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2020年3月 2日 (月)

2020年3月1日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「誇るな! 誇れ! ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント126節~31

 

初めに

心身共に健康であるためにオンとオフを上手に使い分けることは必要なこと。オフにするために趣味を持つことを勧める。私がオフの時にやっている事の1つは、ドリフのコントを見て、おもいっきり笑うこと。先週見たコントを内容を紹介する。夫婦が寝ている時に、大きな地震が起こった。夫は妻の身を心配するが、妻は引き出しの預金通帳と印鑑を心配する。夫は妻の行動に不信感を持ち、妻を問い詰める。妻は通帳ではなく夫のことを心配していると言う。しかし、その後何度か地震が起こる度に、妻は一目散に通帳のところに駆け寄っていく。人は大切なものを隠して生きることはできない。隠そうとするところに人間の愚かさがあり、それをコントにすると笑いを誘う。コリントの教会が大切にしていたことは、どの指導者につくのかということ。彼らは大切にしていることを隠さないで生きていた。そこに彼らの純粋さがあり、同時に幼さがあった。

 

  • 誇ってはいけないこと

パウロは誇ってはいけないことを教会に勧めている。それは神に選ばれたことに関して、自分たちを誇っていけないこと。初めに彼は召された時のことを考えてみよと兄姉に命令している。召されるとは呼ばれること。神はどのような人を呼ばれるのか。神は(知恵のある者)(権力のある者)(身分の高い者)を呼んだのではない。(この世の愚かな者)(この世の弱い者)(この世で身分の低い者)(軽んじられている者)(無きに等しい者)を呼んで下さった。この神の選びは世の中の選びとは全く異なっている。世の中の選びは条件付きであり、その条件には「だから」がつく。(知恵)(権力)(身分の高い)だから選ばれる。この条件は人を支配するために用いられる。しかし本来それらは人を愛し、人に仕えるために用いていくべきもの。(愚かな)(弱い)(身分の低い)(軽んじられている)(無きに等しい)は支配される側の条件。だから世の中では選ばれることは滅多にない。しかし神の選びは無条件であり、にも関らずの選び。(愚かな)(弱い)(身分の低い)(軽んじられている)(無きに等しい)にも関わらず選んで下さる。その目的は、(知者)と(強い者)は辱め、(有力な者)を無力な者にするため。はずかしめと無力にするとは、神を知ることができなくなること。神はこの世の弱い者と強い者を依怙贔屓しているのではない。しかし神の愛の眼差しは、社会的に虐げられた者たちに注がれている。それに対して神の怒りは弱者を虐げる支配者たちに注がれている。神の憐れみを受けることに関して、神に近い存在は弱者の側である。神は彼らに恵みを注ぎ、イエス・キリストを通して神を知る知識に満たす。弱者も強者も自分の知恵、才能、立場では神を知ることができない。神を知ることができたのは神の呼びかけよるものであり、神の一方的な恵み。だから神を知っていることに関して、どんな人間でも神のみまえに誇ることができない。

 

  • 誇るべきこと

次にパウロは教会の兄姉が誇るべきことを勧めている。それは教会の兄姉がキリスト・イエスの中にいることであり、それは神によるものであること。パウロは兄姉がキリスト・イエスの中にいることにより、兄姉に与えられたもの4つ(知恵、義、聖、あがない)挙げている。

キリストは私たちの知恵。キリストから私たちに知恵が与えられた。それはこの世の支配者が持つ様な貧しい者たちを支配するものではない。また学者や知者だけしか持つことができない難解なものでもない。救いをもたらす知恵である。神に敵対する罪、神から遠ざかろうとする罪から私たちを救う知恵である。

またキリストは私たちの義。義とは法廷用語。キリストを信じた者は神に正しい者と認められる。それは私たちの行いによって判断される正さではない。また誰かと比較して相対的に下される正さでもない。キリストを信じた故に与えられる正しさ。神は裁判において、イエス・キリストが兄姉の法廷弁護人となる。神はイエス・キリストの御業・弁護・言葉・とりなしにおいて、兄姉が罪人であるのも係わらず、彼らに義である判決を下す。その判決はキリストの故に覆らない。

キリストは私たちの聖。聖とは世と分離した状態。聖はこの世に存在しない。聖とは神とキリストのご性質。聖なる愛。聖なる裁き。その聖なるご性質がキリストを信じる者に与えられる。だからクリスチャンは聖徒と呼ばれる。聖徒は神らしさを表すように造り変えられた者。神を喜ばせる生き方を可能とさせる。

キリストは私たちの贖い。贖いは償いをすること。違反を帳消しにし、不正行為に対して賠償をすること。聖書は全ての人間が罪に対する贖いを必要としていると説いている。しかし人間は自分の罪を自分で贖うことはできない。贖いがないままの人間は神と和解しておらず、神と敵対している状態。しかしキリスト贖いを受け取った者は神と和解し、神の所有とされた民として生きる特権を頂いた。

兄姉がキリスト・イエスの中にいることにより、兄姉にキリストが持っておられる良きものが与えられ続けていく。それは、植物が良い土に植えられ、水と光が注がれるならば、成長し実を実らせるようなもの。またそれは、自分の体にジャストフィットする洋服が次々と与えられ、ドレスアップさせられていくようなもの。教会は成長させて下さる主を誇る。

 

終わりに

「誇るな! 誇れ!」を見てきた。教会は神に選ばれた者たちの集まり。私たちが神に選ばれた理由は神の側にある。神が選びたいと思われたから選ばれたのだ。その神の選びに私たちが「はい」と応答した。私たちの立場や状況、才能や能力が神の選びの条件ではない。また自分に福音を伝えてくれた牧師や兄姉が特別な存在だから、自分が選ばれたのでもない。福音を伝えてくれた牧師や兄姉は神に用いられた器にすぎない。

教会は何を誇っているのか。誇りたくなるような事柄は数多く存在する。有名な牧師、教会の人数、立派な教会の建物、献金の残高、優秀な人材、特別な身分、突出した才能。世の中の価値観はそのようなものに置かれている。教会が誇るべきことは、神がイエス・キリストによって私たちを選んで下さったこと。そしてイエス・キリストの恵みによって私たちが生かされていること。このことは教会が教会であるために最も必要なことであり、教会が教会として生きていく原動力。これは教会の人数が2~3人であろうが、何千人に増えても変わらないもの。また教会の建物が6畳一間であろうが、ホールのような大教会であろうが変わらないもの。

私たちが持っている誇りは私たちの生き方で表現されていく。あなたの口の告白や態度で表していることが、あなたが誇っていることである。誇り賛美となって表されていく。心からの賛美を捧げるために、イエスを誇っていこう。

 

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