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2019年9月 9日 (月)

2019年9月8日(日)主日礼拝説教

説教タイトル:「集会の中で明らかにされた真理」

説教テキスト:ネヘミヤ記91節〜38

 

初めに

 8章では、7月から始まる祭りの中で、祭りの中で神の御業をお祝いするべき時なのに、民は自分の罪を悲しんだ。民の様子を見た指導者たちは、今は祭の最中だから神を喜ぶように指導した。7月最後の祭りは仮庵の祭りで715日~21日まで行われた。今朝の聖書箇所は仮庵の祭りが終わった2日後の724日の記事。祭りを終えた民は家に帰ってもよかったのであるが、集会を継続させている。そこに民の神様に対する熱心さを見ることができる。(913)に集会の様子が書かれている。集会の内容は、罪の悔い改め、律法の朗読、礼拝。その後に指導者が旧約聖書の初めから現在に至るまでの歴史をダイジェスト版で告白している。その告白の中で彼らは大切な事に気づいている。

 

  • 神の憐れみと恵み

 (9537)の告白の中で最も大切な事柄は神の憐れみと恵みである。それはいかなる状況にあっても変わることがないもの。神は天地を創造し、天地を保っておられる方。管理人がいない空き地や家は荒れ放題になる。しかし神はご自身が造られた天と地を常に管理しておられ、人間が住む環境を常に快適にしておられる。また神はアブラハムを選んで救いの御計画を成就されたお方。アブラハムは人間的な弱さを持っていたが、彼は神の約束を信じて人生を全うした。彼の信仰によって、イスラエルの民が増え広がり、彼らがカナンの地に住むという神の御計画は成就した。また神は民の叫びに応えて下さり、民を奴隷から解放し、民を神を礼拝する民として荒野の旅を守って下さったお方。神は荒野の道中で民に必要な全てのものを民に与えられた。神は民を雲の柱・火の柱で40年間導かれた。神のおかげで、民の着物は擦り切れず、足も筋肉痛になることもなかった。また神は民の霊的な必要を満たす神の御言葉(十戒)を与えて下さった。神は彼らの罪を赦し、怒ること遅くし、彼らを見捨てなかった。民がカナンの地に住むようになってからは、神はその地で収穫できる食べ物を彼らに与えられ、彼らの住むべき土地を広げて下さった。また王国時代には、神は背いた民を懲らしめるために一時的に敵の手に渡されたが、民が叫ぶと敵から解放して下さった。しかし民は幾度も背くので、神はその度に預言者を遣わして下さった。しかし民は次々に預言者を退け、殺していくが、神は次々に預言者を遣わされた。民は今まで自分たちがそのような神の憐れみと恵みを受け続けながら今に至っている事を悟った。

 

  • 民の不信仰

 その神の憐れみと恵みに対して、民は神に背いた。民が犯した罪は単なる悪ではない。神が共におられ、神が用意されたことに対する悪である。つまり民は神に導かれる事を嫌い、自分たちが歩きたい方向に勝手に歩き出した。民の不信仰は肉体と霊に関するものに分けることができる。

 肉体的な事柄は神が与えた奇跡に心に留めないこと。神は奇跡によって、民の肉体に必要なものを与えられた。神の奇跡によって紅海を渡らせて頂き、迫りくるエジプト軍の攻撃から彼らの体を守られた。また神の奇跡によって、民には日毎に新鮮なマナが与えられ、水も与えられた。神は民を継続して導いて下さっているのであるが、民の感謝は一時的であり、(感謝すらしない時もある)、継続して神に感謝することはしなかった。神の数々の奇跡は彼らの心に留まることはなかった。心に神の御業が留まっていないので、彼らの心からは神に対する不信が生まれてくる。その結果、民は自分を守り導く雲と火の柱(神の導き)を捨て、奴隷であったエジプトに帰りたいと言い出した。

 霊に関する不信仰は、金の子牛を神々として祭りをしたこと、律法を捨てたこと、幾度も遣わされた預言者たちの声に耳を傾けずに、彼らを殺したこと。神は律法を守るならば、民霊肉の祝福を約束して下さった。しかし彼らは神の律法を捨てた。彼らは自分たちに与えられた祝福を自ら溝に捨てた。

 仮庵の祭り後も集会を継続していた民は、自分たちの先祖と自分たちはそのようにして今に至るまで神に背き続けてきたことに気づいた。その結果、今自分たちは他国の奴隷となり苦難を受けていることに気づいた。

 

終わりに

 「集会の中で明らかにされた真理」について見てきた。民はエズラに導かれ神殿を完成させ、さらにネヘミヤに導かれ神殿を囲む城壁を完成させた。新しい神殿と城壁は民にとって新鮮なものに映ったことだろう。しかしエズラは民を神のみ言葉に向けさせていた。もっと正確に言うならば、何故今自分たちが苦しんでいるのかを、聖書に記されている神の憐れみと民の罪から見ていった。その結果、民は自分たちが神の前にどのような歩みをしてきたのかを悟った。

 神は私たちの過去・現在・未来に渡って生きたいと願っておられる。私たちの過去に神が生きられるとは、神の言葉によって私たちが神の前にどのような生き方をしてきたのかを悟ること。神が私たちの現在と未来に生きるとは、神のみ言葉で過去から決別した生き方をすること。悔い改める(方向転換する)こと。神に従うとは過去から未来に渡って神に従うこと。過去の罪を清算していないならば、神が用意されている未来に向かって生きることはできない。神に罪を犯したイスラエルの民が見ていたことは今の事だけであったが、エズラと共に悔い改めた民は神が用意された過去から未来に渡ることを見ていた。それはどのような時に体験するのか。それは集会や礼拝の中で体験していく。集会を大切にしないと、イスラエルの民と同じ様になる。今飲む水がないことしか見えなくなり、神(の言葉)を後ろに捨てる様になる。集会を大切にして欲しい。集会で指導者が語るみ言葉に沿った生き方をして欲しい。集会の中で神様の恵みと自分の罪に気づいて欲しい。

 

 

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