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2020年4月25日 (土)

2020年4月26日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「教会にとってパウロは何者 ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント41節~21

 

初めに

オーストラリアの番組で、ドミノピザの最高経営責任者(CEO)が現場で社員がどのように働いているかを知るために、ピザのお店で新人として働くことになった。新人は仕事をする中で店員たちが複雑な事情を抱えて働いていることを知るようになる。店長のアルさんは15歳の時にいとこの男性が自殺して不登校になった。しかしピザ屋で働いたことにより、自分の人生が救われた。配達のラジさんは息子たちに良い教育を受けさせるためにインドから移住してきた。アルさんはオリジナルのピザを作って新人に食べさせた。後日、新人は自分が関わった従業員たちを都会にそびえたつ本社に招き、身分を明かして、それぞれに見合った報酬を彼らに与えた。アルは大学に行く奨学金を与えられ、ラジには新しいピザを商品化するその報酬が与えられた。彼らは驚き中でCEOに感謝を表した。

組織にはリーダーにしかできないことがあり、リーダーが組織を変えていく力を持っている。それは教会にも通じること。しかしコリント教会ではパウロをリーダーとして認めていない人たちがいたので、彼は教会でリーダーシップを発揮できない状態であり、教会が教会として存在していない状態。そのような教会に彼は自分が何者なのかを明かしている。

 

  • パウロはキリストに仕える者であり、神の奥義の管理者。

パウロは自分のことを「パウロはキリストに仕える者、神の奥義の管理者」であると宣言し、教会が自分のことをそのような者として受け入れることを求めている。キリストに仕える者とはキリストの奴隷のことである。奴隷は自分勝手に生きること、働くことはできない。奴隷パウロは主人キリストの命令と指示に従い、教会に仕えて働く者であった。キリストが望まれる働きを教会でなしていった。また神の奥義の管理者とは神の福音の監督者であること。神の福音の監督者はイエス・キリストのお言葉を守り、イエスに従い、教会の必要に応じてイエスのお言葉を提供する者。彼は自分の立場を教会に説明する中で、「自分が裁判にかけられること」「ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶること」に言及している。それは彼がキリストの奴隷であることと、神の奥義の管理者であることに関係している。

コリント教会には4つの派閥があった。パウロ派、アポロ派、ペテロ派、キリスト派。本来教会にはキリスト派のみが存在し、他の派閥は存在しない。アポロ派とペテロ派にとって、他所の派閥のリーダーであるパウロの言っていることは聞くに値しない。教会は人間の判断でパウロを見下していた。そのような愚かな教会の判断を「裁判」という言葉で表現している。パウロはイエスが自分を裁判(判断)し、全ての事を明らかにして下さるのだと言っている。「ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶること」も同じである。パウロは、教会で派閥争いをしている教会は高慢で裕福な王様のような存在であり、本来教会が生きるべき姿を現していないと警告をしている。彼は本来教会が生きるべき姿を自分の姿に重ね合わせて証ししている。彼の生き方は「コロッセウムに引かれて野獣の餌食にされる迫害者のようであり」「卑しめられ、飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いており、はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけられ、この世のちりのように、人間のくずのような者」である。教会がパウロのことを「キリストに仕える者、神の奥義の管理者」として受け取っていたならば、彼らもパウロと同じ生き方をしていたはずであった。

 

  • パウロは父親。

またパウロはコリント教会にとって父親として振舞っていた。そしてコリント教会がパウロをそのような存在として受け入れることを願っていた。どのような点においてパウロはコリント教会にとって父親であったのか。それは彼がイエス・キリストを彼らに伝えたことにおいて。彼はそのことを「キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。」と言っている。イエスを信じるとは新しく生まれること。新しく生まれるとは今まで通りの生き方ができなくなること。新しく生まれることをパウロ自身が体験していた。クリスチャンを迫害し、イエスを殺す者だった彼がイエスを愛する者へと変えられた。彼を変えたイエス・キリストはコリント教会のメンバーも造り変えて下さった。

また彼がコリント教会にとって父親である理由は、コリント教会を成長させ自立させようとしていること。親が子どもを叱る時の常套句は「親の言うことを聞きなさい」であって「自分の様に振舞いなさい」とはなかなか言えるものではない。しかしパウロは「わたしにならう者となりなさい」と教会に命令している。

パウロは教会にイエス・キリストを伝えた時に、イエス信じて生きることを自分のふるまいによって伝えていた。イエスを信じたばかりの者がクリスチャンとして生きていくためには、先輩クリスチャンの生き方を真似すること。イエスも弟子たちを訓練するためにその方法を用いられた。イエスは弟子たちを側に置き、ご自身の働き、祈り、弟子たちに見せられた。それは弟子たちがイエスの行いをまねるため。パウロがコリント教会に手紙を書いている時に、彼には別の計画があり、コリント教会に行く事ができなかた。そこで自分の代わりにテモテという指導者を教会に遣わした。その目的は、かつてパウロが教えたことを思い起こさせるため。

 

終わりに

「パウロは何者 ~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。今朝の御言葉から3つの勧めをしたい。

1つは、教会が指導者をどのような存在として受け入れるのか。この問題は教会が指導者をどう扱うのかという事だけではなく、教会がどのような教会として生きていくかに関わってくること。教会の指導者は神が立てられた者である。また神は指導者に教会を導くための賜物を与えて下さっている。教会はその指導者の働きを見て、神が立てられた者であることを受け入れること。また神が立てた指導者が教会に語る神の言葉に聞き従うこと。教会は建てられた指導者が語るみ言葉と、そのみ言葉に従う教会によって形成されていく。教会がそのような信仰に立たないと、教会には分裂が生じ、神を抜きにして満足するようなコミニテイになる。そうなってくると、指導者が語る神の言葉がほとんど教会に通じなくなってしまう。

2つめは、親の信仰を持つこと。親としての信仰をもつためには、誰かに福音を伝えることであり、誰かをクリスチャンとして育てることである。反対に、誰かに福音を伝えない、誰かをクリスチャンとして育てないことは、いつまでも子どものクリスチャンでいることになる。親は自分の持っているものを子どもに与える。親の振舞を子どもに見せる。そして子どもが自分でやるようにチャレンジさせ、そばで見守る。子どものテリトリーには入らない。そのようにして親になり、子どもを自立させていく。

3つめは、イエスを信じることについて。イエスを信じるとは、洗礼を受けて、神の家族(教会)に加わること。教会生活をすることで、イエスを信じた者は人格的に成長していく。生まれたばかり赤ちゃんのことを考えてみて欲しい。赤ちゃんが誰かの家族であると言っても、食べ物だけ与えられて、家族と共に過ごさなければ、どうなるだろうか。赤ちゃんは人格的に成長できない。死んだような人間になる。イエスを信じることも同じ。洗礼を受けて、教会に加えられなければ、イエスを信じていることにはならない。神はイエスを信じた者が洗礼を受け、神の家族(教会)に加わることを命じておられる。

 

 

2020年4月18日 (土)

2020年4月19日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「あなた方は教会 ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント310節~23

 

初めに

弘前城の本丸石垣の解体修理で、弘前城を支える土台の部分が露わになった。土台の四隅にはイカのような形をした隅石が置かれていることが分かった。また土台の石には小さくへこんだ箇所があり、それは隣の石のへこみとあわせると蝶の形になる。そのへこんだ箇所に蝶の形をした石がはめ込んであり、地震が起こっても、土台の石が動かないように固定されてあった。そのような土台は全国でも珍しいものである。今朝の箇所でパウロは教会を建物に譬えており、壊れたコリント教会の修理をしている。今朝は「あなた方は教会」というタイトルでみ言葉を見ていく。

 

  • 教会はキリストを土台とした家

パウロはコリントに教会を生み出したことを、家を建てることに譬えている。彼がなした働きは熟練した建築士として家の土台を据えたこと。土台は人目につく場所ではないが、家の中の最も重要な部分である。家が安定した建物になるかどうかは土台にかかっている。教会の土台はイエス・キリストであり、パウロは十字架に架けられたキリストを彼らに伝えた。

家は土台だけでは完成したことにならない。土台の上に材料を組み合わせていく。(312)にはその材料が書かれている。「金、銀、宝石、木、草、わら」。初めの3つの「金、銀、宝石」はキリストに相応しい材料であるが、後の3つである「木、草、わら」は3匹の子豚の話同様にキリストに相応しくない材料。パウロは家の土台を据えただけで、その後の家の建築はアポロとケパ(ペテロ)は神の材料である「金、銀、宝石」を用いて建てていった。

パウロは建てられた家の耐久性を語っている。木造の家の耐久性は20年前後。しかしキリストを土台とした家の耐久性はどのくらい。パウロは家の耐久性がかの日に試されると言っている。かの日とは(17)「わたしたちの主イエス・キリストの日」であり再臨の時である。再臨の日に家が残るか燃えるかによって、家の耐久性は試され、家が残るならば家を建てた者は神から報酬を受ける。キリストを土台とした教会にとって、今を生きている現在と未来に起こる再臨は密接に結ばれている。パウロと彼の同労者は、再臨の時に残る家を建築していった。

 

  • 教会は神の宮 

パウロは、教会は神の宮であると言っている。生まれながらの人間を神の宮をさせるものは神の御霊である。神の御霊を持たない者(イエスを信じていない者)は、どんなにがんばっても神が望まれる礼拝をすることはできない。自分の欲望を満足させるような神々を礼拝するものになってしまう。コリント教会の兄姉たちはイエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じ、神から御霊を与えられた神殿であった。神殿の役目は父なる神と主イエスを礼拝することである。

しかしコリント教会の神の宮から発せられていたことは(礼拝での賛美は)、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」というもの。パウロは「もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。」と言っている。ここでパウロが言っている神殿破壊は迫害ではなく、教会の内部の分裂のことである。教会のメンバーが指導者を担ぎ上げて派閥争いをしていることが神の宮を破壊する行為。神の宮を破壊するような者は、神の裁きに会うことを警告している。

 

  • 教会はキリストと神のもの

最後に、パウロは、教会はキリストと神のものであると言っている。教会とはコリント教会の兄姉たちそのものである。コリント教会の中に兄姉だけではなく、使徒たちであるパウロ、アポロも、ペテロ(ケパ)も含めて存在している。またその枠の中には、世界、生、死、現在と未来という万物が含まれている。キリストが万物の主であるので、世の終わりに教会はキリスト共に万物を支配するのである。だからパウロは、万物はコリント教会のものであると言っている。

神がキリストを通して与えられた教会には大きな1つの枠があるだけである。その枠の中にパウロ教団、アポロ教団、ペテロ教団のような国境や排他的経済水域は存在しない。しかしコリント教会は指導者を担ぎ上げて、1つ枠の中に、さらに別な枠を作って小競り合いをしていた。そのような考えはこの世の知恵であり、神の前では愚かな(馬鹿な)ものである。パウロは旧約聖書を引用し、それは悪知恵であり、むなしいものであると言っている。

何故コリント教会はそのような状況に陥ってしまったのか、それはイエス・キリストを十分に受け取ることができていなかったから。もし神からのものを受け取ることができたならば、教会には所属意識が生じた。自分たちは神のもの、キリストのものであるという意識(信仰)である。しかし彼らには所属意識が薄かったので、教会とは別なグループが生み出された。パウロはそのような彼らに「あなたがたはキリストのもの」であると宣言している。

 

終わりに

・「あなた方は教会 ~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。今朝の御言葉から2つ勧めをしたい。1つは、私たちは教会であること。神は私たちがイエスを信じた時から、私たちを教会として造り変えて下さった。それはキリストを土台とした家に造り変え、神の宮に造り変えて下さった。だから私たちは教会として成長できるし、神を礼拝できる。私たちを教会にして下さったのはイエスである。それは私たちの努力ではなく神の恵み。未だクリスチャンになっていない方に、勧めたいことは、教会に通い、礼拝に出席していれば、自然に教会になっていくのではない。イエスを信じ、洗礼を受けることにより、イエスの教会に造り変えられる。また教会はキリストを土台とした建物であるので強い存在である。(少しの困難や問題で崩れない存在) 教会は神の宮であり、目立つ存在である。(教会は掘っ建て小屋ではない。礼拝する者としてそびえたつ存在)さらに教会はキリストのものとされた者であり、愛されている者存在である。(孤独で惨めな存在ではない。) 

2つ目は、教会の所属意識について。何故自分はこの教会に所属しているのかという理由を自分に問いかけてみて欲しい。最も大切な意識は、自分はキリストのものであるという意識。その意識がないならば、教会内部に教会とは別なグループが存在するようになっていく。内部分裂が起こり教会は破壊されていく。教会を1つとするものはキリスト。家族を1つにするものはキリスト。民族や国を超えて私たちを1つにするものはキリスト以外にない。キリストを持たないコミニテイには争いと分裂が生まれる。人間の問題の根源はイエスを信じていないこと、イエスのものになっていないこと。イエスのものになっていないと、私たちは誰かのものになろうとしてさまよう。あなたは仕事や会社のもの(奴隷)になっていませんか。あなたは勉強のもの(奴隷)になっていませんか。またあなたは身近な人のもの(奴隷)になろうとしていませんか。またあなたは身近な人を自分の所有物(奴隷)であるかのように扱っていませんか。私たちはキリストのものだ。

2020年4月13日 (月)

花見🌸

毎年綺麗な花を咲かせてくれます。

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2020年4月12日 (日)

イースター礼拝

本日の礼拝は主イエス・キリスト様が死から蘇られたことを記念する礼拝でした。主が納められたお墓は空であり、マリヤは墓の前で主と出会うことができました。蘇りの主との出会いは弟子である私たちの全てを変えて下さいます。

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読んだ本の紹介 小川洋子著『ことり』(朝日文庫 2016年)

本屋をぶらぶらして読みたいと思った本です。著者の本では『博士の愛した数式』が有名ですが、私の読書はあてえ有名ではないものから入っていくのが常です。本の内容は小鳥の小父さんと呼ばれる人の物語です。物語のあらすじを見ると、特に何の変哲もないものですが、著者の描写が読者をのめり込ませてくれます。このように文章が書けたら良いとも思わせられた本です。最後のシーンを読んだら、必ず最初に戻って初めのシーンを確認するようになります。

 

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2020年4月11日 (土)

餌やり

教会の近くには様々な鳥たちがやってくる。近くの庭先やベランダで鳥たちに餌を置いている場所があるからかもしれない。カラス、雀、ムクドリ、セキレイなど。雀はカラスの後を追って、カラスのゴミあさりのおこぼれに預かろうとしているのを何度も見かけたことがある。カラスとムクドリは、私が投げた餌を目で追って、餌を食べにやってくる。雀は投げた餌を怖がって逃げていく。危険認知度? 知能?に違いがあるような気がする。教会に巣箱を仕掛けてみた。どんな鳥がやってくるのか楽しみにしている。

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2020年4月12日(日)イースター礼拝説教概要

説教タイトル:「復活のイエス様に出会う」

説教テキスト:ヨハネによる福音書 2011節~23

 

  • 初めに

4月は進級・進学の時期である。子どもの頃から私は、クラス替えのたびに自分の名前がなかったらどうしよう、と思っていた。特に大学では、福島の地を離れ、神奈川の大学に進学したため、ここまではるばるやって来たのに名前が呼ばれなかったら、と取り越し苦労をしていた。しかしそのぶん名前を呼ばれた瞬間の喜びはひとしおで、今でもその時の喜びは忘れられない。

 

  • 墓の中から姿を消したイエス様

十字架に架けられて亡くなったイエス様の遺体に香油を塗るために訪れた者は、女弟子の一人マグダラのマリヤ。彼女は主の遺体が無くなっているのを発見する。彼女はかつてイエス様に7つの悪霊を追い出してもらい、イエス様に献身的に従うようになった女性。イエス様と出会ったことで、絶望から希望の人生へと変えられた。彼女はイエス様が十字架に架けられた時も、その様子を見届けた。12人の男弟子たちはイエス様のように殺されるかもしれないと思い、部屋に引きこもってしまった。しかしマリヤは自分の命の危険も顧みず、主を愛して、主の墓場を訪れた。しかしイエス様の遺体が無くなったのを見て、誰かが主の遺体を盗んだと思い、墓の前で号泣していた。彼女はあきらめきれずに、墓に戻ってきて、もう一度墓の中を覗き込んだ。

 

  • マリヤに「出会った」復活のイエス様

墓の中を再び覗き込むと、二人の天使がおり、彼女に問いかけた。「なぜ泣いているのですか?」 マリヤは主の遺体を誰かが盗んでいったと訴えた。そして振り返ると目の前に復活されたイエス様が現れた。しかし彼女はそれが主だと気づくことができなかった。イエス様は栄光の姿で蘇られたため、容姿が少し変わっていたのだ。主は天使同様に、彼女に「なぜ泣いているのですか?」と言われた。そう問いかけられても彼女は主だと気づくことができない。悲しみにくれ、絶望の只中にある時、彼女のように泣き崩れてしまうことがある。そういった時に「何故、泣いているの?」と聞かれることは些か冷たいことを言われていると感じるかもしれない。しかしイエス様の側からは、その質問は悲しみを喜びに変えるための質問であった。十字架に架けられ三日後に蘇るということが真実となってその場で起こっている。まさにその時なのだった。主はご自身の質問によって、彼女の目が開かれるのを望んでおられた。彼女が主だと気づくことができたのは、主が彼女の名を呼ばれたことだった。主の呼びかけに、彼女は「ラボニ」(「先生」)と応答することができた。

ここから分かることは、主が普段から彼女に対して、「マリヤよ」親しく語りかけ、彼女が「先生」と返す親しい交わりが持っていたことだ。このような親しい交わり、イエス様とのコミュニケーションを私たちも持つ必要がある。それは礼拝であり、礼拝の中で、賛美、祈り、御言葉を受け取ること。礼拝の中で主の恵みを受け取って生きるのである。

 

  • 与えられた使命

主はマリヤに「私にすがりついてはいけません」と言われた。この時、主は父なる神様の御元に昇る前であり、十字架の救いは途中段階だった。だから主はそのようなことを彼女に言われた。その後主は彼女に使命を与えられた。「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」と言うことを、兄弟たちの所に行って告げることである。その後の聖書を読むと、主は男弟子たちの前に姿を現されたことが分かる。彼女が伝えなくても、主が直接男弟子たちに伝えても良いのではないかと思う。主は彼女に何をさせたかったのか。それは彼女が蘇られた主との出会いを体験し、「主が蘇られた」ことを確信に満ちて男弟子たちに伝えるためである。また蘇られた主を伝えるとは、主と彼女の同作業であるのだ。

 

終わりに

  • 復活の主と出会う

クリスチャン生活で最も大切な事がある。それは自分の祈りがきかれるとか、自分の問題が全て解決することはことではない。そのようなことは大切でない訳ではない。しかし最も大切な事は復活の主と出会うこと。主を信じていない者にとって、主が蘇られたかどうかはどうでもいいことである。主の弟子でない者が蘇られた主と出会ってもなんの感動もないはず。しかし主の弟子にとって、復活の主が蘇られたかどうか、また蘇られた主と出会うかどうかは、生きるか死ぬかの大問題である。復活のイエス様に出会う体験は、主の弟子として主に従い続ける中で与えられるもの。私たちは復活の主を自分で探しあてるのではない。主は私たちよりも先回りしておられる。主に従う中で、先回りされている主との出会いを体験するのである。主は皆さんの名を呼ばれた。その主の招きに従って、今まで皆さんが従ってきた。さらに復活の主は皆さんの名を呼んでおられる。復活の主は皆さんの限界を打ち破って下さり、主の弟子として生きる道を開いておられる。だから主の弟子であることを捨ててはいけない。主が与えて下さった教会を捨ててはいけない。今日も明日も主の弟子として生きていこう。また未だ蘇りの主を信じていない方は、今日主を信じ、主の弟子となることを決意していこう。

 

  • 行って告げること。

イエス様は神様の御言葉をのべ伝えることを望んでおられる。主を信じて従うところに主を伝えるチャンスは訪れる。年齢や地位も関係ない。弱いものは強くされ、見えないものは見える目が与えられ、主を語ることができる。主を伝える原動力は、私たちが蘇り主との出会いを体験すること。み言葉をコピペして相手に伝えても、相手は主を信じない。私たちが確信を持って主を伝えていく時に、相手は自分と同じく主を信じる者となる。主に感染していない者の感染力はゼロ。しかし主に感染している者は他の者に主を感染させる聖霊の力を持っている。

また主を伝えることは、主と私たちとの共同作業。私たちが伝えないならば、主は何もなされない。しかし私たちが主を伝えたならば、その後で主は働いて下さり、主を信じる者に現れて下さる。だから相手の様子を見るのではなく、伝えるというアクションを自分から起こしていくこと。主を伝えるならば、主が次々と働いて下さり、次になすべきことは示されていくものだ。主を伝えることは難しいことではない。先ず礼拝で自分が主から受け取った恵みを家族に証ししていこう。

新型コロナウィルスの影響により、絶望的な状況の中で、神様は今までになかったようなことをなしおられる。死を打ち破り、希望を与えて下さる唯一の主に感謝し、福音を宣べ伝える者となっていこう。

 

 

2020年4月 8日 (水)

新型コロナウィルスおける教会の集会について

 当教会は新型コロナウィルスの影響を鑑みまして、日曜日の礼拝及びその他の集会において集まることをストップしております。集会はオンライン及びペーパーを用いて行っています。当教会の集会に来会されることをお控え下さるようにお願い致します。ご理解とご協力よろしくお願い致します。

2020年4月 7日 (火)

読んだ本の紹介 藤原博史著『210日ぶりに帰ってきた奇跡のネコ』(新潮新書 2020年)

タイトルを魅せられて書店で注文して購入しました。本の初めの部分を読んだ時に、この本には感動的な事が書かれていると思わせられ、その期待はその通りのものとなりました。行方不明になったペットを探し出しす感動的なエピソードにあふれています。また著者がこの職業に就くようになった経緯は読む人の心を揺さぶリます。ぜひ読んで頂きたい本です。

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2020年4月 5日 (日)

2020年4月5日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「イエスの予告」

説教テキスト:マルコによる福音書1422節〜31

 

初めに

読書メーターというコミニティサイトがある。読んだ本の感想を短文で書き込み、感想を分かち合うサイト。投稿することによって、同じ本を読んでいる読者とつながることもできる。自分の感想に対して、他の人がいいねや感想に対するコメントも投稿できる。感想を投稿する際にはネタバレを含むかどうかを選んで投稿できる。他の人がその本のネタを知りたくない場合があるので、そのような機能がついている。推理小説で予め犯人があらかじめ分かっていたならば、本を読み進めていく面白さが失われてしまう。イエスは十字架の苦難を前にして、すべのネタをオープンにしてしまわれた。今朝は「イエスの予告」というタイトルでみ言葉を見ていく。

 

  • ご自身が与えて下さるものを予告された。

イエスは過越しの食事を通して、弟子たちに与えておられるものがある。それはパンとぶどう酒、天国の宴会である。過越の食事は(祭り)は、イスラエルの民がエジプトから脱出した出来事を思い起す記念の祭り。しかしイエスの過越の食事は、出エジプトを記念するものではなく、出エジプトの記念を更新するもの。何が更新されるのか。それはイエスのパンと血受け取る弟子たちが神の民として契約を結ぶこと、また神の民である弟子たちが天の宴会に連なること。イエスの十字架による救いと天国の祝宴は、出エジプトと過ぎ越しの食事に根差したものである。十字架の救いを頂くことは、テーブルマターであるイエスが与えるパンとぶどう酒を受け取ること。また天国の祝宴は、共にぶどう酒を共に飲んでお祝いすること。さらにイエスが弟子たちに与えられたことは、蘇られたイエスとガリラヤで会う約束。

イエスが用意された食卓は十字架の苦難を受けられる前なので、どうしても暗いイメージが付きまとう。しかしイエスの食卓は明るいものであったはず。イエスはご自身が持っておられるものをいやいやながら弟子たちに与えられたのではなく、喜んで、喜びに溢れて、彼らに与えて下さった。弟子たちはイエスの言われていることを十分に理解できなかったので、主が与えて下さるものをしっかりと受け取ることができなかったはずだ。しかしその時はそれでよかった。彼らがしっかりと受け取ることができたのは、復活の主と出会い、聖霊を受けた時であった。その時に、彼らはイエスのお言葉を思い出し、それらを受け取ることができた。

 

  • 弟子たちの行動の予告

またイエスは弟子たちがやがてとる行動も予告されている。(ゼカリヤ1379)の聖書箇所を引用して、羊飼いであるイエスが打たれるので、羊である弟子たちはつまずいてしまうこと。しかしペテロは「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」とイエスに言い返してきた。イエスは彼に対して、彼がどのようにつまずくのかを具体的に教えられた。するとペテロは主の言葉を否定して、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」とイエスに言い返してきた。ペテロのその告白に、他の弟子たちも賛同し、同じ告白をした。弟子たちの告白はある意味立派な告白である。殺されるような事があったとしても、主を知らないとは絶対言わないと言い切っている。その結果はどうであったのか。弟子たちの内一人ぐらい有言実行する者がいても良さそうであったが、結果は全員惨敗に終わった。弟子たちの何がよろしくなかったのか。よろしくないことを2つ挙げることができる。1つは「みんなの者がつまずいても」という優越的な思い。高慢な思いと言ってもよい。イエスがなされた過ぎ越しの食事は、弟子たちと共になされたもの。またイエスは弟子たち全員がその食事を受け取って欲しかった。しかしペテロの告白は、自分だけが主に従えばよく、他の弟子がつまずいても構わないもの。自分だけが主の食事を食べ、他の者が倒れても構わない弱肉強食的な信仰。だから主はペテロに「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ2232)と言われた。もう1つは、弟子たちがイエスの言葉を聴こうとしないこと。イエスは、弟子たちはつまずくと予告された。しかし弟子たちはイエスのお言葉を聴こうとせずに、主が語られる事を認めようとしなかった。もしイエスの言われたことを認めることができたならば、そんな酷いことをする自分たちが主に愛されているという意識を持つことができた。それは恵みだと思うことができたはず。そのような認識は後になって与えられた。イエスは彼らの弱さを十二分に承知の上で、彼らにご自身を与えられた。

 

終わりに

「予告」について見てきた。イエスはご自身に関すること、また弟子たちの主に対する態度の全てをオープンにされている。主の予告を知るだけではなく、そのような主との出会いを自分の人生の中で体験することが大切である。私たちは、主が十字架にお架かりになったこと、弟子たちが主を見捨てて逃げ出したことを知っている。またそれを信じている。まともなクリスチャンであるならば誰でも信じているはずだ。しかし主が私たちの人生の中に現れて下さり、主が死んでしまうような出来事、自分が主を見捨てて逃げ出してしまうこと、ユダのようにイエスを裏切ろうとすることは、聞きたくない、信じたくない、認めたくないのではないか。私たちは自分の都合の良いストーリーだけを頭で描き、主のお言葉をブロックする者である。しかしイエスは主を見捨てて逃げ出すような私たちを、ご自身の食卓に招いて下さり、喜んでご自身のパンとぶどう酒を与えて下さるお方。そのようなイエスを信じる者が主の弟子であるのだ。

 

2020年4月 2日 (木)

読んだ本の紹介 ウィリアム・アイリッシュ著『幻の女』(ハヤカワ文庫 2011年)

 スコット・ヘンダーソンは株式ブローカーの仕事をしている。愛人のキャロルによって本当の愛り、妻のマーセラとは離婚を考えるようになった。彼は妻に離婚を切り出すが、彼女はそれに応じようとはせず、今まで通りに暮らしていた。ある晩彼は彼女と喧嘩をして、夜の町に飛び出していった。そして一人の女とバーで酒を飲み、劇場に行き、レストランで食事をして別れる。その後彼が家に帰ってみると、妻は殺されていた。彼は殺人者として疑われ、取り調べを受ける。バーで出会った女性が彼のアリバイを証明してくれれば、冤罪は晴れることになる。しかしバーの店員、劇場の関係者、レストランの従業員、タクシー運転手は皆、彼は一人であり、女性を連れていなかったと証言する。女は幻の女であった。その後彼は裁判で死刑が確定してしまう。しかし刑事は、彼が犯人であることに疑問を抱き、真犯人を探す。犯人は一体誰なのか。死刑執行まではあとわずかしない。

 推理小説は殆ど読みませんが、今回はチャレンジしてみました。大学時代にある方から紹介されて以来読みたいと思っていた本です。犯人は誰なのかを推理しながら読みましたが、思ってもみなかった人がそれでした。推理をしながら気がついたことは、小説に書かれたストーリーと自分が推理したストーリーを結びつけながら読んだこと。真犯人が分かった時点で、自分の推理は見事に砕け散りました。

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