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2020年3月31日 (火)

2020年3月29日(日)ウェルカム礼拝説教概要

説教タイトル:「遺言 ~受け取って欲しいこと~」

説教テキスト:ヨハネによる福音書131節〜17

 

初めに

遺言での笑い話。古い醤油屋を経営していた商店が経営難で近く廃業することになった。最後の店主となったお爺さんが亡くなる前に、家族に遺言をした。「創業者の爺さんが、どうにもならなくなったら山の頂上を掘りなさいと言っていた。確認したことが無いから分からんが、大爺さんが言うには大金が埋まっとるらしい。」 この話が発端で、親戚中で山の頂上を堀りに行くことになった。見たことも無いような親戚も集まってきた。しかし掘って出てきたものは熟成された年代物の醤油であった。

 

  • 僕の姿を通して表されたイエスの愛

13章から17章はイエスの告別説教。イエスはご自身が殺されて、三日後に蘇り、天に帰られることをご存じであった。イエスが12弟子たちと共に過ごすことができるのはわずかな日数。その間にイエスは彼らに受け取って欲しいことを与えられた。それはイエスが彼らを愛しておられること。イエスはご自身の態度で愛を示された。イエスは夕食の最中に、彼らの足を洗われた。当時のユダヤ社会では、自分の家にお客様をお招きする際、その家にいる奴隷がお客様の足を洗った後に、その家の主人がお客様と一緒に食事をした。だから弟子たちは自分の師であるイエスが奴隷の様な行いをされたので驚いた。弟子ペテロは師匠イエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」「わたしの足を決して洗わないで下さい」と言った。しかしイエスは「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と言われて、彼らの足を洗われた。またイエスは「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」とも言っている。イエスの弟子たちに対する洗足は、イエスと彼らを深く結びつけるものであり、後で理解できるもの。後とは何時か。それはイエスが十字架にお架かりになり、三日後に蘇り、天に帰られた時である。洗足とは足の汚れを洗い流し、綺麗な体で、招かれた家の主人と交わるためのもの。洗足はイエスの十字架によって彼らに与えられる雛形。イエスの十字架は彼らの罪を赦し、罪を清め、親しく交わることを可能とする。イエスは十字架の愛で、弟子たちを招き、彼らを親しい関係を結びたいと願っておられる。イエスの十字架の愛は、天の栄光に輝くイエスが奴隷となられて弟子たちに仕え、彼らの足を洗うイメージを持ったもの。

 

  • 互いに愛し合うこと

イエスの洗足は弟子たちに注がれた愛であるのと同時に、その愛を受け取った弟子たちが互いに愛し合うための模範。組織はリーダーによって決まる。ブラック企業のリーダーは組織の人間を人間として見ていない。イエスはどのようなリーダーであったのか。イエスに従ってきた弟子たちがイエスに期待していたことは、イエスが国の王様なること。そして弟子たちは王様の下で働き、人々の上に立つ偉い人になることを思い描いていた。彼らはお互いに誰が一番偉いのかという議論に耽っていた。しかしイエスは彼らの夢を見事に打ち砕く。イエスは王様になることを拒否し、人に仕えるサーバント・リーダーとしての模範を示された。また弟子たちには、奴隷のように互いに足を洗い合うことを命令された。足を洗うとは相手を愛するための表現の1つ。足を洗うそのものの行為が大切な事ではなく、互いに仕え合うことが大切である。イエスの愛の行いから、弟子たちが互いに愛し合うための模範を知ることができる。愛は行いによって表されるべきもの。愛を行うためには、自分の肩書や立場を捨てて、卑しい立場になる必要がある。愛はその時理解されなくても良い。愛は受け入れられない場合がある。愛は自分を裏切る者にも注がれる。このようなイエスの愛が弟子たち(教会)に注がれている。教会は愛を受け取るだけではなく、愛されている者として愛し合うことが求められている。イエスは昇天される前に、そのような共同体をこの地上に残したいと願われた。

 

終わりに

「遺言 ~受け取って欲しいこと~」を見てきた。1つ目の勧めは、イエスの十字架の救いを受け取ること。イエスは十字架の救いを必ず受け取って欲しいものとして残された。イエスの救いは、私たちが神を信じないで生きようとする様々な夢や欲望を打ち砕き、私たちを愛のある者に造り変えていく。2つ目の勧めは、遺言を残す教会として生きる。教会はイエスの弟子たちの集まりであるから、イエスと同じ様に生きる。イエスが遺言を残されて生きた様に、教会も同じ様に生きる。アメリカ16代目大統領リンカーンの母親ナンシーさんの証し。リンカーンはアメリカのケンタッキーの貧しい家に生まれた。母親の息子リンカーンに対する遺言は「汝は百エーカーの農場を持つよりも、一冊の聖書を持つ者となりなさい」といもの。私たちは何を残そうとして生きているのか。人は自分が大切にしているものを残して生きるもの。あなたが大切にしているものは何か。

 

 

2020年3月22日 (日)

2020年3月22日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「成長させて下さる神 ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント31節〜9

 

初めに

自撮り画像をSNSに挙げることがはやっている。自撮り画像は撮影のために飾られたポーズである。飾られたポーズで日常を過ごすことはできない。私たちは自分の普段の様子を自分で見ることはできない。それは他人が見ているのだ。パウロはキリストの心でコリント教会の見、彼らに自分たちの姿とアドバイスを送っている。

 

 

  • 成長しないコリント信者

パウロは、キリスト者には霊の人と肉の人の2種類がいると言っている。霊の人は聖霊に満たされて神の言葉に従う人である。肉の人はイエスを信じてはいるが、幼子であり、救われていない普通の人たちと同じ様な人たち。肉の者は乳しか飲むことができず、堅い食べ物は食べることはできない。コリント教会が肉の人(幼子)である証拠は、指導者を担ぎ上げて、信者同士で妬みと争いを繰り広げていることである。妬みや争いは聖霊のご性質ではなく肉の(罪の)性質である。イエス・キリストは妬みと争いによって十字架に架けられた。つまり争いは教会からイエスを追い出すことになる。教会からイエスがいなくなったら、そこには人間の意見や欲望しか残らない。コリント教会に遣わされた教師はパウロ、アポロ、ペテロ。彼らがコリント教会に派遣された目的は、教会の兄姉を成長させるため。乳児を子どもへ、子どもを青年へ、青年を成熟した大人の信者へと成長させるため。一般的な子どもの成長を考えてみたとき、周りの大人たちは子どもの年齢や成長に合わせたことを提供していく。教師たちはそれぞれに与えられた賜物に従って、教会の成長に必要なものを与えていった。しかし蓋を開けてみたら、教会は幼子の状態であった。その原因は神が教師を通して与えられたものを受け取っていなかったから。

 

  • 成長しない者たちへの教え

教会が教師たちの立場と役割を誤解しているので、パウロは農業の譬えを用いて彼らの誤解を修正しようとしている。まず教会の兄姉は神の畑であり、その畑にパウロが福音の種であるイエス・キリストを植えた。次にアポロが畑に水を注いだのである。神の畑である教会がパウロとアポロによってもたらされたものを吸収すれば、畑には作物が実っていたはず。作物は神が成長させて下さる。しかし畑からは何時まで経っても芽が出てこない。しばらくすると雑草が伸びてきた。それは耕されていない畑に種と水が蒔かれたから。そこでパウロは、教会に神の農業共同体(教会)が遣わされた目的を教える。パウロとアポロは共同体から遣わされた僕であり、共同体の目的のために働いた。共同体と畑にとって大切な事は、指導者を通して与えられる神の賜物を受け取り、教会が成長すること。しかし教会は神の目的から逸脱していた。

 

終わりに

「成長させて下さる神 ~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。神が成長させて下させて下さることを知るだけではなく、実際に神が私たちを成長させて下さることを体験していくことが大切。成長のために2つの勧めをする。1つは、教師が語るみ言葉を大切にしていくこと。教師は四六時中み言葉を語っている訳ではない、必要な時にしか語らない。特に主日礼拝で語る。礼拝で語られるみ言葉を受け取らなければ教会の成長はない。成長がなければ、教会には妬みや争いなどが蔓延していく。礼拝の御言葉に餓え渇いて頂きたい。パウロとアポロは取るにならないものであるが、彼らが語るみ言葉が教会を成長させる。み言葉への食欲があることは成長したい証拠。

2つ目は、礼拝ノートとデボーションノートをつけること。書くことによってみ言葉の真理を自分の心に刻つけていくこと。書き留める内容は(読んだ聖書の要約、ポイントとなるみ言葉、何故そのようなことが起こったのか、何故主はそのような事をなされているのか、訴えたいことは何なのか、自分が為すべきこと、自分の祈り、決心したことなど) 書くことによって、み言葉の真理を悟り、思想を整理していく。思想を深く持ち、単純に信仰を持つこと。それが力強く主を証することに繋がっていく。

2020年3月17日 (火)

2020年3月15日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「2つの知恵~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント21節〜16

 

初めに

世の中には同じようで違うものがある。「そうめん」と「冷麦」。「ざるそば」と「もりそば」。ソーセージとウインナー。皆さんは違いが分かるだろうか。世の知恵と神の知恵も違っている。

 

  • この世の知恵

パウロはコリント教会に福音を伝えた時に、この世の知恵を用いることをしなかった。何故ならば、神の証しであるイエス・キリストは聖霊と神の力によって証明されるものだからである。またそれはコリント教会がどのような土に植えられて、どのような養分を頂いて生きているのかということにつながること。パウロは、教会の神の力によるものである、と言っている。パウロの言っていることは当たりの事。しかしその当たり前が教会に通じていなかった。新約聖書の教会に宛てた手紙の中で、「知恵」という言葉が「この世」と「神」とで対比して用いられている教会はコリント教会のみ。何故パウロはコリント教会に世の知恵のこと引き合いに出しているのか。それはコリント教会が神の知恵よりも世の知恵を大切にしていたからだ。その表れが(1:12)の告白。(「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」) 世の知恵は神の知恵であるイエス・キリストを愚かに扱い、イエスを犯罪者として十字架に架けてしまう。(2:14)でパウロが言っている通りである。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。」 コリント教会もそのように愚か者となっていた。

 

  • 神の知恵

パウロは世の知恵とは別に、(26)で「円熟している者の間では、知恵を語る。」と言っている。この知恵とはイエス・キリストのことである。コリント人への手紙はパウロが54年~57年に書かれたと言われている。知恵であるイエスはコリント教会に54年~57年前に突然現れたのではない。(2:7)に書かれている通りに、「世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。」 イエスは地上に来られる前には何もしておられなかったのではない。神の御心に忠実であった王、祭司、預言者を通してご自身を証ししておられた。そして時が満ちてこの地上に来られた主は、この世の知恵では受け入れることができないお方。コリントに蔓延していたギリシャの神々やエジプトの神々は、人間の五感で考え生み出すことができる偶像である。しかしイエス・キリストは人間が創造できる偶像の枠を超えた想定外のお方。想定内のことは受け入れられるが、想定外のことは受け入れられない。神はどのようにしてイエス・キリストを教会に与えて下さったのか。それは御霊による啓示である。御霊による啓示とは、御霊が語る言葉(聖書の言葉、イエス・キリストの御業)を御霊が理解させて下さること。御霊が語る言葉とはどのように教会にもたらされたのかというと、キリストの思いを持っているパウロ、アポロ、ケパ(ペテロ)が語る福音によってもたらされた。

 

終わりに

「2つの知恵~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。教会は神の知恵であるイエス・キリストで建て上げられていく。世の知恵では教会は建て上げられない。あるカルト宗教を脱会した人が書いた暴露本を読んだ。そのカルト宗教は聖書を用いているが、教理は聖書信仰ではない。信者はトップの人たちが語る教えだけを信じ、神から直接何も受けとっていない。その結果、信者は物事を善か悪で判断し、生まれながらの状態で神の言葉に従い、自分たちは悪ではなく善に生きていると思っている。キリスト教会も神から与えられるものを直接受け取っていないとカルト宗教になってしまう。教会が教会として建つためには、神の知恵であるイエス・キリストを受け取ること。イエスを受け取るためには2つのハードルがある。1つは世の知恵である。世の知恵とはイエス・キリストを認めない知恵。この知恵は私たちに染みついており、イエス・キリストを愚かに扱う罪である。もう1つのハードルは教師・牧師である。何故教師・牧師がハードルになるのか。それはイエス・キリストよりもイエス・キリストを語る教師をアイドル視するから。教師語られるイエスを受け取ること。

 

2020年3月12日 (木)

宮本延春著『オール1の落ちこぼれ、教師になる』(角川文庫 平成21年)

 人間には知りたいという知的欲求が備わっています。その欲求が開花する時期があります。著者は23歳にその事を体験します。付き合っていた彼女からアインシュタインの相対性理論のビデオを見て、この世の法則を数式で表したのをみて衝撃を受けたのでした。この事を期に、物理の道を究めるようになっていきます。しかしその時の著者の学力は九九計算は2の段の途中まで、漢字は自分の名前しか書くことができない、英単語で知っている単語はbookだけでした。小中学校の通信簿は殆どの教科がオール1という酷いものでした。ところが興味を持って学び続けていく中で、少しずつ学んでいることを理解するようになっていきます。また彼の周りには彼をサポートする人のたちが多く置かれていきます。現在著者は母校の高校で教師をしており、学生の学び方にも言及しています。知的欲求はどんな人でも持っています。それを開花させることが生きていくことに繋がっていきます。

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2020年3月 2日 (月)

2020年3月1日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「誇るな! 誇れ! ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント126節~31

 

初めに

心身共に健康であるためにオンとオフを上手に使い分けることは必要なこと。オフにするために趣味を持つことを勧める。私がオフの時にやっている事の1つは、ドリフのコントを見て、おもいっきり笑うこと。先週見たコントを内容を紹介する。夫婦が寝ている時に、大きな地震が起こった。夫は妻の身を心配するが、妻は引き出しの預金通帳と印鑑を心配する。夫は妻の行動に不信感を持ち、妻を問い詰める。妻は通帳ではなく夫のことを心配していると言う。しかし、その後何度か地震が起こる度に、妻は一目散に通帳のところに駆け寄っていく。人は大切なものを隠して生きることはできない。隠そうとするところに人間の愚かさがあり、それをコントにすると笑いを誘う。コリントの教会が大切にしていたことは、どの指導者につくのかということ。彼らは大切にしていることを隠さないで生きていた。そこに彼らの純粋さがあり、同時に幼さがあった。

 

  • 誇ってはいけないこと

パウロは誇ってはいけないことを教会に勧めている。それは神に選ばれたことに関して、自分たちを誇っていけないこと。初めに彼は召された時のことを考えてみよと兄姉に命令している。召されるとは呼ばれること。神はどのような人を呼ばれるのか。神は(知恵のある者)(権力のある者)(身分の高い者)を呼んだのではない。(この世の愚かな者)(この世の弱い者)(この世で身分の低い者)(軽んじられている者)(無きに等しい者)を呼んで下さった。この神の選びは世の中の選びとは全く異なっている。世の中の選びは条件付きであり、その条件には「だから」がつく。(知恵)(権力)(身分の高い)だから選ばれる。この条件は人を支配するために用いられる。しかし本来それらは人を愛し、人に仕えるために用いていくべきもの。(愚かな)(弱い)(身分の低い)(軽んじられている)(無きに等しい)は支配される側の条件。だから世の中では選ばれることは滅多にない。しかし神の選びは無条件であり、にも関らずの選び。(愚かな)(弱い)(身分の低い)(軽んじられている)(無きに等しい)にも関わらず選んで下さる。その目的は、(知者)と(強い者)は辱め、(有力な者)を無力な者にするため。はずかしめと無力にするとは、神を知ることができなくなること。神はこの世の弱い者と強い者を依怙贔屓しているのではない。しかし神の愛の眼差しは、社会的に虐げられた者たちに注がれている。それに対して神の怒りは弱者を虐げる支配者たちに注がれている。神の憐れみを受けることに関して、神に近い存在は弱者の側である。神は彼らに恵みを注ぎ、イエス・キリストを通して神を知る知識に満たす。弱者も強者も自分の知恵、才能、立場では神を知ることができない。神を知ることができたのは神の呼びかけよるものであり、神の一方的な恵み。だから神を知っていることに関して、どんな人間でも神のみまえに誇ることができない。

 

  • 誇るべきこと

次にパウロは教会の兄姉が誇るべきことを勧めている。それは教会の兄姉がキリスト・イエスの中にいることであり、それは神によるものであること。パウロは兄姉がキリスト・イエスの中にいることにより、兄姉に与えられたもの4つ(知恵、義、聖、あがない)挙げている。

キリストは私たちの知恵。キリストから私たちに知恵が与えられた。それはこの世の支配者が持つ様な貧しい者たちを支配するものではない。また学者や知者だけしか持つことができない難解なものでもない。救いをもたらす知恵である。神に敵対する罪、神から遠ざかろうとする罪から私たちを救う知恵である。

またキリストは私たちの義。義とは法廷用語。キリストを信じた者は神に正しい者と認められる。それは私たちの行いによって判断される正さではない。また誰かと比較して相対的に下される正さでもない。キリストを信じた故に与えられる正しさ。神は裁判において、イエス・キリストが兄姉の法廷弁護人となる。神はイエス・キリストの御業・弁護・言葉・とりなしにおいて、兄姉が罪人であるのも係わらず、彼らに義である判決を下す。その判決はキリストの故に覆らない。

キリストは私たちの聖。聖とは世と分離した状態。聖はこの世に存在しない。聖とは神とキリストのご性質。聖なる愛。聖なる裁き。その聖なるご性質がキリストを信じる者に与えられる。だからクリスチャンは聖徒と呼ばれる。聖徒は神らしさを表すように造り変えられた者。神を喜ばせる生き方を可能とさせる。

キリストは私たちの贖い。贖いは償いをすること。違反を帳消しにし、不正行為に対して賠償をすること。聖書は全ての人間が罪に対する贖いを必要としていると説いている。しかし人間は自分の罪を自分で贖うことはできない。贖いがないままの人間は神と和解しておらず、神と敵対している状態。しかしキリスト贖いを受け取った者は神と和解し、神の所有とされた民として生きる特権を頂いた。

兄姉がキリスト・イエスの中にいることにより、兄姉にキリストが持っておられる良きものが与えられ続けていく。それは、植物が良い土に植えられ、水と光が注がれるならば、成長し実を実らせるようなもの。またそれは、自分の体にジャストフィットする洋服が次々と与えられ、ドレスアップさせられていくようなもの。教会は成長させて下さる主を誇る。

 

終わりに

「誇るな! 誇れ!」を見てきた。教会は神に選ばれた者たちの集まり。私たちが神に選ばれた理由は神の側にある。神が選びたいと思われたから選ばれたのだ。その神の選びに私たちが「はい」と応答した。私たちの立場や状況、才能や能力が神の選びの条件ではない。また自分に福音を伝えてくれた牧師や兄姉が特別な存在だから、自分が選ばれたのでもない。福音を伝えてくれた牧師や兄姉は神に用いられた器にすぎない。

教会は何を誇っているのか。誇りたくなるような事柄は数多く存在する。有名な牧師、教会の人数、立派な教会の建物、献金の残高、優秀な人材、特別な身分、突出した才能。世の中の価値観はそのようなものに置かれている。教会が誇るべきことは、神がイエス・キリストによって私たちを選んで下さったこと。そしてイエス・キリストの恵みによって私たちが生かされていること。このことは教会が教会であるために最も必要なことであり、教会が教会として生きていく原動力。これは教会の人数が2~3人であろうが、何千人に増えても変わらないもの。また教会の建物が6畳一間であろうが、ホールのような大教会であろうが変わらないもの。

私たちが持っている誇りは私たちの生き方で表現されていく。あなたの口の告白や態度で表していることが、あなたが誇っていることである。誇り賛美となって表されていく。心からの賛美を捧げるために、イエスを誇っていこう。

 

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