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2019年9月 2日 (月)

2019年8月25日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「情熱に溢れて」

説教テキスト:ネヘミヤ8章1節〜18

 

初めに

7の月が城壁完成の翌月とすれば、エズラ登場は13年ぶり。今朝の聖書箇所では、13年間エズラがなしてきたことが実を結んでいること見ることができる。今朝の聖書の出来事は、約紀元前445年に起こった出来事である。ネヘミヤはイスラエルの民である。イスラエルの民は神から特別に選ばれた民族である。神は彼らに約束を与えられた。神の言葉を守るならば霊的・経済的な祝福が与えられ、反対に神の言葉を捨てるならば国は敵国に滅ぼされ裁きが下る。イスラエルは神の約束を捨てたので、北イスラエルは紀元前740年代頃にアッシリヤに滅ぼされ。南ユダは紀元前597年にバビロンに滅ぼされてしまった。しかし神は、捕囚から70年後にイスラエル民がエルサレムに帰還する預言されていた。そのことは本当に実現し、イスラエルの民は捕囚先のペルシャから帰還し、神殿と神殿の周りに城壁を建てた。今朝の聖書箇所ではもう1つの奇跡が起こっている。それは情熱に溢れる集会をしていること。

 

  • み言葉を求める情熱

城壁完成後に民がなしたことはエズラに律法を持ってくるように求めたこと。注意すべきことは、エズラが民を招集して、彼が律法を持ってきたのではなく、民が自主的に集まり、エズラに律法を持ってくるように要求したことである。この民の情熱が集会を導くことになる。民の情熱はエズラに影響を与えていき、集会は導かれていった。エズラは民の要望に答え、彼は同労者と共に民の前に立ち、朝日が昇る時から正午まで、律法を宣言した。民の律法を求める情熱は、民の態度に溢れており、エズラが律法の書を開いた時、民は起立して神の言葉に敬意を払った。その民の態度を受けて、エズラは神を賛美した。また民は彼の賛美に応答して、民は手を挙げて「アーメン」を叫び、地にひれ伏して神を礼拝した。集会は民が静かに律法を聞くことで終わっていない。民とエズラの情熱が互いに呼応しながら神を心から礼拝する集会となっている。

 

  • み言葉に応答する情熱

878)で、エズラの同労者とレビ人が民に律法を読んで、その解き明かしをして、民に律法を悟らせた。その後民は泣いている。何故民は泣いたのか。民が泣いた理由は、律法が求めていることと自分の状態に大きな開きがあったから。または自分たちの先祖たちが律法を無視して神から裁きを受けてきたことを知ったから。いずれにしても民は律法を自分たちの問題として受け取った。神殿と城壁が完成したので、民は城壁が出来たので、今自分たちは安全エリヤに入っていると考えたのではない。律法を聞いて、自分たちの罪を示され、その罪を嘆き悲しんだ。エズラ10章には、外国の妻子たちとの絶縁をした記事が書かれているが、エズラと同労者たちは民に罪の悔い改めを迫ってきたことの実を結んでいる結果。

民は神のみ言葉を聞いた時に、罪を悔い改める生活することを訓練されてきた。しかしその時は71日であり、7月は聖なる月。1日目は新月の祭り(レビ2323-25)、10日の贖罪日(レビ232632)、15日目~21日目の仮庵の祭り(レビ233336)などの祭りがあった。その祭りは神がなされた事を喜ぶ時であったので、指導者は民が悲しむことを止めて、喜ぶように勧めた。喜ぶべき時に、悲しんだ民は場違いな事をしたとも言える。しかし場違いな事ができる程に彼らは神の言葉に敏感であった。

 

  • み言葉を実行する情熱

7月1日の次の日、氏族のリーダー、祭司、レビ人たちは律法を学ぶためにエズラの所にやってきた。彼らのこの行動は彼らの日常を記しており、彼らはエズラから定期的に学び、学んだ事を民に教えていた。彼らはみ言葉を学んでいる時に、715日から7日間行われる仮庵の祭りの記事が記されているのを見た。そこで彼らは自分たちが学んだ事を実行に移す。彼らは民の中に出て行って、全ての民が仮庵の祭りの準備するように勧め、祭りを行った。白けている民は一人もいなかったはずだ。民全員が祭りを行ったことにより、神が民に大きな喜びを与えて下さった。仮庵の祭りはエジプトを出た民が荒野での生活を覚える祭りである。民は祭りの間、荒野で仮の宿を作って日々を過ごした。仮の宿を覚える祭りではなく、神が自分たちの必要をすべて満たして下さったことを覚える祭り。仮庵の祭りを祝った民にとって、祭りは2重の意味があった。1つは先祖が体験した神の御業を覚える祭りであり、もう1つは今自分たちが体験している第2の出エジプトから解放されて神の民として生きることができる神の恵みを覚える祭りである。この2つの喜びが重なって民の喜びは大きなものになった。その民の喜びがエズラに伝わっていった。律法には書かれていないが、彼は祭りの期間中律法を朗読することをなしていった。

 

終わりに

エズラのイスラエル共同体での働きの実は、民と彼の弟子たちが神のみ言葉に自主的に応答できるように造り変えられたこと。指導者から言われたで動くのではない。人にやらされているのでもない。民の自主性が礼拝を情熱にし、民の情熱に引き込まれてエズラは礼拝の奉仕をした。

私たちの信仰が情熱に溢れるためには、指導者が勧める神のみ言葉に従ってみることだ。その中で私たちの中に自主性が養われていく。ある牧師が子どもをクリスチャンとして育てる際の証しを聞いた。その子どもは幼い頃手のかからない子どもであったが、社会人になった時に、親に言ってきたことがあった。今まで自分は親の言う事をなんでも聞いてきたが、これからは親の言うことは聞かずに、自分で何でも決めていきたい。その牧師は子どもに答えた。自分は今まで自分の思い通りに子どもを育てたのではない。神様が願う通りに育ててきた。だからこれからあなたは自分の意志で神に従っていくのだ。あなたは今まで親の神を信じてきたかもしれないが、これからは自分の神を信じていきなさい。教会の礼拝に来ることもあなたの意志でするべきだ。その子どもは最終的には自分の意志で献身をして牧師になった。私たちの信仰が情熱に溢れるためには、信仰の思春期を体験することである。それまでは指導者の言うことを素直に聞いて行ってきたが、思春期を通過した大人の信仰は自分の意志で神の言葉に喜んで従うことである。大人の信仰に成熟した証拠は、指導者に対して霊的な餓え渇きを願うことによって表されていく。

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