季節の木

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2019年12月31日 (火)

2019年12月29日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「羊飼いたちの礼拝」

説教テキスト:ルカによる福音書28節~20節 

 

初めに

今年最後の礼拝。礼拝という言葉を聴いた時、どんな場面を思い浮かべるだろうか。大抵は、教会の中で行われる礼拝を思い浮かべることだろう。礼拝という言葉で画像を検索すると、教会の中で行われる礼拝の様子を初めに見ることができる。教会での礼拝は礼拝の一部であり全てではない。聖書で描かれている礼拝は、野外での礼拝もあり、生活の中での礼拝もある。私たちは聖書から礼拝に関する幅広い知識とイメージを持つ必要がある。今朝の聖書箇の礼拝は野外であり、座っている礼拝ではなく動き出す礼拝である。彼らの礼拝がどのようなものかを見ていく。

 

  • 神の言葉を受け取る礼拝

救い主イエス・キリストがお生まれになられたことを知って、マリヤとヨセフのもとに来てイエスを見た者たちは、東方の博士たちと羊飼いたちのみ。合計人数は約10人前後。イエスは全人類のためにお生まれになられた神。それなのに全人類の中から10人しかイエスに会いに来なかった。酷い話。イエスがベツレヘムにお生まれになられることは聖書に記されていた。聖書を知っていた祭司や律法学者たち、ベツレヘムの住民たちは、イエスに会いに行く事はできたはず。しかしヘロデ王に殺されることを恐れて、イエスに会いにいかなかった。神は救い主がお生まれになったことを、ベツレヘムに住む羊飼いたちだけに知らされた。羊飼いと言う職業は、当時最も卑しい職業とされており、彼らは野宿のために神殿礼拝と裁判に参加することを許されず、ユダヤ教からは破門されるような身分。また彼らは住民登録から外されていた人たち。彼らの卑しい職業のために、住民登録される価値のない人たちとして扱われていた。神は彼らだけに救い主の誕生を知らせた。それは何故か。神は彼らがイエスのご降誕の知らせを受け取ってくれる者たちであると思ったから。聖書には「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ53)と書かれている。聖書で言っている「心が貧しい者」とは、イエスで満たされたいと願う者たち。反対に自分の心が世の中の様々なことで満たされていると、その人はイエスを求めることをしなくなる。羊飼いたちの心は自分の心を満たしてくれるものを求める人たち。彼らは心貧しい状態で救い主の誕生の知らせを聞いた。暗闇の大空は、神が用意されたスクリーンに代わり、そのスクリーンには天使が現れ、救い主がダビデの町の飼い葉桶の中にお生まれになったことが告げられた。するとスクリーンの画面が変わり、天国にいる大群衆と天使たちが「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。という賛美を捧げるのを聞いた。羊飼いたちは自分たちに示された神のお言葉とビジョンを受け取った。

 

  • 救い主を探す礼拝

羊飼いたちは神からのメッセージとビジョンを受け取った時に、救い主にお会いするために(神の言葉のことを確かめるために)ベツレヘムの町に出かけっていった。彼らがそのことを行うにあたっては、いくつかの障害があった。先ず、時は夜中であり、人探しをする時間ではなかったこと。もし私たちが救い主イエスを探すとしたら、ベツレヘムの町にいって何をするだろうか。町の人達に聞く以外にない。夜中に玄関のドアがノックされる音を聞いて、外に出てみたら、そこには卑しい羊飼いたち立っている。ベツレヘムに住む人たちは羊飼いたちと一緒に、救い主を探すべきであった。何故なら救い主は、2:10)で天使が宣言している通りに、「すべての民に与えられる大きな喜び」であるから。しかし現実には、羊飼いたちは睡眠を妨害された人たちによって罵声を浴びせられながら、救い主を探し回ったのではないか。また別の障害は、彼らは仕事をしていた。彼らの仕事は夜の野獣から羊たちを守ること。羊はペットでななく財産。羊が野獣に襲われたならば、彼らは生活が出来なくなる。彼らは自分たちの仕事を他の羊飼いに任せて、救い主を探し回らなければいけなかった。つまり自分の生活を犠牲にして救い主を探さなければいけなかった。それらの障害を乗り越えて、羊飼いたちはイエスを探しあてた。彼ら冒険心を支えていたのは、自分たちに語られた神の言葉とビジョンは本当の事であるという信仰。彼らの冒険心は自分の目で救い主を確かめるまでは満足しなかった。

 

  • 神に賛美を捧げる礼拝

羊飼いたちが救い主イエスに出会った後に、彼らがなしていることがある。それは人々にイエスのことを語り、神に賛美を捧げていることである。彼らのこの行いを、ルカは「羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。」と言っている。彼らが自分たちに語られた神の言葉を信じようと信じまいと、神の言葉は真実であり、救い主はベツレヘムの飼い葉桶の中にお生まれになられていた。しかし彼らが自分の目でイエスを確かめた時、彼らの心に賛美と証しが溢れ出したのだ。彼らの賛美と証しの土台となっていたものは大きな喜びである。天使が彼らに語った「見よ、すべての民に与えられる大きな喜び」を彼らは体験した。また彼らの喜びがどんなに大きなものであるのかは、「人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。」と記されている。羊飼いたちは普通の人達から卑しい職業の人達であると思われていた。彼らが普通の人たちに何かを話すことなど何もないはず。しかし彼らは人々の前で賛美を捧げ、イエスのことを語ったのである。それは救い主イエスの誕生が「すべての民に与えられる大きな喜び」であるからだ。

 

終わりに

「羊飼いたちの礼拝」を見てきた。彼らの礼拝は私たちの礼拝に何を訴えているのか。礼拝で最も大切な事は神の言葉を受け取ること。神の言葉を受け取ることとイエスを受け取ることは同じこと。私たちの心が神の望まれないもので満たされているならば、神の言葉を受け取ることはできない。神の言葉を受け取るためには、心が貧しくされなければいけない。羊飼いたちが仕事人間であったならば、イエスのところに行くことはしなかったはず。聞いた神の言葉は単なる情報にすぎず、喜びに満たされることもなかった。神の言葉を受け取るかどうかは、私たちを礼拝者にするかどうかの大きな事柄。だから私たちは神の言葉を受け取るために、あらゆることを犠牲にして、神の言葉を受け取る必要がある。仕事を辞めて神の言葉を聴けと言っているのではない。神の言葉を受け取ることができなく程に、他の事に忙殺されてはいけない。

礼拝で大切な事は、聴いた神の言葉を確かめること。神の御言葉を確かめるためには神の言葉に従う以外にない。神の御言葉を確かめないで生きていくとどうなるのか。ベツレヘムの人たちは自分の生活で心が満ちていて、イエスを受け入れる余裕がなかった。だからイエスは宿屋ではなく馬小屋でお生まれになるしかなかった。またエルサレムの人たちは、救い主が生まれたことは知っていたけれど、ヘロデを恐れて、イエスに会いに行こうとしなかった。神に従わない人生は、生活の中で埋没するか、人を恐れて生きていくようになる。いずれの生き方にも喜びはない。神の言葉を確かめようとする時、私たちには様々な障害が出てくる。私たちは障害を数えて、神に従うことを止めるのではない。私たちが目に留めることは神の約束。神の約束とは、イエスを探す者は必ずイエスと出会うこと。またイエスとの出会いを体験する者は大きな喜びを体験する。ユダヤ地方で犠牲を払ってイエスを確かめたのは羊飼いたちだけ。私たちはその羊飼いのように生きたい。

 

2019年12月24日 (火)

2019年12月22日(日)キャンドル礼拝説教概要

説教タイトル:「救い主のご降誕」

説教テキスト:ルカによる福音書2章1節~7節 

 

初めに

クリスマス・シーズンに入りました。数年前に、牧師同士が集ったクリスマス会に出席した。その時に、ある牧師が以前行われたクリスマス会で頂いたプレゼントを見せて下さった。それは私がプレゼントしたボールペンでした。その先生は私からのプレゼントを56年近く使い続けて下さっていたことを知り、うれしい気持ちになりました。クリスマス時期にはプレゼントが送られます。聖書には神が全人類に与えて下さったプレゼントが書かれています。そのプレゼントはイエス・キリスト。そのプレゼントには送り主がいますので、送り主は受け取る側の者たちがそのプレゼントを受け取っているかどうかに関心がある。今朝はそのプレゼントであるイエス・キリストご降誕を見ていきたい。

 

  • 圧政の世にお生まれになられた救い主

イエス・キリストがお生まれになられた時、ローマ帝国による人口調査が行われている最中であった。マリヤとヨセフが生まれ育ったナザレのガリラヤ地方、そしてイエスがお生まれになられたベツレヘムのユダヤ地方は、ローマ帝国が支配していた。ガリラヤ地方とユダヤ地方はローマではなく、ローマによって征服された地。ローマは征服した地の人口調査をして、課税台帳を作成し、税金を課していた。またローマの人口調査は戦闘人員登録のためであり、他国と戦争となった場合、征服地から戦闘人員を駆り出すため。この時のローマ皇帝はアウグストと呼ばれる初代皇帝オクタヴィアヌス。彼はユリウス・カイザルの養子。アウグストの称号は主。彼が亡くなった時に、部下たちは彼を神として祭り上げ、ローマが支配する地域の人たちにアウグストを神として拝むように強要した。ローマ帝国は経済力、軍事力、宗教力を盾にして支配地域を拡大していった。当時ローマに対抗できる国はおらず、ローマの前には全ての国々がひれ伏すしかなかった。イエスがお生まれになられた地域の人々はローマに全ての支配を奪われ、圧政に苦しめられていた。ローマ帝国は、征服した国々の人達を、自国を反映させるための1つの捨て駒のような存在としか見ていなかった。またユダヤ地方を治めたローマから遣わされたヘロデ王は、自分が治める地域でに他の王が生まれたことを聞き、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子たちを殺害した。イエスは虐げられた環境の下でお生まれになられた。

 

  • 貧しくお生まれになられた救い主

父なる神は大切な一人子である主イエス・キリストを、貧しいカップルであるマリヤとヨセフの家庭に送られた。さらにイエスは貧しい環境の中で成長されていかれた。イエスが初めに置かれた場所はベツレヘムの家畜小屋であり、家畜が食事する桶の中に寝かされた。何故そのような場所でお生まれになり、そのような所に置かれたのか。聖書には「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」と書かれている。聖書を見てみると、ヨセフとマリヤはベツレヘムにいる時に、マリヤに陣痛が起こった事が分かる。どこかの宿屋に宿泊していた時に、陣痛が起こったならば、そこで出産できたはず。しかしそうではなく、ベツレヘムを歩いている時または休んでいる時に陣痛が起こったのだ。そこでヨセフはマリヤが出産する家や宿屋を探し周ったが、どこも自分たちを受け入れてくれるところはなかった。命の危険にさらされている人が道ばたで苦しんでいるのに、誰も彼も自分のことで精一杯で、彼らに助けの手を差し伸べなかった。だからマリヤは家畜小屋でイエスを出産したのだ。イエスのご降誕の様子は、彼の生涯を暗示している。この後、イエスはユダヤを治めるヘロデ王に殺されかけるが、マリヤとヨセフはイエスを連れてエジプトに逃げた。また多くの人達はイエスがなされた奇跡と愛の行いを見て、イエスを王様にしようとした。しかしイエスは彼らの王様になることを拒否した。彼らは自分たちの生活を豊かにするために、イエスを利用しようと考えた。しかし利用価値がないと分かると、イエスを十字架にかけて処刑した。これが人間のイエスに対する態度であり、私たちのイエスに対する態度。しかし神はイエスを3日後に蘇らせて下さった。イエスの生き方は「客間には彼らのいる余地がなかった」生き方。それは人に見捨てられた生き方。貧しい生き方。しかしそれは完全な神の支配と守りの中で生きる生き方。

 

終わりに

マリヤとヨセフの生き方は、私たちにイエスを受け取ることがどのようなものであるかを教えている。私たちはひどい環境に置かれた場合、虐げられた人となり、そこで自分が辿り着いた人生哲学で生きるようになる。それは大抵私たちを惨めにしていく。そこから自力で抜け出すことは不可能。しかしイエスを受け取るならば、神は私たちがどんなひどい環境の中でも生き生きと生きることができる。イエスが与えて下さるものは喜び、愛、平安。イエスを受け取る者は置かれた環境の中で完全な神の守りを体験する。また私たちがイエスを受け取る時、私たちはイエスのために犠牲を払うことが求められる。ベツレヘムの人達とイエスを殺した人たちは、イエスを受け入れることを拒否した人たち。反対に、マリヤとヨセフは自分の生活を犠牲にしてイエスを迎え入れた人たち。イエスのお言葉を受け取るためには、私たちは自分の持っているものを捨てる必要がある。これは一・二度離せばよいものではなく、私たちの生涯に渡ってなすべきこと。その中で私たちはイエスがどのようなお方であるのかを体験する。クリスチャンとは宗教を信じている人たちではない。蘇られたイエスを受け取り、イエスがどのようなお方なのかを体験した人たち。ヘレンケラーという3重苦の女性がいる。福島にも来られたことがある女性。彼女はサリバン先生を通してイエス・キリストを受け取りました。野獣のような彼女が本当の人間に造りかえられた。イエス・キリストによって造り変えられた彼女の言葉を紹介したい。「私は、自分の障害を神に感謝しています。 私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」 「幸せは、欲望の充足によって得られるのではなく、価値のある目的(イエス・キリスト)に忠実であることによって得られるのです。」これはヘレンケラーだけの告白ではない。イエス・キリストを受け取った全ての者が同意できる告白である。

2019年12月23日 (月)

2019 キャンドル礼拝

クリスマスを皆さんと迎えられること、感謝します。
私たちの教会では毎年キャンドル礼拝をしています。老若男女このクリスマスの際には、教会に行かなくちゃ!と足を運んで礼拝される方がいます!
また礼拝後には来会したくても出来なかったシルバーの方のお宅に、お裾分けのデザートや賛美を持ってキャロルをしに行きます。そんなこんなで、今日は福音の鐘が一日中鳴り渡るような日、良き訪れの日でした。だからかいつの間にか顔がニタニタしてしまいます🥰 
メリークリスマス🎄

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スマイルクッキング


スマイルクッキング🍴を美味しく楽しく出来ました!
はじめに岡先生が「和食がユネスコの無形文化遺産に登録されました」と話してくださいました。それから基本の和食の出汁の取り方から。盛り付け方まで。丁寧さ、美しさや美味しさ、包丁使い、など、ほんとに和食の深みの世界に連れて行って頂きました!参加者親子もまた参加したい!とおっしゃってくださいました。
クッキング前に、ユースの子が「ほんとのクリスマスの話」を描いてはなしてくれたので。初めてクリスマスの意味を知ったお友達もいました。もらったお土産のクッキーには、クリスマスカラーの意味が添えられていました🍪
今日は素敵な親子との出会いが与えられて嬉しいです。これから毎年過ごす家族のクリスマスに、色が添えられた事を思うと。インスタ映えするお寿司よりも人生への彩り🌈を感じました。

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2019年12月16日 (月)

2019年12月15日(日)アドベント礼拝説教概要

説教タイトル:「広がる 喜び」

説教テキスト:ルカによる福音書126節〜56

 

初めに

今年の漢字には新元号の「令和」の「令」という字が選ばれ、清水寺の貫主(かんす)によって書かれた。元号の文字が選ばれたのは初めて。貫主によれば、「令には神の声を聞くという意味がある。皆がその声に従い、互いに助け合っていかなければならない」とのこと。貫主の言う神の声が何であるのかは分からないが、聖書には神の声が書かれている。それは人間に命を与える言葉。イエス・キリストがお生まれになる前に、神の声がマリヤに語られた。

 

  • 喜びは決心と奉献による

天使がマリヤに語りかけた言葉は「喜びなさい」。何を喜ぶのか。それは彼女が神の恵みを受けており、救い主イエス・キリストを生むこと。また、神はイエスにダビデの王座を与え、ヤコブの家(神の民)を永遠に治めること。つまり彼女がイエスを受け取ることが喜びであり、イエスがこの世でお働きになることが喜ぶこと。最初、彼女はその喜びを受け入れることができなかった。天使のメッセージは、彼女がこれから歩むステップを飛び越えたもの、ステップを無視するものでもあった。ステップとは、ヨセフと結婚し、夫婦の関係を結び、子どもを妊娠すること。当時彼女がなしていたことは、ヨセフと婚約関係を結んでいたことだけ。天使のメッセージは、今すぐに、聖霊によって、救い主を妊娠すること。天使は彼女に、親戚エリサベツの妊娠と、神にとって不可能な事がないことを伝えた。その時彼女は主のはしためとして生きることを知った。「わたしは主のはしためです。」(1:38)「主はこの卑しいはしために」(148新改訳)と告白している。日本語の謙譲語では自分の息子のことを愚息と表現する。彼女の自分が主のはしためである告白はそのようなものではない。神の臨在、神の恵み、神の御業が自分に注がれていることに対し、自分の立場を神に告白している。彼女の主人である父なる神は、彼女が救い主を受け取る事に関して、100パーセント聖霊で覆い、悪の手から守るお方。「お言葉どおりこの身に成りますように」(1:38)という彼女の告白は、神様の約束に対する応答であり、自分が如何様に用いられてよいという告白。喜びというものは、神の言葉であるイエスを個人的に受け入れる時に与えられる。またイエスのために自分の身を捧げる時に与えられる。彼女にとって身を捧げるとは、イエスを成人させ、世に送り出し、十字架と復活を見届けること。それが彼女の喜び。

 

  • 喜びは共鳴する

神は救い主イエスとバプテスマのヨハネをこの世に送り出すために、マリヤとエリサベツの血のつながった親族を選ばれた。そしてマリヤに遣わされた天使は彼女にエリサベツの妊娠を告げている。神様は彼女に何を願って、エリサベツの事を告げたのか。それは彼女とエリサベツが自分に与えられた使命を分かち合うため。そこでマリヤはエリサベツに会うために、ナザレからユダの山里に出かけていった。マリヤはザカリヤの家に入り、エリサベツに挨拶をした。その時、エリサベツのお腹の中にはヨハネがいた。そのヨハネがマリヤの挨拶を聞いて、喜び踊った。お腹の中にいる子どもは外の世界を見て知ることができないというのは、大人の感覚。ヨハネはマリヤと彼女のお腹に中におられるイエスの存在を受け取って喜んだ。またエリサベツはお腹にいるヨハネが喜び踊ったことを感じて、聖霊に満たされ、マリヤに祝福の言葉を与えた。エリサベツの祝福の言葉から分かる事は、彼女はマリヤが持っている信仰を理解できたこと。彼女はマリヤが「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女」であり、「なんとさいわいなことでしょう」と思った。エリサベツの祝福の言葉を受けて、マリヤは神を賛美し、賛美の中でイエスがなされることを預言している。それは二人の交わりによって生み出されたもの。マリヤの周りには、祝福の言葉を与えてくれる者はだれ一人としていなかった。しかしエリサベツだけは違っていた。マリヤと同様に、彼女も神からの使命を与えられた者であり、マリヤに負わされた使命を理解し、喜び、祝福できた者であった。二人の交わりによって、お互いの信仰は励まされ、お互いの喜びは共鳴し、彼女たちの喜びは大きくされた。またヨハネにもその喜びが伝わっていった。その場所にいたはずのザカリヤの信仰も強めたはず。

 

終わりに

「広がる 喜び」を見てきた。今朝の箇所から勧めをする。1つめは、神の喜びに生きること。教会の周りの人たちが喜んでいるからと言って、その喜びが自分に与えられるものではない。周りの人に合わせて喜んでいるふりはできないので、止めたほうがよい。顔の筋肉が疲れるだけだ。喜びは私たちの内側に内在するイエス・キリストから溢れ出てくる。イエスは私たちがいかなる者であるのかを教えて下さる。マリヤは主のはしためとして生きた。イエスを自分の全生涯に受け入れ続け、イエスのために犠牲を払う生き方をした。神はそのような生き方をする者を聖霊で満たして下さる。聖霊に満たされ、喜びに溢れて生きたいと願うなら、イエスを受け入れて、イエスのために犠牲を払うこと。

2つめは、喜びを共鳴させる交わりをすること。マリヤとエリサベツの交わりは初代教会における交わりそのもの。交わりはおしゃべりとは違う。自分が受け取った主からの使命を分かち合うこと。主からの使命は出所が同じだから、必ず共鳴する。そして私たちの喜びを大きくする。証しは溢れ出て、賛美となり、信仰告白となる。教会は、私たちの喜びを大きくする証しが溢れている場所。証しはしなければいけないものではない。溢れ出すものだ。

2019年12月13日 (金)

2019 クリスマスランチョン

Migiwaさんをお迎えをしてクリスマスランチョンを行いました。イエス・キリストによって変えられた彼女の魂によって生み出された賛美は参加した人たちに感動を与えて下さいました。イエス・キリストはいかなる人の人生も変えて下さるお方です。ランチはステーキで食べこたえがありました。翌日は喜多方の教会でコンサートを行い、多くの方々が集まり、イエス・キリストの素晴らしさが伝えられていきました。

 

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