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2019年9月30日 (月)

2019年9月22日(日)オリジナルキャンプメッセージ 朝の巻

説教タイトル:「わたしを誰というのか」~イエスの弟子として生きる~

説教テキスト:ルカ918節~21

 

初めに

プロのスケートボーダーが老人に返送して、公園でスケボー・デビユーする映像を見てみる。公園にいる若いスケートボーダーたちは、当初老人がスケボーに乗ることはできないと侮っている。しかし老人のものすごいテクニックを見て、スケボーが上手な老人であると思い始める。しかし彼の本当の姿はプロのスケートボーダーであり、公園の人たちはその事に気がついていない。

この世を作られた全知全能の神であるイエス・キリストが人のかたちをとってこの地上に来られた。そのイエスを見た人たちの反応が聖書の福音書に書かれている。地上でイエスがなされた事は、両親に仕えて育ち、30歳になられてから人々を愛され、奇跡を行い、神の国について教え、十字架にかけられ3日目に蘇り、天に帰られたことである。イエスがなされた事を見て、イエスの本当の姿に気が付いた人とそうでない人たちがいた。

 

  • 群衆の証言

イエスが祈っておられた時、そばに12弟子たちがいた。その時イエスは彼らに群衆は自分のことを誰と言っているのかと質問した。弟子たちの答えは、バプテスマのヨハネ、エリヤ、昔の預言者の一人が復活した者、と言っていた。群衆はイエスのことを偉大な預言者の一人であると思っていた。群衆のイエスに対する証言は福音書の中に書かれている。イエスは、ヨセフの子。神を汚す者。大預言者。食をむさぼる者。大酒飲み。罪人の仲間。悪霊のかしら。犯罪人として嘲られ、叩かれた。無罪な者。処刑され殺される者。死んでいなくなった者。人々に対するイエスの評価を見てみると、両極端である。大預言者とアゲアゲされる時もあれば、神が汚す者,食をむさぼる者、大酒飲み、罪人の仲間、悪霊のかしら、犯罪者、死刑を受ける者として下げ下げもされている。死刑を受ける者という判決が下されそうになった時、裁判官ピラトはイエスに無罪宣告を下した。しかし群衆はイエスに死刑を要求し、その要求が通ってしまった。群衆はその時々によって、自分に都合の良い評価をイエスに下していった。自分に都合が良い時には大預言者であり、都合が悪くなるとイエスは死刑という評価を下していった。群衆はイエスにスーパーヒーローになることを期待した。自分たちの生活を豊かにしてくれるスーパーヒーローである。しかしイエスはそれを拒否された。すると群衆はイエスに大きな期待を寄せた分、反対にイエスに大きく絶望し、イエスを死刑することに同意してしまった。

 

  • 弟子ペテロの証言

イエスのペテロに対する答えは、イエスは神のキリストというもの。イエスはペテロの答えを受け入れられた。イエスはペテロが答えた通りの者であった。福音書には悪魔が登場しており、イエスのことを神の子と言い、恐れおののいている。イエスの見た目は30歳の男性であったが、目に見えない本性は神の子であったのである。ペテロは目に見えないイエスの本性を理解することができた。その答えは群衆の答えにはないもの。何故彼がイエスの本性を理解できたのか。それは彼がイエスの招きのお言葉に従って、イエスの弟子として今までイエスに従ってきたから。彼がイエスに従ってくる中で、彼は弟子としてのイエスの側にいてイエスがなされる様々な事を見てきた。イエスのなされる様々な奇跡や癒しを見てきた。イエスが祈る姿を見てきた。イエスがどのように人々と接するのかを見てきた。また彼はイエスによって弟子として訓練を受けてきた。イエスは弟子たちと共に過ごされ、ペテロに個人的な勧め、励まし、教え、警告などを与えられていかれた。その中で彼は弟子として成長していった。彼のイエスは神の子という告白は、イエスが彼を弟子として取り扱って下さる中で生み出された告白。彼の告白後に、イエスは不思議な事を告知された。自分は必ず多くの苦しみを受けて、民の指導者たちに捨てられ、殺され、三日目に蘇ると。それはイエスが神の子として果たされる使命であった。

 

終わりに

「わたしを誰というのか」という問いをイエスは全ての弟子に問いかけておられる。答えは聖書に書いてあるので、正解を言うことは簡単。イエスは正解を聞きたいのではない。ここにいる一人一人がイエスの弟子として生きる中で、イエスというお方を知って欲しいと願っている。イエスが神の子であるという答えが、あなたの弟子体験から生み出されることを願っておられる。群衆は自分の都合で生きる者であるので、イエスを神の子であると知ることはできない。イエスから一時的に恩恵を受けるが、生涯をかけてイエスに従うことはしない。しかし弟子は違う。弟子はイエスの都合で生きる者。弟子は、毎日イエスの側におり、イエスの動きに合わせ、イエスのお言葉を第一に従い、イエスからの訓練を受け、イエスと共に苦しみ、イエスのために自分を捧げていき、イエスの体である教会から離れない、イエスを証ししていく。イエスの弟子として生きるためには、自分(の都合)を捨てなければいけない。「わたしを誰というのか」というイエスの問いかけは、「あなたは群衆として生きているのか、それともわたしの弟子として生きるのか。どちらですか」という問い。あなたはイエスを見ている群衆ですか、それともいつもイエスの側にいる弟子ですか。

 

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