季節の木

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2020年1月26日 (日)

2020年1月26日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「サマリヤ人の信仰」

説教テキスト:ルカによる福音書17章11節~19節

 

初めに

「まちぶせ」という曲がある。荒井由実が作詞・作曲し、1976年に三木聖子によってシングルが発売された。1981年には石川ひとみがカバーしてヒットした。歌詞のさびに「もうすぐ わたしきっと あなたをふりむかせる」とある。イエスは愛の御業で10人のうち1人を振り向かせて方向転換させた。

 

  • イエスに求める信仰

イエスはエルサレムに向かっていく途中に、10人のらい病人に出会った。その中にサマリヤ人がいた。サマリヤ人とアッシリヤ人とイスラエルの民の間に生まれた混血民族であり、彼らはゲリジム山で独自の異端集団を作っていった。当時のユダヤ教では、らい病人は宗教的に汚れた者であったので、彼らは隔離された場所で共同生活をしていた。彼らが一般市民の集まる場所に行く際には、自分たちの汚れが他の人たちに移らないように、「私たちは汚れた者です」と叫ぶ必要があった。そのような彼らの近くをイエスが通られた。イエスが為された奇跡の噂は彼らにも届いていた。そこで彼らはイエスから遠くの場所に立ち、大声でイエスに叫び続けた。汚れた者である自分たちからイエスに近づいていくことはできないので、イエスの方から自分たちの所に来て頂くことを求めた。彼らの病気生活の中で、誰かに対して「私たちは汚れた者です」と大声で叫ぶことは幾度もあったが、自分たちを憐れんでと大声をあげたことはなかった。聖書の中には、大声でイエスに何かを求めた人たちは数少ない。らい病人たちはなりふり構わずイエスに叫び求めたのだ。

 

  • イエスの言葉に従う信仰

彼らの切なる求めに対して、イエスは応答され、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」という命令を彼らに与えられた。らい病人が癒された時、その人は祭司の所に行き、体を検査してもらう。祭司が検査して病人が癒されたと認められた場合、8日間の清めの儀式を経て、その者は自分の家族のところに帰ることができ、社会の中で生活することが許された。祭司の所には、病が癒された時に、検査をして頂くために行くのであって、癒されない状態で行っても無意味。しかしイエスは彼らに単なる命令を与えているのであって、その命令には何の約束も付け加えられていない。「祭司の所に行けば癒される」とか「8日後に癒される」という約束はどこにもない。ところが、病人たちは何を思ったのか、イエスの命令に従い、祭司のところ向かっていった。サマリヤ人も同じ行動をとった。サマリヤ人がユダヤ教の祭司の所に行っても、祭司は彼を門前払いするに違いない。何故ならユダヤ人にとって、サマリヤ人は汚れた民であり、らい病を患っているサマリヤ人は札付きの汚れた者であったから。しかし彼はそのような壁があることを承知で、イエスのお言葉に従っていった。すると奇跡が起こった。

 

  • 神が癒して下さった信仰

・サマリヤ人がイエスのもとに帰って来た時に、イエスは「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と言っておられる。イエスは彼らに癒されたら自分のところに帰って来なさいとは命じておられないが、癒された者たちが自分のところに帰ってくることを望まれていた。イエスはその場に留まり、彼らを待っておられた。彼らはイエスの命令に従うまでは同じ行動をとっていたが、癒された後に違いが生じている。9人と1人の行動を分けたのは一体何であったのか。イエスは帰ってきたサマリヤ人に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言っておられる。サマリヤ人には信仰があったことになる。どんな信仰であったのか。それは(17:15~16)に見られる。「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」 彼の信仰は、自分が癒されたことは神によるものという認識に基づいている。彼は癒された時、前に進むのを止めて、後ろを振り返った。振り返った先にはイエスがおられた。つまり自分の癒しは神であるイエスからのものであるという確信である。だから彼は引き返して、神を賛美し、神であるイエスに感謝を捧げた。反対に、9人にはその信仰がなかった。彼らはイエスに癒されたのにも拘わらず、誰に癒されたのか、何のために癒されたのか、を悟らないまま神不在の世界に飛び出していった。イエスは彼らに「ほかの九人は、どこにいるのか」(17:17)と言っている。イエスは彼らがいる場所を知りたかったのではない。自分との関係が希薄であることを嘆いておられる。9人には霊的な変化が起こりそうであったが、何も起こらなかった。しかしサマリヤ人にはイエスによる大きな奇跡が起こり、その御業に対する賛美と感謝を捧げる人生がスタートしたのだ。

 

終わりに

「サマリヤ人の信仰」について見てきた。今朝の御言葉から勧めをしたい。1つ目は、何のために、イエスに祈り求め、イエスのお言葉に従うのか。何のために。もし私たちが自分の問題解決のためだけに、それらを為していくならば、私たちは9人と同じ行動を取る様になる。神を己のために利用し、神を忘れるようになる。神の御名が崇められるために、私たちは神に祈り求め、神に従うべき。神の御名が崇められることが、私たちにとって最大の喜びである。

2つ目は、神が癒して下さった信仰に立つこと。神の癒しはイエスを通して私たちに与えられる。神の癒しは、神と私たちを親しい関係に造り変える。イエスのところに私たちが帰るためには、自分はイエスによって癒された確信を持つ必要がある。自分のために前に進むのを止め、イエス(イエスのお言葉)の方向を向くのである。神に感謝を捧げることは、皆と同じように振舞っていれば、自然にそうなるのではない。聖霊の助けを受けて、あなたが自分の意志でイエスの方を振り返る時、それは大きな喜びの中で起こる。

2020年1月22日 (水)

2020年1月19日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「壁を破るイエスのあわれみ」

説教テキスト:ルカによる福音書1025節~37

 

初めに

良きサマリヤ人の話は多くの画家によって描かれており、ゴッホとドラクロワも描いている。画家によって絵に違いが生じるのは、絵に自分の解釈が入るから。実際に、絵の下にはサイトの管理者の解釈付きのコメントがあった。‘’良きサマリヤ人の話は「種族や地位なんて関係ない。人を無条件で助けた者が天国へ行けるのだ」と教えている‘’というものでした。この解釈はキリスト教を知らない人に限らずクリスチャンにもすんなり受け入れられる解釈となっているのではないか。ある律法学者がイエスを試そうと質問し、両者の会話が積み重ねられていく。前半は律法学者のペースであるが、後半はイエスのペースで話がなされている。律法学者はイエスを試そうとして話しかけていくが、反対に彼はイエスから試されてしまう結果になった。話の初めは「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」という質問から始まり、終わりは「あなたも行って同じようにしなさい」で終わっている。イエスは一体何の目的で律法学者の話に付き合われ、彼に何を伝えたかったのか。

 

  • 自己中心の壁

律法学者は自分イエスの聖書理解と行いには違いがあることを知っていたので、敢えてイエスに質問している。それはイエスより自分が正しいことを示すためである。それは2つの聖書化箇所が示している。「イエスを試みようとして」(1025)「すると彼は自分の立場を弁護しよう(正当化)と思って」(10:29) 彼は永遠の命を手に入れるためには、律法の黄金律である神と人を愛することを行えばよいと思い、それを行っていた。しかしイエスは彼の聖書理解と行いが間違っていることを気づかせるために、1つの譬え話を話された。それは律法学者の「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」という問いに応えた譬え話の中に表されている。エルサレムからエリコに行き、強盗に半殺しの目に遭った者はユダヤ人。当時エリコには祭司階級の人達が多く住んでいた。譬え話の中に登場する祭司とレビ人はユダヤ人である。祭司は神殿で直接奉仕する人であり、レビ人は祭司をサポートする人たちであった。彼らは同族の者が倒れているのにも関わらず、その者を見て見ぬふりをして通り過ぎた。イエスは譬え話の中で、当時の祭司とレビ人たちの姿をここに描いている。神殿奉仕はするが、神と人への愛をなおざりにしている彼らの姿を描いている。譬え話の中の祭司とレビ人の姿は、当時の人が聞いたならばある程度説得力を持った人物描写であったはず。イエスから言わせると、祭司とレビ人は半殺しの目に遭った人の隣人にならず、隣人を愛さないで生きている代表者であった。何故、祭司とレビ人は同胞の民を介抱しなかったのか。考えられる理由は、そのような者に関わって犠牲を払いたくない思いがあった。自己中心の思いは、私たちと神の命令の間に壁を作る。そして、私たちが神を愛する命令と人を愛する命令を行えなくしてしまう。

 

  • 敵対している民族の壁

しかし3人目の者が半殺しに遭った者の側を通りかかった。それはサマリヤ人。当時、サマリヤ人とユダヤ人は宗教的な違いでお互いに付き合いをしなかった。特にユダヤ人はサマリヤ人を犯罪者のような罪人として見ていた。お互いは隣人とはなり得ない者たち。お互いは愛の対象ではなく憎しみの対象。ユダヤ人とサマリヤ人には民族の壁があり、お互いはその壁を乗り越えることはできなかった。

ルカ福音の中でのサマリヤ人の記事は3つ書かれている。1つは(ルカ95253)「ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。」イエスはサマリヤを通ってエルサレムに向かおうとされたが、サマリヤの人は受け入れなかったというのだ。この出来事を体験したならば、サマリヤ人を良い模範として用いることはしない。2つめは、(ルカ1711~)の記事。10人のらい病人がイエスに癒しを求めた。イエスはその10人全員を癒された。しかしイエスに感謝するために戻ってきた者はたった一人であり、それはサマリヤ人であった。この記事では、イエスはサマリヤ人の信仰が称賛している。そして3つ目の記事が今朝の記事である。2つの記事において、サマリヤ人がイエスに近づいたのではない。イエスがサマリヤ人たちに近づいていかれたので、彼らがイエスに近寄ってきた。イエスはユダヤ人が超えることができない民族の壁を越えて、サマリヤ人に近づいていかれた。

3つ目の記事では、サマリヤ人が半殺しに遭ったユダヤ人に近づき、愛の手を差し伸べている。サマリヤ人がユダヤ人に愛の手を差し伸べた動機は、「彼を見て気の毒に思った」(新改訳:かわいそうに)(10:33)から。「気の毒に思った」という言葉は、聖書でイエスのみに使われている言葉であり、神の深い憐れみを現わしている。つまりこのサマリヤ人はイエスご自身の。「気の毒に思った」その思いが、隣人を愛する行動へと駆り立てている。傷ついた人を介抱し、宿屋に導き、宿屋の主人に任せて、癒され自立できるまで費用を肩代わりする。サマリヤ人は律法学者が超えることができない壁を越えて隣人を愛した。それはサマリヤ人(イエス・キリスト)には民族の壁が無く、傷つき倒れている者に対する深い憐れみだけがあるから。

 

終わりに

「壁を破るイエスのあわれみ」について見てきた。イエスは最後に律法学者に「あなたも行って同じようにしなさい」。と言われている。その後、この律法学者はイエスの譬え話と命令をどのように受け取ったのだろうか。彼は、永遠の命を得るためには、神と隣人を愛するという神学を持っていた。イエスもそれに同意されている。しかしイエスは譬え話の中で、律法学者が持っている壁を越えて隣人を愛する模範を示し、彼に命令をされた。イエスが言われていることが隣人を愛することであるならば、彼はそれを行うことはできない。できないとなると、永遠の命を受ける資格を失ってしまう。イエスは人助けをして欲しいので、この譬え話をされているのではない。イエスは律法学者に自分の壁(罪)に気づかせるために、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた。「そんなことはあなたにはできないでしょう。」「隣人を愛する原動力はあなたにはないですよ。」「しかしサマリヤ人である私(イエス)は隣人愛を持っている。」そのことに気づいて欲しかった私たちは自分の壁を破って神と隣人を愛するためには、イエスから憐れみを頂くしかない。譬え話の中の登場人物の誰に自分を重ね合わせて生きるのか。祭司やレビ人のように自分の壁に閉じこもって今まで通りに生きるという道もある。しかし半殺しな目に遭ってサマリヤ人から憐れみを受けるという道があるのだ。イエスは人々のことを「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」(マタイ936)と見ておられた。イエスから憐れみを受けるとは、イエスの言葉を聴いて受け取り続けていくこと。

パウロはイエスから『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』というケアを受けていたので、オネシモをピレモンに推薦するに際に、「1:18もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それをわたしの借りにしておいてほしい。 1:19このパウロが手ずからしるす、わたしがそれを返済する。」(ピレモン118)という隣人愛に生きることができたのだ。

オネシモミッションは自分がイエスにケアされるミッション。またオネシモミッションは、自分がイエスにケアされたことを受けて、隣人を愛するミッション。そしてその隣人が神の働きのために遣わされていくミッション。あなたにとってのオネシモは誰か。

2020年1月14日 (火)

熊谷達也著『漂泊の牙』『ウェンカムイの爪』(集英社文庫 2002年)(同 2000年)

 著者は宮城県出身であり、『漂泊の牙』の舞台は宮城県鳴子町。狼と思われる動物によって次々に犠牲者が発生。動物学者の城島の妻もその犠牲となる。城島は妻を殺害した動物を追って雪山に入っていく。山窩、マタギ、狼の習性も詳細に描かれている本です。 

 アイヌでは性悪で人食い羆をウエンカムイと呼ぶ。『ウェンカムイの爪』はその熊が描かれている。吉本憲司は脱サラして動物写真家として北海道に移住した。ある日彼はヒグマに襲われたが、不思議な力を持つ女性に助けられる。吉本と熊が対面する場面は、何とも言えない緊張感を与えてくれます。

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2020年1月13日 (月)

2020年 教会標語

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今年の教会の標語はオネシモミッションです。教会のメンバーがパウロやピレモンのような者となって、オネシモのように神様の働きのために役に立つ者を生み出す者となっていくことです。オネシモのような者が次々と起こされていくことを期待しています。

2020年1月 5日 (日)

2020年1月5日(日)新年礼拝説教概要

説教題目: 「オネシモを受け止めて」

説教箇所:ピレモンへの手紙1章1節~25

 

初めに

ベストキットという空手の映画がある。ストーリーは空手を通して少年の成長が描かれている。リアル世代でベストキットを見ていた時、自分にもミヤギのような大人がいて、人生を導いてくれたら良いと思ったものだ。人生は良き人で出会うことによって変えられる。逃亡奴隷オネシモはパウロと出会って変えられた。

 

  • オネシモを受け止めたパウロ

パウロはエフェソ、カイサリア、ローマで獄中生活を送った。彼の獄中生活は監禁ではなく軟禁であり、ある程度の自由が認められていた。ローマでの獄中生活をしている時に、逃亡奴隷オネシモと同室になった。彼から話を聞いてみると、コロサイのピレモンに仕えていた奴隷であり、主人の財産を盗んで、国際都市ローマまで逃げてきた。ピレモンはパウロによってイエス・キリストに導かれた者、パウロによって洗礼を授けられた者、彼らの関係は師弟関係であった。パウロは獄中でオネシモにイエス・キリストを伝え、彼はイエスを信じた。また彼はパウロの身の回りを世話する者となった。そこにはパウロの愛の働きがあった。パウロは自分を監視するローマ兵に頼みこんで、オネシモを側に置くように頼んだのである。また彼に自分を世話させる中で、信仰に関するありとあらゆることを教えていった。オネシモにしてみたら、主人ピレモンのさらに主人であるパウロに仕えることになった訳である。彼はその中で、パウロからお褒めの言葉を頂く主の弟子へと変えられていった。パウロは彼のことを手紙の中で、「有益な者」「私の心」「自分と同様な者」と呼んでいる。オネシモの名前は「有益な」という意味である。以前の彼は、名前とは正反対の無益な者であったのだが、有益な者に変えられた。(コロサイ49)ではパウロはコロサイ教会のメンバーにオネシモを「忠実な愛する兄弟オネシモ」と紹介している。当時、逃亡奴隷は主人によって死刑にすることが許されていた。しかもオネシモは逃亡だけではなく窃盗の罪も犯していた。彼は既に転落人生を歩んでいた。誰も彼の転落に歯止めるかけることはできなかった。しかし神に遣わされたパウロが牢獄でオネシモを受け取り、彼の転落にストップをかけた。

 

  • オネシモを受け止めるピレモン

オネシモは霊的に新しく生まれ変わり、訓練を受けて主の働き人として成長していた。それはパウロが彼を生み、育てた結果である。その状態でオネシモが社会の中で生きていくためには、もう1つクリアーすべきことがあった。それはピレモンが彼を受け取ること。彼は逃亡奴隷であり、ピレモンの所有人であるので、パウロは彼をピレモンに送り返した。その際に、ピレモンがオネシモをどのように受け取るのかを教えている。それはオネシモを愛する兄弟として受けとること。(1:16)「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてである。」 彼は変えらたの状態で送り返されてくる。彼の履歴書は、彼が書いたものではない。ピレモンが敬愛する師匠パウロ先生が書いたもの。ピレモンの頭の中には以前のオネシモの状態が残っていたはずである。しかし彼はパウロが書いたオネシモの履歴書をそのまま受け取る必要があった。さらにピレモンはオネシモが送り返されてくることに関して、彼に注がれた神の御業を認める必要があったはず。自分を裏切り、ローマまで逃げた奴隷が、パウロと出会い、回心し、愛する兄弟として戻ってくるのだ。それは神の奇跡以外の何物でもない。またパウロ先生は、彼が主人にかけた損害は全ての自分が背負うと言っている。パウロは自分の財産が失われても良い覚悟で、彼を推薦している。パウロの推薦状は、良きサマリヤ人が宿屋に言ったことと同じ。彼はパウロに愛された者として推薦されている。パウロの推薦状故に、ピレモンは彼を受け入れたはず。また彼はピレモンに仕える中で、パウロが言う通りの人物であることを彼に証明していったはず。彼の良い評判は、ピレモンによって、その地域と教会に広められていった。彼はピレモンに受け入れられる中で、地域社会で生き生きと生きることができたはず。

 

終わりに

「オネシモを受け止めて」を見てきた。もしオネシモがパウロにもピレモンにも受け入れなれなかったならば、どうなっていたか想像して欲しい。かつて逃亡した奴隷を雇うような雇い主はいないはずだ。そうするとオネシモは職に就けなくなり、衣食住に困り、犯罪に手を染めるようになるはずだ。その先は牢屋暮らしが待っている。人殺しなどの犯罪に手を染めたならば死刑になっていたことだろう。今年の教会の標語は「オネシモ・ミッション」というタイトルをつけた。私たち一人一人がパウロやピレモンのような存在になり、オネシモのような人を生み出していくミッション。

オネシモ・ミッションで大切な事は、ミッションは自分が遣わされた場所で行うこと。パウロは自分が置かれた牢獄の中でミッションを行った。牢獄に送られてきたオネシモにイエスを伝えた。彼は最悪の場所で伝道した。オネシモのような人は私たちが置かれた場所に用意されている。私たちは自分が置かれている場所での人間関係を最大限に生かして、人々にイエスを証し、人々を教会に誘っていくこと。

オネシモ・ミッションで2つ目に大切な事は、神と人に仕える弟子を育てていくこと。パウロは牢獄の中で諸教会を励ます手紙を書き、諸教会のために祈っていた。教会から福音が広がっていくために、教会に仕えていた。彼は教会に仕えることを彼に教えていった。教会に手紙を書くには羊皮紙が必要である。羊皮紙を買うためにはお金が必要である。また教会の状況を知るために、教会に誰かを派遣する必要がある。パウロは外出できない。となるとオネシモがパウロの代わりに働いたことになる。パウロはオネシモに教会の仕え方を手取り足取り教えていったはず。導かれた人はイエスを信じただけでは成長しない、教会に仕える中で成長するのだ。教会に仕えるように導く必要がある。

オネシモ・ミッションで3つ目に大切な事は、導かれた人をチームでフォローすること。パウロはピレモンと共にオネシモを育てる働きをしていった。またパウロはオネシモをピレモンに委ねることができた人。私たちは人を導くのに110までの全ての事をする必要はない。部分的な働きを担っていくのだ。教会は明確な目的を持った1つのチームだ。チームの一員としての役割を果たしていこう。

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