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2019年11月25日 (月)

2019年11月24日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「祈りの真髄」

説教テキスト:詩編123篇1節~4

 

初めに

詩編123篇はネヘミヤ記と深い関係がある。ネヘミヤ記において、イスラエルの民が反対者から城壁再建に対する妨害を受けていた。ネヘミヤ4章で、神は敵の策略を無にするために、民に防衛隊を編成して要所〃に配置するように知恵を与えられた。本編はその過程の中で作者が如何なる祈りをしたのかが書かれている。作者の祈りは祈りの真髄とは何かを教えており、何のために祈るかということを信仰者に教えている。

 

  • 作者の心は敵からの侮りと嘲りで満ちていた。

(ネヘミヤ2:1720)で、ネヘミヤは城壁再建に着手している。ネヘミヤはペルシャ王の側で仕えることが許された献酌官であり、彼は王の許可を受けてエルサレムの城壁再建を許された者である。さらに彼はエルサレムの総督としての地位も与えられていた。それは天地万物を創造された神が彼に与えたものであった。ネヘミヤはペルシャ王の権力と神の権威が与えられていた。彼はそれを用いて城壁再建をするために、民を励ました。民は奮い立って彼の励ましに応答した。いかなる人も彼に与えられた仕事を妨害することはできなかったはずであった。しかしサンバラテ、トビヤ、ガシムが彼の前に立ちはだかった。ネヘミヤと彼らを比較したならば、ネヘミヤの方がペルシャの王からの権威を頂いていた者であったが、既得権からすると彼らの方に利があった。ネヘミヤは彼らに対抗して城壁再建を継続していった。すると彼らはエルサレムの民を執拗に脅してきた。その結果、民の奮い立った心は次第に萎えていき、ネヘミヤから励ましの言葉も消されて消えてしまい、敵からの脅しの言葉が民の心に溢れてきた。民の心から城壁再建の情熱が消え、敵からの脅しの言葉が溢れてきたということは、彼らが危機的な状況に陥ったことになる。何故なら民はエルサレムで神を礼拝し、神の御心である城壁再建をするためにやってきたからだ。民からそのことが失われたならば、民は何のために生きていけばよいか分からなくなってしまった。

 

  • 作者の心は神の憐れみだけを求めていた。

そこで作者は神に祈り求めた。作者が祈りの中で求めていることは神からの憐れみである。作者は他の何物をも求めず、ただ神からの憐れみだけを求めた。作者の祈りは、あれもこれもやってダメだったから、最終的に神に祈るというものではなく。ダイレクトに自分と神との関係から祈り求めた。(123:2)には、「(しもべ)と(はしため)がその主人に目を注ぐように」と書かれている。しもべとは男奴隷であり、はしためとは女奴隷である。彼らが頼ることができるのはその家の主人と女主人しかいない。同様に、作者は自分が置かれている状況の中で、城壁再建のために神にしか頼ることができなかった。その神に目を注ぎ、神の憐れみを求めた。その様に求めなくても、敵からのあざけりと侮りを止めさせるように祈ってもよかった。それらが自分たちから取り除かれれば、元通りに城壁再建をすることができたはず。しかし彼らはそのように祈らなかった。そのように祈らなかったのはある理由がある。それはバビロン捕囚の体験。南ユダが滅ぼされる時に、ユダの民は強国エジプトに頼ろうとした。しかし神は預言者を通してバビロンに降伏して生きるならば幸せに生きることができると預言されていた。バビロンに裁きを降し給えと祈りたいところであったが、神の御心はバビロンに降伏して生きることであり、バビロン捕囚を通して神なされるのであった。民は捕囚体験の中で、自分たちにプラスかマイナスかの信仰ではなく。神の御心がなされるために、純粋に神に頼ることを学んでいった。つまり神の憐れみが自分たちに注がれなければ、城壁は再建されないという信仰を持つことができた。

 

終わりに

「祈りの真髄」について見てきた。詩編123篇の作者の祈りはイエス・キリストにも見出すことができる。イエスはご自身に反対する者たちを厳しく叱責されたが、迫害が止むような祈りを捧げなかった。イエスは迫害の中で、祈りつつ自分に与えられた十字架の道を全うされた。今朝の御言葉から勧めたいことは、神に対する信頼を身に着けること。私たちが自分と自分の周りに、目に見えない城壁であるイエス・キリストを築けば築く程、私たちは世の中から受け入れられなくなる。クリスチャンとして生きる私たちに対する世の人たちの態度や評価はある意味どうでもいい。世の人たちのイエス・キリストの態度は決まっている。迫害があるかどうかも問題ではない。注意すべき事は、周りの人たちの態度や評価で、私たちがイエス・キリストを築くことを止めてしまうこと。そして大切な事は、私たちがイエス・キリストをこの世に築くために、必要なことを神に祈り求めているかどうか。詩編の作者は祈りの真髄に生きていた。あざけりと侮りの中で、城壁再建のために、神に目を向け、神に憐れみを求めた。神の憐れみがなければ、神殿は再建できないという信仰に生きていた。私たちは様々な問題や困難を抱えて生きている。その事に対する解決が与えられるように祈っている。しかしその解決だけで満足し、その中で神に信頼を身につけなければ、キリスト教はご利益宗教になってしまう。最後にイエスの祈りの生涯を告白して祈っていきたい。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び」(へブル578) 「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」(1ペテロ2:2223

宮口幸治著『ケーキが切れない非行少年たち』(新潮新書 2019年)

 紹介する本はテレビでも紹介されており、ベストセラーとなっています。ある先生と話をする機会があり、その先生が関わっている少年が就職した職場で窃盗を繰り返し、職場と住む家を転々とし、何の反省もないとのこと言っていました。その先生の話を聞いて、読んでみようと思ったのがこの本です。著者は児童精神科医であり、医療少年院での勤務を経験し、非行少年の矯正に関わってきた方です。本の中の「どうしても手に負えなくなった子どもたちが、最終的に行き着くところが少年院・・・・教育の敗北」の箇所が衝撃的でした。非行少年たちが抱える問題だけではなく、いかに彼らを更生させていくのかについても書かれています。

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読んだ本 平岩弓枝著『密通』(角川文庫 昭和60年)

市井ものの短編集になります。作品の半分は昭和40年代に書かれた作品であり、男女の人間模様が描かれています。男女の生き方について市井ものの小説を通して学んでいます。

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2019年11月21日 (木)

クリスマス集会の案内

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2019年11月18日 (月)

2019年11月17日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「回復と平和の祈り」

説教テキスト:詩編85篇1節~13

 

初め

詩編85篇はエズラ記とネヘミヤ記と深いつながりがある詩。何故なら、この詩はバビロン捕囚から帰還した時に歌われたもの。捕囚後に起こった出来事は、エズラ記とネヘミヤ記の中に書かれている。詩の中にその時代を生きた作者の体験が歌われている。

 

  • 神の恵みの業を告白(8513

作者は先ず神の恵を告白している。バビロン捕囚からの解放は神の恵みであると告白している。その神の恵みの具体的な表れは、民の不義を赦し、罪を覆い、民に対する怒りと憤りを捨てたことである。つまり神の恵みは民が神に犯した罪を覆うものである。神は民の罪を覆うために、先ず民に裁きを齎した。先祖たちが神を捨てた罪の裁きとして、イスラエル王国を滅ぼし、民を70年間バビロンの捕囚状態に置かれた。民は神の裁きの中で、自分たちの罪と罪の結果の恐ろしさを知らされた。それだけではなく、民の心の中に罪に対する嫌悪感が生じて、神の恵を求めるように心が造り変えられていたとも言える。神の裁きがない状態で、民の罪が赦されたならば、民は自分の罪の恐ろしさを知ることはできず、神の恵をありがたいものとして受け取ることは不可能であった。その神の裁きの後に、神は民に恵みを示された。その証拠がバビロン捕囚からの解放である。民が神の恵みを受け取ったということは、自分たちの罪を認めたことであり、その罪を神が赦されたことを認めたこと。作者はバビロン捕囚からの解放を単なるペルシャからエルサレムへの引っ越しとして受け取っていたのではない。自分たちが神によって霊的に新しくされた状態でエルサレムにやってきたと受け取っていた。作者はバビロン捕囚からの解放の理由をペルシャ王キュロスのおかげとか、自分たちがどれだけ犠牲を払ったということに帰していない。その理由は神の恵みであると告白している。

 

  • 回復のための祈り(85:47

85:47)から、捕囚からエルサレムに帰還した民の中に何らかの問題が起こっていることを知ることができる。作者が神に「憤りをおやめください」と訴えているので、民は神に対して罪を犯したことが分かる。エズラ記とネヘミヤ記の中には、民がどのような罪を犯してきたのかが記されている。エズラ記には、外国女性との結婚と雑婚。ネヘミヤ記には、不当な利息をとっていること、祭司と大祭司が敵と親戚づきあいをしていたこと、レビ人に手当が支払われていなかったこと、安息日に仕事をしていたこと。罪はどのような罪を犯したのは分からない。それに対して作者は神に祈り求めている。作者の祈りから分かることは、神の恵を受けた民に神の怒りが注がれ続けるならば、民は滅んでしまうこと。また、民は神によらなければ喜んで生きていくことができないこと。更に、民に神の慈しみが注がれなければ、民は救われることはできないこと。作者の祈りはそのような思いから生み出されている。その作者の祈りは自分だけの願いではなく神の願いであった。神は民が回復して欲しいと願っておられた。その神の思いを作者は受け取っていた。作者の祈りを通して、神はご自身の思いが民の間に広がることを願っておられた。

 

  • 神の御言葉の宣言(85:813

85:813)は預言者が神から受けた預言の言葉である。これはエズラ記とネヘミヤ記に書かれていないこと。まずこの預言の言葉は全てのイスラエルの民に語られている訳ではなく、限定された人たちに対してである。それは「その民、その聖徒、その心を主に向ける者」(85:8)である。そこには3種類の人たちが書かれているのではなく、1種類の者の特徴を3つに分けて記している。1種類の者とは神から恵を与えられた者である。その者は神の民であり、聖徒であり、自分の心を主に向ける者。神からの恵を与えられた者は自主的にその恵みに応えて生きる。つまり心を主に向けて生きるのである。その者に神の言葉が語りかけられている。その神の言葉を受け取る者には、(85911)に書かれている神のご性質が与えられる。(85911)には、神のご性質がペアになって紹介されている。救いと栄光、いくつしみとまこと、義と平和、まことと義。いくつしみとまこと、義と平和がペアになっている。しかしこれらの中には簡単に結び合わすことができないものが入っている。例えば、義とは神の正しさを表すものである。聖書では生まれながらの人間は不義であると言っている。それに対して平和とは、神と人間が和解した状態を指している。義である神と不義である人間の和解がなされるのである。つまり、神の言葉を受け取る者は、本来生まれながらの人間が持ち合わせていない神のご性質を頂いて生きるのである。さらに、それらを受け取る者は頂くだけではなく、それを開花させて生きる。(8512)に書かれている通りに、その産物を生み出して生きていくのである。それは(ガラテヤ522)に書かれている実である。「5:22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 5:23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」神から恵を与えられ、心を神に向けて生きる者は、神の恵に根差した実が実る。

 

終わりに

「回復と平和の祈り」を見てきた。今朝の箇所から勧めをする。1つの勧めは、神の恵みの業を受け取ること。教会誕生後から現在に至るまで全世界において様々なリバイバルが起こってきた。そのリバイバルに共通することは、神への賛美が生み出されていること。何故神への賛美が生み出されるのかというと、神の恵に基づいた御業が聖徒の中に明らかにされるから。その神の恵が聖徒たちの心の中に満ち溢れてくるので、賛美が生み出されていく。私たちの心の中に賛美が生み出されるためには(賛美ができるような心に作り変えられるためには)、神の恵の業を受け取ること。それがクリスチャンとして生きること。集会出席、祈り、献金、聖書読む、奉仕、証し。これらはどれもクリスチャンとして生きるために必須なこと。しかし私たちが神の恵みを受け取っていなければ、これらは自分を惨めにし、自分を誇る材料にもなる。これらは神の恵みに応答するものである。神の恵みは私たちに心からの賛美を与えて下さる。

2つ目の勧めは、神の恵みを受け取る者には務めがあること。2つの務めがある。1つは祈りの務め。作者は民の回復のためにとりなしの祈りをささげた。つまり作者は民の霊的な状態を判断できた。今の状態ではいけないと思い、神が願っておられる状態に回復されなければいけないと判断した。その判断をもとに祈った。罪は神の恵みを無駄にする。自分に関わる人たち(教会、家庭、遣わされている職場)に罪が蔓延してきたならば、私たちの祈り心は即座に反応すべき。神の恵みを受けた者は、見張り人としての役割が神から与えられている。もう1つの務めは、神の実を実らせる努め。食欲の秋である。柿が美味しい季節。大抵の実は目立つように実っている。実が実る木というのはその木が健康な証拠。実はその木のために存在している訳ではない。実は他者に食べられて、他者を生かすために存在しており。また地に落ちて新しい子孫を残すために存在している。私たちが結ぶ神の実もそうである。実が実るということは、その人が神に繋がっている証拠である。実は伝道のためであり、証しのために用いられる。他の人から見て目立っており、他の人を生かすのである。

高野悦子著『二十歳の原点』(新潮文庫 昭和54年)

著者は大学の時に鉄道自殺をして生涯を閉じました。日記を中学時代からつけており、著書は大学時代につけた日記になります。彼女が大学に入学した時、大学では学園紛争が起こっており、その嵐に彼女は飲み込まれていきます。日を追うごとに、彼女の思想が深まっていき、自殺という言葉が見受けられるようになります。アンネの日記の最後もそうでしたが、自分の最後を記すことができない終わり方が読む者に衝撃を与えます。1970年代のベストセラーであり、その当時の若者たちのバイブルとなった本です。

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2019年11月11日 (月)

2019年11月10日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「最後の改革 ~礼拝改革その3~」

説教テキスト:ネヘミヤ記1323節~31

 

初めに

礼拝改革の最後であり、本日テキストでネヘミヤは最後。最後の改革は雑婚改革と奉仕者改革。2つの問題となっていることは結婚。聖書では結婚の目的が書かれている。世の中では何の目的で結婚をしているのか。あるサイトを見てみたら、多くの人たちが結婚の目的としている事が書かれていた。それは、お金・幸福・孤独からの解放・子どもが欲しい。サイトの管理者曰く、これらは、どれも結婚の目的にはならない。お金:結婚時の年収が結婚後も続くとは限らない。幸福:結婚しても自分は変わらない。孤独からの解放:本当にその人と結婚するのではなく自分の都合。子どもが欲しい:子どもが理由で離婚する人もいる。では結婚の目的とは。そのサイトの管理者が勧めるのは目的のない結婚。目的を持っていると、その目的がかなえられなかった時に、自分の結婚は間違いだったと思う。目的と持たずに相手と共に生きていくこと。しかし聖書の結婚には目的が記されており、ネヘミヤは罪を犯した人たちをその目的に向かって生きさせようとしている。

 

  • 雑婚禁止

ユダの民の中に、アシドド、アンモン、モアブの女性と結婚した者たちがおり、その夫婦に生まれた子どもたちの中に、ユダヤの言葉を話すことができる者と、そうでない者たちがいた。ネヘミヤがこの罪をエルサレム共同体の中に見出した時に、律法の記されている神の言葉と神の歴史によって彼らを戒めた。

神の言葉とは(1325)。(1325)は(申命記7:1~5)の要約。イスラエルの民がカナンの地に住む時に、神はそこに住む異邦の民と婚姻関係を結んでいけないと命じた。その理由、結婚することにより、イスラエルの民は真の神に従うのを止め、神々に従うようになり、民に神の怒りと滅びが臨むから。10章で民は異邦の民と婚姻関係を結ばないと神の前に誓ったのであるが、民はいとも簡単にその誓いを破っていた。

神の歴史とは、ソロモンが犯した罪。ダビデはペリシテ人と戦を重ねて、イスラエルの国からっペリシテの勢力を追い出した。ダビデの王の後を継いだソロモンの時になると、イスラエル国家に戦いがない平和な時が訪れた。外からの戦いがない代わりに、内側からの戦いがあった。その戦にソロモンは無防備であった。その戦とは、彼が娶った外国の妻たちによってもたらされた神々が民の中に入ってきて、真の神に対する信仰が失われていった。その結果神はイスラエル国家を滅ぼした。

ユダヤの子どもたちが母国語を話せないという問題は、親の信仰が次世代に伝わらない問題。次世代の子どもたちが神々に仕える問題。エルサレムに新しい神殿と城壁は存在しているが、そこに住む民は真の神礼拝をしながら、同時に神々を礼拝するという問題。それはイスラエル国家が再び滅びされてしまう歴史が繰り返えされる問題。ネヘミヤは目の前の起こっている問題をそのものとして受け取り、強硬手段を用いて礼拝改革を行った。罪を犯している者を責め、ののしり、懲らしめた。またそのような悪を行わないように、再び神の御名によって誓いを立てさせた。

 

  • 奉仕者改革

大祭司エリアシブの孫がサンバラテの婿となっていた。(134)の祭司エリアシブとは別人。彼がトビアと親戚付き合いをしていた問題に続く不祥事。サンバラテはトビアと共謀し、城壁再建を妨害し、ネヘミヤを暗殺しようとした敵対者。トビアの場合と同じく、大祭司がサンバラテと親戚付き合いをしたならば、敵の総大将が城壁内と神殿の庭に入ることを許してしまい、敵の価値観が城壁内に蔓延することに繋がっていく行為。

大祭司はアロンの家系の者しかその務めをすることができない。大祭司というのは民の代表として神の臨在が溢れる至聖所に入ることを特別に許された者である。大祭司の家系は特別に神に近づくことを許された種族。その家系の者が神に敵対する者と結婚した。その影響はマイナスしかない。祭司職ははく奪される。他の祭司たちと民全体はその結婚をみて失望することだろう。また霊的な指導者がそのような結婚をするならば、自分たちも異邦の女性と結婚してもいいと思う人も現れる。実際そのような事が起こっていた。

この罪に対して、ネヘミヤはサンバラテの婿となっていた大祭司エリアシブの孫を城壁の外に追い出した。礼拝共同体からの追放。腐ったミカンを箱に入れておくと、その側にあるミカンも腐ったミカンの影響を受けていく。だから腐ったミカンは捨てる。同様に、ネヘミヤは大祭司エリアシブの悪を共同体から締め出した。

 

終わりに

「最後の改革 ~礼拝改革その3~」について見てきた。結婚についての勧め。結婚は、神を礼拝しない相手の影響を受けて、それに染まってしまう可能性が非常の大きい。偉大な信仰者ソロモンでさえそれにはまってしまったのであるならば、私たちもそうなるのである。これは牧師の考えではない。新約聖書においても説かれている事。

6:14不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。 6:15キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。 6:16神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。6:17だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触てはならない。触なければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。6:18そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。(2コリント61418)』 上記の下線の箇所は、旧約聖書のイスラエルの民がカナンの地に住む時に、神が民に与えた命令である。その命令を元に、パウロは信者と不信者の結婚は神の御心ではないと明言している。夫婦になる目的は、二人が精神的・肉体的に一体となり神を礼拝する生活を行うこと。礼拝生活とは、家庭の使命、社会の使命、宗教的使命を果たしていくこと。夫婦生活の使命はこれ以外にない。好き、かわいい、かっこいい、優しい、お金持っている、それだけの理由で結婚することは最も危険。最も大切な事は、自分と相手が神を礼拝すること。それが自分と相手にないならば、その結婚は辞めたほうがよい。結婚後に礼拝のことを考えればよいのではない。礼拝は何よりも(結婚よりも)最優先されるべきこと。自分も、相手も、神を礼拝する信仰者となってから結婚すること。私たちから礼拝を引くということは、私たちが神を抜きにして生きること。それは私たちから命がなくなることである。結婚後にクリスチャンになった人、結婚前に既にクリスチャンなっていた人も、神が与えた夫婦の目的(二人が精神的・肉体的に一体となり、神を礼拝する生活を行う)に従って生きていって欲しい。

 

2019年11月 6日 (水)

平岩弓枝著『御宿かわせみ』(文春文庫 1979年)

神林東吾は吟味方与力の家の次男坊。るいは御宿かわせみの女主人。二人は夫婦同然の仲であるが、それぞれの家の事情があり、結ばれることができないでいる。その二人が共に、御宿かわせみに投宿する人たちに降りかかってくる事件を解決していく。女性の作家なので、至るところに女性の心理が描写されています。20巻以上のシリーズものです。

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オリジナルキャンプ(To be artist)

11月3日(日)~4日(月)に佐藤先生を講師としてお招きして、キャンプを行いました。テーマは「アーティストになろう」。一人一人が神様から与えられている才能を、神様のために用いるために、先生から、楽器の指導、賛美の心構え、PAの操作などを教えて頂きました。参加者一人一人がスキルアップすることにより、バンドの賛美が生き生きとしたものに生まれ変わりました。

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