季節の木

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2020年1月22日 (水)

2020年1月19日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「壁を破るイエスのあわれみ」

説教テキスト:ルカによる福音書1025節~37

 

初めに

良きサマリヤ人の話は多くの画家によって描かれており、ゴッホとドラクロワも描いている。画家によって絵に違いが生じるのは、絵に自分の解釈が入るから。実際に、絵の下にはサイトの管理者の解釈付きのコメントがあった。‘’良きサマリヤ人の話は「種族や地位なんて関係ない。人を無条件で助けた者が天国へ行けるのだ」と教えている‘’というものでした。この解釈はキリスト教を知らない人に限らずクリスチャンにもすんなり受け入れられる解釈となっているのではないか。ある律法学者がイエスを試そうと質問し、両者の会話が積み重ねられていく。前半は律法学者のペースであるが、後半はイエスのペースで話がなされている。律法学者はイエスを試そうとして話しかけていくが、反対に彼はイエスから試されてしまう結果になった。話の初めは「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」という質問から始まり、終わりは「あなたも行って同じようにしなさい」で終わっている。イエスは一体何の目的で律法学者の話に付き合われ、彼に何を伝えたかったのか。

 

  • 自己中心の壁

律法学者は自分イエスの聖書理解と行いには違いがあることを知っていたので、敢えてイエスに質問している。それはイエスより自分が正しいことを示すためである。それは2つの聖書化箇所が示している。「イエスを試みようとして」(1025)「すると彼は自分の立場を弁護しよう(正当化)と思って」(10:29) 彼は永遠の命を手に入れるためには、律法の黄金律である神と人を愛することを行えばよいと思い、それを行っていた。しかしイエスは彼の聖書理解と行いが間違っていることを気づかせるために、1つの譬え話を話された。それは律法学者の「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」という問いに応えた譬え話の中に表されている。エルサレムからエリコに行き、強盗に半殺しの目に遭った者はユダヤ人。当時エリコには祭司階級の人達が多く住んでいた。譬え話の中に登場する祭司とレビ人はユダヤ人である。祭司は神殿で直接奉仕する人であり、レビ人は祭司をサポートする人たちであった。彼らは同族の者が倒れているのにも関わらず、その者を見て見ぬふりをして通り過ぎた。イエスは譬え話の中で、当時の祭司とレビ人たちの姿をここに描いている。神殿奉仕はするが、神と人への愛をなおざりにしている彼らの姿を描いている。譬え話の中の祭司とレビ人の姿は、当時の人が聞いたならばある程度説得力を持った人物描写であったはず。イエスから言わせると、祭司とレビ人は半殺しの目に遭った人の隣人にならず、隣人を愛さないで生きている代表者であった。何故、祭司とレビ人は同胞の民を介抱しなかったのか。考えられる理由は、そのような者に関わって犠牲を払いたくない思いがあった。自己中心の思いは、私たちと神の命令の間に壁を作る。そして、私たちが神を愛する命令と人を愛する命令を行えなくしてしまう。

 

  • 敵対している民族の壁

しかし3人目の者が半殺しに遭った者の側を通りかかった。それはサマリヤ人。当時、サマリヤ人とユダヤ人は宗教的な違いでお互いに付き合いをしなかった。特にユダヤ人はサマリヤ人を犯罪者のような罪人として見ていた。お互いは隣人とはなり得ない者たち。お互いは愛の対象ではなく憎しみの対象。ユダヤ人とサマリヤ人には民族の壁があり、お互いはその壁を乗り越えることはできなかった。

ルカ福音の中でのサマリヤ人の記事は3つ書かれている。1つは(ルカ95253)「ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。」イエスはサマリヤを通ってエルサレムに向かおうとされたが、サマリヤの人は受け入れなかったというのだ。この出来事を体験したならば、サマリヤ人を良い模範として用いることはしない。2つめは、(ルカ1711~)の記事。10人のらい病人がイエスに癒しを求めた。イエスはその10人全員を癒された。しかしイエスに感謝するために戻ってきた者はたった一人であり、それはサマリヤ人であった。この記事では、イエスはサマリヤ人の信仰が称賛している。そして3つ目の記事が今朝の記事である。2つの記事において、サマリヤ人がイエスに近づいたのではない。イエスがサマリヤ人たちに近づいていかれたので、彼らがイエスに近寄ってきた。イエスはユダヤ人が超えることができない民族の壁を越えて、サマリヤ人に近づいていかれた。

3つ目の記事では、サマリヤ人が半殺しに遭ったユダヤ人に近づき、愛の手を差し伸べている。サマリヤ人がユダヤ人に愛の手を差し伸べた動機は、「彼を見て気の毒に思った」(新改訳:かわいそうに)(10:33)から。「気の毒に思った」という言葉は、聖書でイエスのみに使われている言葉であり、神の深い憐れみを現わしている。つまりこのサマリヤ人はイエスご自身の。「気の毒に思った」その思いが、隣人を愛する行動へと駆り立てている。傷ついた人を介抱し、宿屋に導き、宿屋の主人に任せて、癒され自立できるまで費用を肩代わりする。サマリヤ人は律法学者が超えることができない壁を越えて隣人を愛した。それはサマリヤ人(イエス・キリスト)には民族の壁が無く、傷つき倒れている者に対する深い憐れみだけがあるから。

 

終わりに

「壁を破るイエスのあわれみ」について見てきた。イエスは最後に律法学者に「あなたも行って同じようにしなさい」。と言われている。その後、この律法学者はイエスの譬え話と命令をどのように受け取ったのだろうか。彼は、永遠の命を得るためには、神と隣人を愛するという神学を持っていた。イエスもそれに同意されている。しかしイエスは譬え話の中で、律法学者が持っている壁を越えて隣人を愛する模範を示し、彼に命令をされた。イエスが言われていることが隣人を愛することであるならば、彼はそれを行うことはできない。できないとなると、永遠の命を受ける資格を失ってしまう。イエスは人助けをして欲しいので、この譬え話をされているのではない。イエスは律法学者に自分の壁(罪)に気づかせるために、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた。「そんなことはあなたにはできないでしょう。」「隣人を愛する原動力はあなたにはないですよ。」「しかしサマリヤ人である私(イエス)は隣人愛を持っている。」そのことに気づいて欲しかった私たちは自分の壁を破って神と隣人を愛するためには、イエスから憐れみを頂くしかない。譬え話の中の登場人物の誰に自分を重ね合わせて生きるのか。祭司やレビ人のように自分の壁に閉じこもって今まで通りに生きるという道もある。しかし半殺しな目に遭ってサマリヤ人から憐れみを受けるという道があるのだ。イエスは人々のことを「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」(マタイ936)と見ておられた。イエスから憐れみを受けるとは、イエスの言葉を聴いて受け取り続けていくこと。

パウロはイエスから『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』というケアを受けていたので、オネシモをピレモンに推薦するに際に、「1:18もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それをわたしの借りにしておいてほしい。 1:19このパウロが手ずからしるす、わたしがそれを返済する。」(ピレモン118)という隣人愛に生きることができたのだ。

オネシモミッションは自分がイエスにケアされるミッション。またオネシモミッションは、自分がイエスにケアされたことを受けて、隣人を愛するミッション。そしてその隣人が神の働きのために遣わされていくミッション。あなたにとってのオネシモは誰か。

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