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2020年4月25日 (土)

2020年4月26日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「教会にとってパウロは何者 ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント41節~21

 

初めに

オーストラリアの番組で、ドミノピザの最高経営責任者(CEO)が現場で社員がどのように働いているかを知るために、ピザのお店で新人として働くことになった。新人は仕事をする中で店員たちが複雑な事情を抱えて働いていることを知るようになる。店長のアルさんは15歳の時にいとこの男性が自殺して不登校になった。しかしピザ屋で働いたことにより、自分の人生が救われた。配達のラジさんは息子たちに良い教育を受けさせるためにインドから移住してきた。アルさんはオリジナルのピザを作って新人に食べさせた。後日、新人は自分が関わった従業員たちを都会にそびえたつ本社に招き、身分を明かして、それぞれに見合った報酬を彼らに与えた。アルは大学に行く奨学金を与えられ、ラジには新しいピザを商品化するその報酬が与えられた。彼らは驚き中でCEOに感謝を表した。

組織にはリーダーにしかできないことがあり、リーダーが組織を変えていく力を持っている。それは教会にも通じること。しかしコリント教会ではパウロをリーダーとして認めていない人たちがいたので、彼は教会でリーダーシップを発揮できない状態であり、教会が教会として存在していない状態。そのような教会に彼は自分が何者なのかを明かしている。

 

  • パウロはキリストに仕える者であり、神の奥義の管理者。

パウロは自分のことを「パウロはキリストに仕える者、神の奥義の管理者」であると宣言し、教会が自分のことをそのような者として受け入れることを求めている。キリストに仕える者とはキリストの奴隷のことである。奴隷は自分勝手に生きること、働くことはできない。奴隷パウロは主人キリストの命令と指示に従い、教会に仕えて働く者であった。キリストが望まれる働きを教会でなしていった。また神の奥義の管理者とは神の福音の監督者であること。神の福音の監督者はイエス・キリストのお言葉を守り、イエスに従い、教会の必要に応じてイエスのお言葉を提供する者。彼は自分の立場を教会に説明する中で、「自分が裁判にかけられること」「ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶること」に言及している。それは彼がキリストの奴隷であることと、神の奥義の管理者であることに関係している。

コリント教会には4つの派閥があった。パウロ派、アポロ派、ペテロ派、キリスト派。本来教会にはキリスト派のみが存在し、他の派閥は存在しない。アポロ派とペテロ派にとって、他所の派閥のリーダーであるパウロの言っていることは聞くに値しない。教会は人間の判断でパウロを見下していた。そのような愚かな教会の判断を「裁判」という言葉で表現している。パウロはイエスが自分を裁判(判断)し、全ての事を明らかにして下さるのだと言っている。「ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶること」も同じである。パウロは、教会で派閥争いをしている教会は高慢で裕福な王様のような存在であり、本来教会が生きるべき姿を現していないと警告をしている。彼は本来教会が生きるべき姿を自分の姿に重ね合わせて証ししている。彼の生き方は「コロッセウムに引かれて野獣の餌食にされる迫害者のようであり」「卑しめられ、飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いており、はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけられ、この世のちりのように、人間のくずのような者」である。教会がパウロのことを「キリストに仕える者、神の奥義の管理者」として受け取っていたならば、彼らもパウロと同じ生き方をしていたはずであった。

 

  • パウロは父親。

またパウロはコリント教会にとって父親として振舞っていた。そしてコリント教会がパウロをそのような存在として受け入れることを願っていた。どのような点においてパウロはコリント教会にとって父親であったのか。それは彼がイエス・キリストを彼らに伝えたことにおいて。彼はそのことを「キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。」と言っている。イエスを信じるとは新しく生まれること。新しく生まれるとは今まで通りの生き方ができなくなること。新しく生まれることをパウロ自身が体験していた。クリスチャンを迫害し、イエスを殺す者だった彼がイエスを愛する者へと変えられた。彼を変えたイエス・キリストはコリント教会のメンバーも造り変えて下さった。

また彼がコリント教会にとって父親である理由は、コリント教会を成長させ自立させようとしていること。親が子どもを叱る時の常套句は「親の言うことを聞きなさい」であって「自分の様に振舞いなさい」とはなかなか言えるものではない。しかしパウロは「わたしにならう者となりなさい」と教会に命令している。

パウロは教会にイエス・キリストを伝えた時に、イエス信じて生きることを自分のふるまいによって伝えていた。イエスを信じたばかりの者がクリスチャンとして生きていくためには、先輩クリスチャンの生き方を真似すること。イエスも弟子たちを訓練するためにその方法を用いられた。イエスは弟子たちを側に置き、ご自身の働き、祈り、弟子たちに見せられた。それは弟子たちがイエスの行いをまねるため。パウロがコリント教会に手紙を書いている時に、彼には別の計画があり、コリント教会に行く事ができなかた。そこで自分の代わりにテモテという指導者を教会に遣わした。その目的は、かつてパウロが教えたことを思い起こさせるため。

 

終わりに

「パウロは何者 ~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。今朝の御言葉から3つの勧めをしたい。

1つは、教会が指導者をどのような存在として受け入れるのか。この問題は教会が指導者をどう扱うのかという事だけではなく、教会がどのような教会として生きていくかに関わってくること。教会の指導者は神が立てられた者である。また神は指導者に教会を導くための賜物を与えて下さっている。教会はその指導者の働きを見て、神が立てられた者であることを受け入れること。また神が立てた指導者が教会に語る神の言葉に聞き従うこと。教会は建てられた指導者が語るみ言葉と、そのみ言葉に従う教会によって形成されていく。教会がそのような信仰に立たないと、教会には分裂が生じ、神を抜きにして満足するようなコミニテイになる。そうなってくると、指導者が語る神の言葉がほとんど教会に通じなくなってしまう。

2つめは、親の信仰を持つこと。親としての信仰をもつためには、誰かに福音を伝えることであり、誰かをクリスチャンとして育てることである。反対に、誰かに福音を伝えない、誰かをクリスチャンとして育てないことは、いつまでも子どものクリスチャンでいることになる。親は自分の持っているものを子どもに与える。親の振舞を子どもに見せる。そして子どもが自分でやるようにチャレンジさせ、そばで見守る。子どものテリトリーには入らない。そのようにして親になり、子どもを自立させていく。

3つめは、イエスを信じることについて。イエスを信じるとは、洗礼を受けて、神の家族(教会)に加わること。教会生活をすることで、イエスを信じた者は人格的に成長していく。生まれたばかり赤ちゃんのことを考えてみて欲しい。赤ちゃんが誰かの家族であると言っても、食べ物だけ与えられて、家族と共に過ごさなければ、どうなるだろうか。赤ちゃんは人格的に成長できない。死んだような人間になる。イエスを信じることも同じ。洗礼を受けて、教会に加えられなければ、イエスを信じていることにはならない。神はイエスを信じた者が洗礼を受け、神の家族(教会)に加わることを命じておられる。

 

 

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