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2019年9月17日 (火)

2019年9月15日(日)恵老記念礼拝説教概要

説教タイトル:「両輪を回す堅い契約」

説教テキスト:ネヘミヤ記101節〜39

 

初めに

 ネヘミヤ記9章では、民は集会の中で行われる礼拝と律法朗読をなしていく中で、今まで自分たちは神の恵みと憐れみを受け続けてきた事と、それに対して今まで自分たちは神に逆らい続けてきた事に気がついた。その2つの事に気づかされた事により、今自分たちは他国に支配され奴隷状態で苦しめられていることにも気がついた。その民の気づきが彼らの未来を開いていく。彼らは堅い契約を結んで生きることを決意する。その契約は神の言葉に基づくものであり、生活と礼拝に関することであった。世の中には2つのものがうまくかみ合っていないとスムーズに動いていかないものがある。人間ならば夫婦や監督と選手、物ならば自転車の車輪や飛行機の両翼、などがある。生活と礼拝もそれと同じであり、両輪を回転させながら前に進んでいくのである

 

  • 生活の車輪

指導者と民は神の律法から特に3つの事柄の契約を結んだ。それは信仰生活の車輪を回す事柄である。1つめは、子どもたちを異邦の民と結婚させないこと。異邦人との結婚は経済的な理由によって引き起こされた。寄らば大樹の陰で、何もたぬペルシャから帰って来た者たちがエルサレムで生き延びるためには、持っている先住の異邦人と手を結び、彼らから経済的な恩恵を受けることであった。それは互いに縁を結ぶことにより実現した。その結果、民は結婚相手の神々を礼拝するようになり、真の神を後ろに捨て去ってしまった。多くの民はこの方法を受け入れて生活をしていたので、エズラは(エズラ910章)で、結婚した相手と子どもを去らせる思い切った改革を実行した。しかし民が本当により頼むべき大樹は、民をエルサレムに帰して下さる神であり、民に霊的・経済的な祝福を与えて下さる神であった。

2つめは安息日に買い物をしないこと。律法には安息日にどんな仕事もしてはいけないと命じられている。その仕事の中には物を売買することも含まれている。ネヘミヤ13章を見ると、安息日にエルサレムに商売人がやってきて物を売っている者たちがいた。そこでネヘミヤはその悪事を止めるように指導している。先祖もそのような悪事を続けていたので、神の怒りと災いが下ったと言っている。安息日の本来の意義は身も心も神の前に休んで神を礼拝すること。そのために仕事をストップするのである。

3つめは、7年ごとに土地の耕作を止めて、負債を赦すこと。この規定は(エジプト231011、レビ254、申命記1512)に書かれている。(レビ25:4~7)で7年目に落穂から実が実った作物は畑の持ち主が収穫するのではなく、奴隷や在留異国人のために残しておくことが命じられている。(申命記1512)では債権者は債務者の負債を全て帳消にすることが命じられている。この神の命令がおろそかにされていたので、債務者は子どもを奴隷として売る事態が起こっていた。(ネヘミヤ5) この規定を民が守ることにより、経済的に貧しい者たちが助けられた。 

 

  • 礼拝の車輪

また民は公の礼拝の車輪を回す契約を結んだ。礼拝に関する契約は、神殿礼拝のための3分の1シュケルの捧げものをすること。祭壇用の薪を携えてくる順番を決めた。各種の初なりの捧げ物をすること。10分の1の捧げ物をすること。

捧げものによって礼拝のための備品を準備することができ、また礼拝奉仕者への報酬が支払われた。礼拝は捧げものによって成立する。13章を見ると、民がレビ人に10分の1の捧げ物をしなくなったので、レビ人は神殿の奉仕ができなくなり、畑仕事に精を出していたことが記されている。レビ人は民から10分の1の捧げ物を受け取った時に、受け取った物の10分の1を神殿に納めていた。それは祭司たちが受け取ることになっていた。つまり民が捧げものをおろそかにすることにより、神殿奉仕者が受け取るべきものを受け取ることができなくなり、神殿礼拝が行われなっていた。その結果民も礼拝に参加することができなる悪循環が起こっていた。

パウロも(1コリント9章)で同じことを言っている。「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」という律法を引用し、音のために働く人たちが教会の捧げものから生活の糧を得るべきことを解き明かしている。「くつこ」は「口籠(くち・かご)」と書く。文字通り、雄牛が脱穀しているものを食べないように、口を閉じさせるため。この律法を人に適応すると、働く人が報酬を受けずに働くことになる。働き人がそのような扱いを受けると「もう嫌」と言いたくなる。働く人にはその働きに見合う報酬が与えられるべき。

民がこの契約を守ることにより、民全体(祭司とレビ人も含めた者たち)が神殿礼拝をなすことができたのである。

 

終わりに

民は集会の中で民は個人生活を回す車輪と公の礼拝の車輪を回す契約を結んだ。生活と礼拝は2つの車輪であり、その車輪は繋がっている。2つの両輪で走る自転車のようなものである。どちらかの車輪がパンクしたならば、自転車は使い物にならなくなる。パンクしたままの自転車で走り続けるならば、タイヤだけでなくホイールが壊れてしまう。だから私たちは生活と礼拝の車輪を回していかなければいけない。それは生活と礼拝の両輪を回していくためには、信仰決心が必要である。民が数ある律法の中で、今朝の御言葉の契約を堅く結んだのは、民がそれらをないがしろにしてきたことが分かったからだ。何故分かったのというと、毎日毎日行われる集会の中で、律法と自分たちの姿を照らし合わせることができたからである。神の御言葉を聞く目的は、神の御言葉を行う決心をして、それを実際に行うためである。信仰生活の中で堅い決心というものは、公の礼拝でなされていく。その決心が私たちの個人生活を変え、公の礼拝を変えていく。礼拝や聖会に出席して、その中で決心したことは、神様があなたになして欲しいと願ったことだ。だからその決心を貫いて欲しい。途中で投げ出さないで欲しい。

 

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