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2019年9月30日 (月)

教会オリジナルキャンプ

9月22日(日)~23日(月・祝)に教会オリジナルキャンプを行いました。今回のテーマはイエス様の弟子になること。教会の礼拝からスタートして、霊山にあるコテージに一泊しました。1日目は謎解きゲームをチームで行いました。謎が難しく解けなかったグループもありましたが、あるグループは見事に解いてくれました。謎の答えは’しんじる’でした。夜はバーべキュウをしました。お餅、魚、肉、キノコ、焼き鳥などを炭火で焼いて食べました。2日目は、朝食後に礼拝の時を持ちました。その後場所を移動して、うどん打ち体験を行いました。全員初めての体験で、手打ちうどんとかき揚げを頂きました。イエス様の弟子になる決心を捧げ、楽しいキャンプの時を過ごすことができました。

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2019年9月29日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「エルサレムに住む者たち」

説教テキスト:ネヘミヤ記111節~36

 

初めに

町おこしとは地域の文化や経済を活性化させること。町おこしで用いられるものにゆるきゃらがある。千葉県船橋市のゆるキャラはふなっしー。「梨の妖精」のマスコットキャラクター。このキャラは市が考えたものではなく、ある船橋市民が「個人的に」始めたキャラ。当初は船橋市役所などに売り込んでも受け入れてもらえなかったが、自主的に参加した地域イベントなどの活動、インターネット上の活動で知名度を上げていった。2013年の『アサヒ十六茶』のCM出演を機に一気にブレークした。エルサレムの町おこしはゆるキャラではなく、民がエルサレムに住み、神を礼拝する共同体を築いていくことによってなされていった。

 

  • 決められた通りに住む者たち

初めに、城壁内に住んだ人たちは、民の中で決められた人たちが住んだ。決められた人達とは、ユダとベニヤミンの子孫たち、祭司たち、レビ人たちである。ユダとベニヤミンの子孫たちでエルサレムに住んだ者たちは、民のつかさたち、くじで選ばれた10人の内1人。またユダの民の中からは戦闘能力に長けた者たち468人。この者たちは主に城壁内の警備に就いた。ネヘミヤ4章では、民は敵の攻撃に備えて、片手には仕事道具、もう片方の手には武器をもちながら仕事をした。また民は2交代で24時間見張りを置くようにした。またネヘミヤ6章で敵は敵の将であるネヘミヤを直接暗殺する策略を用いてきた。その敵の攻撃に備えて彼らが城壁内の要所〃に配置された。それは攻撃のためではなく防御のため。

ベニヤミンの人数928人。祭司たち822人とその兄弟たち128人。彼らは神殿内における仕事に携わった人たち。レビ人284人とその兄弟たち172人。レビ人の仕事は祭司の仕事をサポートするため。(11:17)では、マッタニヤという人物が、祈の時に感謝の言葉を唱え始める奉仕に就いていた。以上の者たちは、それぞれのグループで決められた通りにエルサレムに住んだ。適当に振り分けられたのではなく、その基準となったのは、民全体の数に対しての城壁の内外のバランス、神殿内の奉仕の必要などを考慮して人数が配置された。またその目的は、公の礼拝のためであり、生活の中で神の律法を行っていくため。

 

  • 自ら進み出て住む者たち

また民の中には自ら進み出てエルサレムに住むことを申し出た者たちがいた。エズラ記の中で神殿を再建する際に、民は自ら進んで捧げものをなしていった。同様に、民のある者たちは自ら志願してエルサレムに住むことを願い、そのようにしていった。彼らがそう願ったのは、エルサレムの町づくりの土台を担う者となりたいと願ったから。ただの町づくりではない。神を礼拝する共同体の土台作り。公の礼拝に関わる直接的な奉仕は祭司とレビ人が担ったが、警備や行政に関わることは市民が担ったのである。そのリーダーがネヘミヤ。全てが整ったコミニティに引っ越して生活することは楽であるが、何もないコミニティでの暮らしは苦労が伴う。それは津波や放射能問題で機能しなくなった町を1から復興させていくようなもの。町を機能させていくためには、初めに誰かがそこに住み、町を機能させるために働いていく必要がある。それは自分たちのためでもあるが、後から住む者たちや次世代の子どもたちのため。自ら進み出た人たちを見て、その他の民はその人たちを祝福した。祝福したとは、自ら進み出た人たちに感謝し、励ましたということ。それは彼らがエルサレムの町の再建に関心があり、自ら進み出た者たちは自分たちを代表する者という意識を持っていた証拠。自分たちは城壁の外の者であるから、城壁の中に住む人たちとは関係がないのではなく。城壁の外に住んだ者たちは城壁内に住む者たちと同じスピリットを持っていた。

 

終わりに

「エルサレムに住む者たち」を見てきた。エルサレムに住んだ人たちの目的は、共同体で神を礼拝するためであり、個人で礼拝生活をするため。

私たちにとってのエルサレムとはイエス・キリストを信じる群れである教会に所属すること。その目的は主日礼拝と個人生活で神を礼拝すること。生きることそのものが神を礼拝すること。生き方は人それぞれ異なっているが、生きる目的は神を礼拝すること。私たちがこのことのための祈りとアクションを起こしていくこと。私たちはイエスの御業によって世から救われて、神を礼拝する者として教会に植えられた。その事をもう一度受け止めて、それに生きて欲しい。

また私たちが教会に植えられたのは、これから信仰を持つ方々や次世代の者たちが教会に植えられていくためである。先に植えられた者たちがこの教会で良いものを生み出していかないならば、次に教会に植えられていく者たちはそこで礼拝生活ができなくなる。教会は場所も大切であるが、人が大切。先に救われた者たち一人一人が次に植えられていく者たちを受け止めていく存在となっていく。一人の子どもを成長させることができる人が2人を育てることができ、2人育てることができる人が3人を育てることができる。私たちは人を受け止める器を大きくしていくこと。一人一人の器の大きさが教会の大きさを決めていく。あなたが祈っている次世代の者は誰か。あなたは誰を育てていますか。あなたが仕えている人は誰ですか。あなたの言動は次世代の人たちが教会に繋がっていきたいと思わせるものですか。人に仕えることなしに私たちの成長はない。

2019年9月23日(月)オリジナル・キャンプメッセージ 朝の巻

説教タイトル:「弟子の心構え ~イエスの弟子として生きる~」

説教テキスト:ルカ957節~59

 

初めに

イエスはエルサレムに向かう途上で、弟子としての心構えを教えておられる。

 

  • 犠牲が伴う

イエスがエルサレムに向かって進まれていた時に、彼に弟子入りする志願兵がやってきた。イエスが行かれるとこならばどこにでも行くという熱い情熱を持っていた人であった。人手不足の会社ならば、即採用されて即戦力として活躍が期待できる人。しかしイエスは彼に水をさすようなことを言われた。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」 イエスは彼に何を言いたかったのか。イエスは自分が行くところで体験することを言っておられ、そこには自分のための家がないと言っておられる。聖書の別の箇所で(ルカ182930)、『イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」と言われている。つまりイエスについていくためには、大きな犠牲を払う必要があることを言われた。

 

  • 使命が最優先

2番目の人はイエスから弟子として従うように招かれた人。それはとても名誉なこと。しかしその人は「まず、父を葬りに行かせてください」とイエスに言った。その人のお父さんは数日前に亡くなった。その時にイエスは彼に弟子としての招きを与えられた。会社や学校ならば、自分の親が亡くなった時には忌引き休暇を頂くことができる。その時だけは、会社や学校は忌引きを取る人に仕事や勉強(会社で仕事をして、授業に出席して)を求めることをしない。しかしイエスは常識を覆すような事をその人に言われた。「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」 十戒の中には、あなたの父と母を敬えと命じておられるので、イエスは肉親の葬儀をすることを否定しているのではない。イエスはその後の言葉で彼に「出て行って神の国を告げひろめなさい」と命じておられる。神の国を広めるとはイエスのことを証しすることである。イエスはイエスを証しすることはどんな事よりも(たとえ肉親の葬儀よりも)最優先されるべきことであること言っている。イエスの弟子はイエスの使命を果たすことを最優先すべき者である。

 

  • 後ろを振り返らず前進

・ 後の者も志願兵である。志願兵はイエスに、主に従っていくことはできるが家族にさようならを言わせて下さいと願ってきた。それに対してイエスは彼に言われた。「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」 鋤とは畑を耕すスコップのような道具である。鋤とはイエスのことを指している。一度イエスに手をかけた者(イエスの弟子として生きることを決めた者)は後ろを見ないで、前を見てイエスに従っていくのである。家族の者に別れを言うことぐらいは許されるべきだと思う。しかし2番目と3番目の者に共通することは、イエスに従うことよりも大切にしていることがあること。「まず、父を葬りに行かせてください」「まず家の者に別れを言いに行かせてください」 イエスに従って前に進むことが求められているのに、まずそれよりも自分にとって大切であることをやらせて下さいと願っている。まずとは先ずと書き、初めという意味である。それをイエスは後ろを振り返る行為であると言っている。イエスに従うオリエンテーションの時に、先ずイエスの言葉に従うことをしないならば、神の国の現場に出て働く時にも同じことが起こってくる。そのような人は神の国に相応しくない。人は心が向いている方向に進んでいく。後ろを見ているならば後ろに進んでいく。前におられるイエスを向いているならば、前に進んでいく。後ろを見ながら前には進むことは不可能。

 

終わりに

「弟子の心構え」について見てきた。私たちがイエスの弟子として生きるために妨げとなる事柄は自分の家族に関する事柄である。何故ならイエスが、それは家であり、それは父親のお葬式であり、それは家族への挨拶である、と言っているからである。家族それ自体は悪いものではない。家族は神が私たちに与えられたものである。イエスは何を問題とされているのかというと、最優先事項を家や家族とするならば、イエスの弟子として生きることができなくなると言っている。イエスの弟子として生きなければ、私たちは自分の人生の中でイエスを神の子であると体験的に知ることはできなくなる。イエスが神の子なのは聖書の中だけの話になる。神の子イエスは絵にかいた餅になる。

イエスは私たちに無理難題を押し付けておられるのではない。自分の足跡に従って欲しいと願っておられる。イエスは父なる神の御命令を第一とされる生き方をされた。イエスはまこと家である天国を捨てて、この地上に遣わされた。30歳になられた時に生まれ育った家族を捨てて、公に神の国を伝えていかれた。また私たちの罪を背負って十字架にかけられた。私たちの罪が、父なる神とイエスとの親密交わりを引き裂いた。だからイエスは十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ1534)と叫ばれた。またイエスは三日目に復活されて弟子たちに現れ、天の父のもとに帰られた。イエスが家族を捨て、神を第一とした生き方をなされた事により、神の祝福が私たちに注がれている。イエスが父なる神に従われた様に、私たちもイエスを第一として従うことにより、私たちを通して家族に神の祝福が流れていく。本当の親孝行は私たちがイエスを第一とすることであり、あなたがイエスの弟子として生きること。

2019年9月22日(日)オリジナルキャンプメッセージ 朝の巻

説教タイトル:「わたしを誰というのか」~イエスの弟子として生きる~

説教テキスト:ルカ918節~21

 

初めに

プロのスケートボーダーが老人に返送して、公園でスケボー・デビユーする映像を見てみる。公園にいる若いスケートボーダーたちは、当初老人がスケボーに乗ることはできないと侮っている。しかし老人のものすごいテクニックを見て、スケボーが上手な老人であると思い始める。しかし彼の本当の姿はプロのスケートボーダーであり、公園の人たちはその事に気がついていない。

この世を作られた全知全能の神であるイエス・キリストが人のかたちをとってこの地上に来られた。そのイエスを見た人たちの反応が聖書の福音書に書かれている。地上でイエスがなされた事は、両親に仕えて育ち、30歳になられてから人々を愛され、奇跡を行い、神の国について教え、十字架にかけられ3日目に蘇り、天に帰られたことである。イエスがなされた事を見て、イエスの本当の姿に気が付いた人とそうでない人たちがいた。

 

  • 群衆の証言

イエスが祈っておられた時、そばに12弟子たちがいた。その時イエスは彼らに群衆は自分のことを誰と言っているのかと質問した。弟子たちの答えは、バプテスマのヨハネ、エリヤ、昔の預言者の一人が復活した者、と言っていた。群衆はイエスのことを偉大な預言者の一人であると思っていた。群衆のイエスに対する証言は福音書の中に書かれている。イエスは、ヨセフの子。神を汚す者。大預言者。食をむさぼる者。大酒飲み。罪人の仲間。悪霊のかしら。犯罪人として嘲られ、叩かれた。無罪な者。処刑され殺される者。死んでいなくなった者。人々に対するイエスの評価を見てみると、両極端である。大預言者とアゲアゲされる時もあれば、神が汚す者,食をむさぼる者、大酒飲み、罪人の仲間、悪霊のかしら、犯罪者、死刑を受ける者として下げ下げもされている。死刑を受ける者という判決が下されそうになった時、裁判官ピラトはイエスに無罪宣告を下した。しかし群衆はイエスに死刑を要求し、その要求が通ってしまった。群衆はその時々によって、自分に都合の良い評価をイエスに下していった。自分に都合が良い時には大預言者であり、都合が悪くなるとイエスは死刑という評価を下していった。群衆はイエスにスーパーヒーローになることを期待した。自分たちの生活を豊かにしてくれるスーパーヒーローである。しかしイエスはそれを拒否された。すると群衆はイエスに大きな期待を寄せた分、反対にイエスに大きく絶望し、イエスを死刑することに同意してしまった。

 

  • 弟子ペテロの証言

イエスのペテロに対する答えは、イエスは神のキリストというもの。イエスはペテロの答えを受け入れられた。イエスはペテロが答えた通りの者であった。福音書には悪魔が登場しており、イエスのことを神の子と言い、恐れおののいている。イエスの見た目は30歳の男性であったが、目に見えない本性は神の子であったのである。ペテロは目に見えないイエスの本性を理解することができた。その答えは群衆の答えにはないもの。何故彼がイエスの本性を理解できたのか。それは彼がイエスの招きのお言葉に従って、イエスの弟子として今までイエスに従ってきたから。彼がイエスに従ってくる中で、彼は弟子としてのイエスの側にいてイエスがなされる様々な事を見てきた。イエスのなされる様々な奇跡や癒しを見てきた。イエスが祈る姿を見てきた。イエスがどのように人々と接するのかを見てきた。また彼はイエスによって弟子として訓練を受けてきた。イエスは弟子たちと共に過ごされ、ペテロに個人的な勧め、励まし、教え、警告などを与えられていかれた。その中で彼は弟子として成長していった。彼のイエスは神の子という告白は、イエスが彼を弟子として取り扱って下さる中で生み出された告白。彼の告白後に、イエスは不思議な事を告知された。自分は必ず多くの苦しみを受けて、民の指導者たちに捨てられ、殺され、三日目に蘇ると。それはイエスが神の子として果たされる使命であった。

 

終わりに

「わたしを誰というのか」という問いをイエスは全ての弟子に問いかけておられる。答えは聖書に書いてあるので、正解を言うことは簡単。イエスは正解を聞きたいのではない。ここにいる一人一人がイエスの弟子として生きる中で、イエスというお方を知って欲しいと願っている。イエスが神の子であるという答えが、あなたの弟子体験から生み出されることを願っておられる。群衆は自分の都合で生きる者であるので、イエスを神の子であると知ることはできない。イエスから一時的に恩恵を受けるが、生涯をかけてイエスに従うことはしない。しかし弟子は違う。弟子はイエスの都合で生きる者。弟子は、毎日イエスの側におり、イエスの動きに合わせ、イエスのお言葉を第一に従い、イエスからの訓練を受け、イエスと共に苦しみ、イエスのために自分を捧げていき、イエスの体である教会から離れない、イエスを証ししていく。イエスの弟子として生きるためには、自分(の都合)を捨てなければいけない。「わたしを誰というのか」というイエスの問いかけは、「あなたは群衆として生きているのか、それともわたしの弟子として生きるのか。どちらですか」という問い。あなたはイエスを見ている群衆ですか、それともいつもイエスの側にいる弟子ですか。

 

2019年9月17日 (火)

2019年9月15日(日)恵老記念礼拝説教概要

説教タイトル:「両輪を回す堅い契約」

説教テキスト:ネヘミヤ記101節〜39

 

初めに

 ネヘミヤ記9章では、民は集会の中で行われる礼拝と律法朗読をなしていく中で、今まで自分たちは神の恵みと憐れみを受け続けてきた事と、それに対して今まで自分たちは神に逆らい続けてきた事に気がついた。その2つの事に気づかされた事により、今自分たちは他国に支配され奴隷状態で苦しめられていることにも気がついた。その民の気づきが彼らの未来を開いていく。彼らは堅い契約を結んで生きることを決意する。その契約は神の言葉に基づくものであり、生活と礼拝に関することであった。世の中には2つのものがうまくかみ合っていないとスムーズに動いていかないものがある。人間ならば夫婦や監督と選手、物ならば自転車の車輪や飛行機の両翼、などがある。生活と礼拝もそれと同じであり、両輪を回転させながら前に進んでいくのである

 

  • 生活の車輪

指導者と民は神の律法から特に3つの事柄の契約を結んだ。それは信仰生活の車輪を回す事柄である。1つめは、子どもたちを異邦の民と結婚させないこと。異邦人との結婚は経済的な理由によって引き起こされた。寄らば大樹の陰で、何もたぬペルシャから帰って来た者たちがエルサレムで生き延びるためには、持っている先住の異邦人と手を結び、彼らから経済的な恩恵を受けることであった。それは互いに縁を結ぶことにより実現した。その結果、民は結婚相手の神々を礼拝するようになり、真の神を後ろに捨て去ってしまった。多くの民はこの方法を受け入れて生活をしていたので、エズラは(エズラ910章)で、結婚した相手と子どもを去らせる思い切った改革を実行した。しかし民が本当により頼むべき大樹は、民をエルサレムに帰して下さる神であり、民に霊的・経済的な祝福を与えて下さる神であった。

2つめは安息日に買い物をしないこと。律法には安息日にどんな仕事もしてはいけないと命じられている。その仕事の中には物を売買することも含まれている。ネヘミヤ13章を見ると、安息日にエルサレムに商売人がやってきて物を売っている者たちがいた。そこでネヘミヤはその悪事を止めるように指導している。先祖もそのような悪事を続けていたので、神の怒りと災いが下ったと言っている。安息日の本来の意義は身も心も神の前に休んで神を礼拝すること。そのために仕事をストップするのである。

3つめは、7年ごとに土地の耕作を止めて、負債を赦すこと。この規定は(エジプト231011、レビ254、申命記1512)に書かれている。(レビ25:4~7)で7年目に落穂から実が実った作物は畑の持ち主が収穫するのではなく、奴隷や在留異国人のために残しておくことが命じられている。(申命記1512)では債権者は債務者の負債を全て帳消にすることが命じられている。この神の命令がおろそかにされていたので、債務者は子どもを奴隷として売る事態が起こっていた。(ネヘミヤ5) この規定を民が守ることにより、経済的に貧しい者たちが助けられた。 

 

  • 礼拝の車輪

また民は公の礼拝の車輪を回す契約を結んだ。礼拝に関する契約は、神殿礼拝のための3分の1シュケルの捧げものをすること。祭壇用の薪を携えてくる順番を決めた。各種の初なりの捧げ物をすること。10分の1の捧げ物をすること。

捧げものによって礼拝のための備品を準備することができ、また礼拝奉仕者への報酬が支払われた。礼拝は捧げものによって成立する。13章を見ると、民がレビ人に10分の1の捧げ物をしなくなったので、レビ人は神殿の奉仕ができなくなり、畑仕事に精を出していたことが記されている。レビ人は民から10分の1の捧げ物を受け取った時に、受け取った物の10分の1を神殿に納めていた。それは祭司たちが受け取ることになっていた。つまり民が捧げものをおろそかにすることにより、神殿奉仕者が受け取るべきものを受け取ることができなくなり、神殿礼拝が行われなっていた。その結果民も礼拝に参加することができなる悪循環が起こっていた。

パウロも(1コリント9章)で同じことを言っている。「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」という律法を引用し、音のために働く人たちが教会の捧げものから生活の糧を得るべきことを解き明かしている。「くつこ」は「口籠(くち・かご)」と書く。文字通り、雄牛が脱穀しているものを食べないように、口を閉じさせるため。この律法を人に適応すると、働く人が報酬を受けずに働くことになる。働き人がそのような扱いを受けると「もう嫌」と言いたくなる。働く人にはその働きに見合う報酬が与えられるべき。

民がこの契約を守ることにより、民全体(祭司とレビ人も含めた者たち)が神殿礼拝をなすことができたのである。

 

終わりに

民は集会の中で民は個人生活を回す車輪と公の礼拝の車輪を回す契約を結んだ。生活と礼拝は2つの車輪であり、その車輪は繋がっている。2つの両輪で走る自転車のようなものである。どちらかの車輪がパンクしたならば、自転車は使い物にならなくなる。パンクしたままの自転車で走り続けるならば、タイヤだけでなくホイールが壊れてしまう。だから私たちは生活と礼拝の車輪を回していかなければいけない。それは生活と礼拝の両輪を回していくためには、信仰決心が必要である。民が数ある律法の中で、今朝の御言葉の契約を堅く結んだのは、民がそれらをないがしろにしてきたことが分かったからだ。何故分かったのというと、毎日毎日行われる集会の中で、律法と自分たちの姿を照らし合わせることができたからである。神の御言葉を聞く目的は、神の御言葉を行う決心をして、それを実際に行うためである。信仰生活の中で堅い決心というものは、公の礼拝でなされていく。その決心が私たちの個人生活を変え、公の礼拝を変えていく。礼拝や聖会に出席して、その中で決心したことは、神様があなたになして欲しいと願ったことだ。だからその決心を貫いて欲しい。途中で投げ出さないで欲しい。

 

2019年9月11日 (水)

読んだ本の紹介 藤沢周平著『蝉しぐれ』(文春文庫)

 藤沢周平氏の代表作と言っても良いでしょう。海坂藩の少年・牧文四郎の成長を描いた作品です。中心となっているテーマは幼馴染のお福との結びつきですが、剣士としての彼の成長も読ませてくれます。

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2019年9月 9日 (月)

2019年9月8日(日)主日礼拝説教

説教タイトル:「集会の中で明らかにされた真理」

説教テキスト:ネヘミヤ記91節〜38

 

初めに

 8章では、7月から始まる祭りの中で、祭りの中で神の御業をお祝いするべき時なのに、民は自分の罪を悲しんだ。民の様子を見た指導者たちは、今は祭の最中だから神を喜ぶように指導した。7月最後の祭りは仮庵の祭りで715日~21日まで行われた。今朝の聖書箇所は仮庵の祭りが終わった2日後の724日の記事。祭りを終えた民は家に帰ってもよかったのであるが、集会を継続させている。そこに民の神様に対する熱心さを見ることができる。(913)に集会の様子が書かれている。集会の内容は、罪の悔い改め、律法の朗読、礼拝。その後に指導者が旧約聖書の初めから現在に至るまでの歴史をダイジェスト版で告白している。その告白の中で彼らは大切な事に気づいている。

 

  • 神の憐れみと恵み

 (9537)の告白の中で最も大切な事柄は神の憐れみと恵みである。それはいかなる状況にあっても変わることがないもの。神は天地を創造し、天地を保っておられる方。管理人がいない空き地や家は荒れ放題になる。しかし神はご自身が造られた天と地を常に管理しておられ、人間が住む環境を常に快適にしておられる。また神はアブラハムを選んで救いの御計画を成就されたお方。アブラハムは人間的な弱さを持っていたが、彼は神の約束を信じて人生を全うした。彼の信仰によって、イスラエルの民が増え広がり、彼らがカナンの地に住むという神の御計画は成就した。また神は民の叫びに応えて下さり、民を奴隷から解放し、民を神を礼拝する民として荒野の旅を守って下さったお方。神は荒野の道中で民に必要な全てのものを民に与えられた。神は民を雲の柱・火の柱で40年間導かれた。神のおかげで、民の着物は擦り切れず、足も筋肉痛になることもなかった。また神は民の霊的な必要を満たす神の御言葉(十戒)を与えて下さった。神は彼らの罪を赦し、怒ること遅くし、彼らを見捨てなかった。民がカナンの地に住むようになってからは、神はその地で収穫できる食べ物を彼らに与えられ、彼らの住むべき土地を広げて下さった。また王国時代には、神は背いた民を懲らしめるために一時的に敵の手に渡されたが、民が叫ぶと敵から解放して下さった。しかし民は幾度も背くので、神はその度に預言者を遣わして下さった。しかし民は次々に預言者を退け、殺していくが、神は次々に預言者を遣わされた。民は今まで自分たちがそのような神の憐れみと恵みを受け続けながら今に至っている事を悟った。

 

  • 民の不信仰

 その神の憐れみと恵みに対して、民は神に背いた。民が犯した罪は単なる悪ではない。神が共におられ、神が用意されたことに対する悪である。つまり民は神に導かれる事を嫌い、自分たちが歩きたい方向に勝手に歩き出した。民の不信仰は肉体と霊に関するものに分けることができる。

 肉体的な事柄は神が与えた奇跡に心に留めないこと。神は奇跡によって、民の肉体に必要なものを与えられた。神の奇跡によって紅海を渡らせて頂き、迫りくるエジプト軍の攻撃から彼らの体を守られた。また神の奇跡によって、民には日毎に新鮮なマナが与えられ、水も与えられた。神は民を継続して導いて下さっているのであるが、民の感謝は一時的であり、(感謝すらしない時もある)、継続して神に感謝することはしなかった。神の数々の奇跡は彼らの心に留まることはなかった。心に神の御業が留まっていないので、彼らの心からは神に対する不信が生まれてくる。その結果、民は自分を守り導く雲と火の柱(神の導き)を捨て、奴隷であったエジプトに帰りたいと言い出した。

 霊に関する不信仰は、金の子牛を神々として祭りをしたこと、律法を捨てたこと、幾度も遣わされた預言者たちの声に耳を傾けずに、彼らを殺したこと。神は律法を守るならば、民霊肉の祝福を約束して下さった。しかし彼らは神の律法を捨てた。彼らは自分たちに与えられた祝福を自ら溝に捨てた。

 仮庵の祭り後も集会を継続していた民は、自分たちの先祖と自分たちはそのようにして今に至るまで神に背き続けてきたことに気づいた。その結果、今自分たちは他国の奴隷となり苦難を受けていることに気づいた。

 

終わりに

 「集会の中で明らかにされた真理」について見てきた。民はエズラに導かれ神殿を完成させ、さらにネヘミヤに導かれ神殿を囲む城壁を完成させた。新しい神殿と城壁は民にとって新鮮なものに映ったことだろう。しかしエズラは民を神のみ言葉に向けさせていた。もっと正確に言うならば、何故今自分たちが苦しんでいるのかを、聖書に記されている神の憐れみと民の罪から見ていった。その結果、民は自分たちが神の前にどのような歩みをしてきたのかを悟った。

 神は私たちの過去・現在・未来に渡って生きたいと願っておられる。私たちの過去に神が生きられるとは、神の言葉によって私たちが神の前にどのような生き方をしてきたのかを悟ること。神が私たちの現在と未来に生きるとは、神のみ言葉で過去から決別した生き方をすること。悔い改める(方向転換する)こと。神に従うとは過去から未来に渡って神に従うこと。過去の罪を清算していないならば、神が用意されている未来に向かって生きることはできない。神に罪を犯したイスラエルの民が見ていたことは今の事だけであったが、エズラと共に悔い改めた民は神が用意された過去から未来に渡ることを見ていた。それはどのような時に体験するのか。それは集会や礼拝の中で体験していく。集会を大切にしないと、イスラエルの民と同じ様になる。今飲む水がないことしか見えなくなり、神(の言葉)を後ろに捨てる様になる。集会を大切にして欲しい。集会で指導者が語るみ言葉に沿った生き方をして欲しい。集会の中で神様の恵みと自分の罪に気づいて欲しい。

 

 

2019年9月 5日 (木)

東北教区 女性部集会

9月3日(火)は東松島AGセンターで東北教区・女性部の集いが行われました。センターは2011年3月11日以降地域の物質的・精神的な支援を継続して行っている場所です。午前は礼拝を捧げ、お昼を共に食べ、午後は松島湾を遊覧船で観光しました。

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2019年9月 4日 (水)

教会創立61周年記念礼拝

9月1日(日)の礼拝は教会創立61周年を記念する礼拝を行いました。メッセージをして下さったのは溝の口キリスト教会の仁井田先生。ヨシュア記4章から今までの神様の御業を忘れず、これからも神様が共におられ、戦に勝利を得させて下さる、力強い勧めをして下さいました。礼拝後には、教会の皆様が持ち寄って下った料理を頂きました。教会の皆様の喜びが溢れた時となりました。神様と共に、また教会と共に生きる人生にはドラマと喜びがあります。私たちの教会に来て仲間になりませんか。あなたは一人ではありません。

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2019年9月 2日 (月)

2019年8月25日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「情熱に溢れて」

説教テキスト:ネヘミヤ8章1節〜18

 

初めに

7の月が城壁完成の翌月とすれば、エズラ登場は13年ぶり。今朝の聖書箇所では、13年間エズラがなしてきたことが実を結んでいること見ることができる。今朝の聖書の出来事は、約紀元前445年に起こった出来事である。ネヘミヤはイスラエルの民である。イスラエルの民は神から特別に選ばれた民族である。神は彼らに約束を与えられた。神の言葉を守るならば霊的・経済的な祝福が与えられ、反対に神の言葉を捨てるならば国は敵国に滅ぼされ裁きが下る。イスラエルは神の約束を捨てたので、北イスラエルは紀元前740年代頃にアッシリヤに滅ぼされ。南ユダは紀元前597年にバビロンに滅ぼされてしまった。しかし神は、捕囚から70年後にイスラエル民がエルサレムに帰還する預言されていた。そのことは本当に実現し、イスラエルの民は捕囚先のペルシャから帰還し、神殿と神殿の周りに城壁を建てた。今朝の聖書箇所ではもう1つの奇跡が起こっている。それは情熱に溢れる集会をしていること。

 

  • み言葉を求める情熱

城壁完成後に民がなしたことはエズラに律法を持ってくるように求めたこと。注意すべきことは、エズラが民を招集して、彼が律法を持ってきたのではなく、民が自主的に集まり、エズラに律法を持ってくるように要求したことである。この民の情熱が集会を導くことになる。民の情熱はエズラに影響を与えていき、集会は導かれていった。エズラは民の要望に答え、彼は同労者と共に民の前に立ち、朝日が昇る時から正午まで、律法を宣言した。民の律法を求める情熱は、民の態度に溢れており、エズラが律法の書を開いた時、民は起立して神の言葉に敬意を払った。その民の態度を受けて、エズラは神を賛美した。また民は彼の賛美に応答して、民は手を挙げて「アーメン」を叫び、地にひれ伏して神を礼拝した。集会は民が静かに律法を聞くことで終わっていない。民とエズラの情熱が互いに呼応しながら神を心から礼拝する集会となっている。

 

  • み言葉に応答する情熱

878)で、エズラの同労者とレビ人が民に律法を読んで、その解き明かしをして、民に律法を悟らせた。その後民は泣いている。何故民は泣いたのか。民が泣いた理由は、律法が求めていることと自分の状態に大きな開きがあったから。または自分たちの先祖たちが律法を無視して神から裁きを受けてきたことを知ったから。いずれにしても民は律法を自分たちの問題として受け取った。神殿と城壁が完成したので、民は城壁が出来たので、今自分たちは安全エリヤに入っていると考えたのではない。律法を聞いて、自分たちの罪を示され、その罪を嘆き悲しんだ。エズラ10章には、外国の妻子たちとの絶縁をした記事が書かれているが、エズラと同労者たちは民に罪の悔い改めを迫ってきたことの実を結んでいる結果。

民は神のみ言葉を聞いた時に、罪を悔い改める生活することを訓練されてきた。しかしその時は71日であり、7月は聖なる月。1日目は新月の祭り(レビ2323-25)、10日の贖罪日(レビ232632)、15日目~21日目の仮庵の祭り(レビ233336)などの祭りがあった。その祭りは神がなされた事を喜ぶ時であったので、指導者は民が悲しむことを止めて、喜ぶように勧めた。喜ぶべき時に、悲しんだ民は場違いな事をしたとも言える。しかし場違いな事ができる程に彼らは神の言葉に敏感であった。

 

  • み言葉を実行する情熱

7月1日の次の日、氏族のリーダー、祭司、レビ人たちは律法を学ぶためにエズラの所にやってきた。彼らのこの行動は彼らの日常を記しており、彼らはエズラから定期的に学び、学んだ事を民に教えていた。彼らはみ言葉を学んでいる時に、715日から7日間行われる仮庵の祭りの記事が記されているのを見た。そこで彼らは自分たちが学んだ事を実行に移す。彼らは民の中に出て行って、全ての民が仮庵の祭りの準備するように勧め、祭りを行った。白けている民は一人もいなかったはずだ。民全員が祭りを行ったことにより、神が民に大きな喜びを与えて下さった。仮庵の祭りはエジプトを出た民が荒野での生活を覚える祭りである。民は祭りの間、荒野で仮の宿を作って日々を過ごした。仮の宿を覚える祭りではなく、神が自分たちの必要をすべて満たして下さったことを覚える祭り。仮庵の祭りを祝った民にとって、祭りは2重の意味があった。1つは先祖が体験した神の御業を覚える祭りであり、もう1つは今自分たちが体験している第2の出エジプトから解放されて神の民として生きることができる神の恵みを覚える祭りである。この2つの喜びが重なって民の喜びは大きなものになった。その民の喜びがエズラに伝わっていった。律法には書かれていないが、彼は祭りの期間中律法を朗読することをなしていった。

 

終わりに

エズラのイスラエル共同体での働きの実は、民と彼の弟子たちが神のみ言葉に自主的に応答できるように造り変えられたこと。指導者から言われたで動くのではない。人にやらされているのでもない。民の自主性が礼拝を情熱にし、民の情熱に引き込まれてエズラは礼拝の奉仕をした。

私たちの信仰が情熱に溢れるためには、指導者が勧める神のみ言葉に従ってみることだ。その中で私たちの中に自主性が養われていく。ある牧師が子どもをクリスチャンとして育てる際の証しを聞いた。その子どもは幼い頃手のかからない子どもであったが、社会人になった時に、親に言ってきたことがあった。今まで自分は親の言う事をなんでも聞いてきたが、これからは親の言うことは聞かずに、自分で何でも決めていきたい。その牧師は子どもに答えた。自分は今まで自分の思い通りに子どもを育てたのではない。神様が願う通りに育ててきた。だからこれからあなたは自分の意志で神に従っていくのだ。あなたは今まで親の神を信じてきたかもしれないが、これからは自分の神を信じていきなさい。教会の礼拝に来ることもあなたの意志でするべきだ。その子どもは最終的には自分の意志で献身をして牧師になった。私たちの信仰が情熱に溢れるためには、信仰の思春期を体験することである。それまでは指導者の言うことを素直に聞いて行ってきたが、思春期を通過した大人の信仰は自分の意志で神の言葉に喜んで従うことである。大人の信仰に成熟した証拠は、指導者に対して霊的な餓え渇きを願うことによって表されていく。

2019年8月18日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「悪から身を守れ」

説教テキスト:ネヘミヤ71節〜73節(1節~6節)

 

初めに

あおり運転から身を守る方法がネットで紹介されていた。あおり運転をされた場合、ハザードランプを道路の左側に停車させる。これで相手の70パーセントは逃げていく。相手が車から降りて、自分の車に近寄ってきた場合には、自分の車のカギは必ずロックし、窓は決死して開けない。相手と目を合わせてもいけない。これで自分の身の安全を確保できる。相手と話してもまともに話し合うことはできないと思った方がよい。その次には警察に電話をし、警察が到着するまで静かに待ち、警察に対応してもらうこと。

今朝のテキストでネヘミヤは悪と真っ向から立ち向かっているのではなく、悪から身を守ることをしている。

 

  • エルサレムを治める者を任命

城壁は城壁に門に扉をつけることで完成した。しかし門をつけただけではエルサレムの治安を守ることにはならない。ネヘミヤは町を守るために民を組織化していく。城壁で防備の司令塔の役割を果たした門は北の門。その門の管理が任せられたのはハナニとハナニヤ。彼らはネヘミヤによって任命された。彼らが選ばれた理由は、彼らが忠信であり、神を恐れる者であったから。ネヘミヤはエルサレムの治安を守るリーダーを選ぶ時に、屈強なプロレスラーの様な者を選ぶことをせず、神に対して忠信であり、神を恐れる者を選んだ。ネヘミヤは神に熱心なリーダーによってエルサレムの治安が守られることを願っていた。選ばれた2人は開門と閉門の時間を短くした。通常、門の開閉時間は日が昇ってから日が沈むまで。しかし二人は日がかなり高くなってから開門し、開門している時間を短くした。その理由は城壁内の住民が活動できる状態になってから開門し、住民全員で敵からの攻撃に備えた。また選ばれた2人は、番兵を城壁内の要所〃に立てて警備を強化した。

 

  • 住民の名簿を調べる(系図を記載する)

この事を行った後に、神はネヘミヤに住民の名簿を調べる思いを与えて下さった。彼は、尊い人々、つかさ、民を用いて住民の名簿を調べさせた。(78~)のリストはエズラ2章の帰還者リストとほぼ同じもの。ローマ帝国は属州に対して住民登録をし、登録された住民から税金を取り、彼らを他国との戦争に駆り出した。ダビデは住民登録をする際に不純な動機でそれを実行し、神から裁きを受けた。住民登録自体は罪ではない。神はそれをどんな動機で行っているのかを見られるお方。ネヘミヤの動機は城壁内に神を礼拝する共同体を形成するため。ネヘミヤが城壁を完成させた時、ユダヤ州に住むエルサレムの民は約5万~10万といわれている。城壁の広さに対して警備の数が圧倒的に少ないので、住民登録した者の中から民を城壁内に移動させるため。それは11章で行われている。ネヘミヤは総督として、ハナニとハナニヤと共にエルサレム共同体の治安と行政の仕事を担っていた。どのような町づくりをするのかということは彼らの手によって勧められていった。8章になるとエズラが登場し、民は広場に集まり律法を朗読することをしている。アズラは民が礼拝する民として生きるために、神の律法を教えるリーダーたちをユダヤ州に派遣し、民に神の言葉を教えていった。ネヘミヤとエズラの働きは異なっているが、二人の働きによってイスラエルは神を礼拝する共同体として建て上げられていった。

 

終わりに

・「悪から身を守れ」を見てきた。この地上で悪の勢力から最も攻撃を受けるコミニティは教会。何故なら教会は神の働きをしているから。悪魔は何とかして神の働きを阻止しようと攻撃をしかけてくる。(エペソ6:11)には「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」と書かれている。

今朝聖書箇所での神の働きはネヘミヤから始まっている。もしネヘミヤが総督のとして働くことがなければ、エルサレムは敵からの攻撃をまともに受けていた。彼が総督の働きをなしていったので、エルサレムは神を礼拝する共同体として建て上げられていった。牧師が牧師本来の働きをすることによって神の教会は悪から守られていく。故に、教会員は牧師のために最低5分祈って欲しい。これが1つの勧め。

2つ目の勧めは、何か大切な事を任せられる人になって欲しい。ネヘミヤはエルサレムの治安をハナニとハナニヤに任せた。また彼は住民登録を尊い人々とつかさおよび民を用いて行っていった。ネヘミヤはなんでもかんでも一人で行うリーダーではなかった。良いリーダーは任せることができるリーダー。誰でもリーダーになることはできる。全ての人に機会が与えられている。しかし神の様に対する情熱を持ち、積極的に奉仕をする信仰がなければリーダーになることはできない。またいつも教会の側にいなければ大切な事を任せることはできない。職場で大切な働きを担っている様に、教会でも大切な働きを担う者となって欲しい。

 

 

 

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