。お茶の時間では、スイーツのスワン・シュー(白鳥の形をしたシュークリーム)、しそジュース、レモネード、アイスコーヒーなどの美味しいものを頂きながら、楽しい時間を過ごすことができました。

 

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