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2020年4月 5日 (日)

2020年4月5日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「イエスの予告」

説教テキスト:マルコによる福音書1422節〜31

 

初めに

読書メーターというコミニティサイトがある。読んだ本の感想を短文で書き込み、感想を分かち合うサイト。投稿することによって、同じ本を読んでいる読者とつながることもできる。自分の感想に対して、他の人がいいねや感想に対するコメントも投稿できる。感想を投稿する際にはネタバレを含むかどうかを選んで投稿できる。他の人がその本のネタを知りたくない場合があるので、そのような機能がついている。推理小説で予め犯人があらかじめ分かっていたならば、本を読み進めていく面白さが失われてしまう。イエスは十字架の苦難を前にして、すべのネタをオープンにしてしまわれた。今朝は「イエスの予告」というタイトルでみ言葉を見ていく。

 

  • ご自身が与えて下さるものを予告された。

イエスは過越しの食事を通して、弟子たちに与えておられるものがある。それはパンとぶどう酒、天国の宴会である。過越の食事は(祭り)は、イスラエルの民がエジプトから脱出した出来事を思い起す記念の祭り。しかしイエスの過越の食事は、出エジプトを記念するものではなく、出エジプトの記念を更新するもの。何が更新されるのか。それはイエスのパンと血受け取る弟子たちが神の民として契約を結ぶこと、また神の民である弟子たちが天の宴会に連なること。イエスの十字架による救いと天国の祝宴は、出エジプトと過ぎ越しの食事に根差したものである。十字架の救いを頂くことは、テーブルマターであるイエスが与えるパンとぶどう酒を受け取ること。また天国の祝宴は、共にぶどう酒を共に飲んでお祝いすること。さらにイエスが弟子たちに与えられたことは、蘇られたイエスとガリラヤで会う約束。

イエスが用意された食卓は十字架の苦難を受けられる前なので、どうしても暗いイメージが付きまとう。しかしイエスの食卓は明るいものであったはず。イエスはご自身が持っておられるものをいやいやながら弟子たちに与えられたのではなく、喜んで、喜びに溢れて、彼らに与えて下さった。弟子たちはイエスの言われていることを十分に理解できなかったので、主が与えて下さるものをしっかりと受け取ることができなかったはずだ。しかしその時はそれでよかった。彼らがしっかりと受け取ることができたのは、復活の主と出会い、聖霊を受けた時であった。その時に、彼らはイエスのお言葉を思い出し、それらを受け取ることができた。

 

  • 弟子たちの行動の予告

またイエスは弟子たちがやがてとる行動も予告されている。(ゼカリヤ1379)の聖書箇所を引用して、羊飼いであるイエスが打たれるので、羊である弟子たちはつまずいてしまうこと。しかしペテロは「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」とイエスに言い返してきた。イエスは彼に対して、彼がどのようにつまずくのかを具体的に教えられた。するとペテロは主の言葉を否定して、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」とイエスに言い返してきた。ペテロのその告白に、他の弟子たちも賛同し、同じ告白をした。弟子たちの告白はある意味立派な告白である。殺されるような事があったとしても、主を知らないとは絶対言わないと言い切っている。その結果はどうであったのか。弟子たちの内一人ぐらい有言実行する者がいても良さそうであったが、結果は全員惨敗に終わった。弟子たちの何がよろしくなかったのか。よろしくないことを2つ挙げることができる。1つは「みんなの者がつまずいても」という優越的な思い。高慢な思いと言ってもよい。イエスがなされた過ぎ越しの食事は、弟子たちと共になされたもの。またイエスは弟子たち全員がその食事を受け取って欲しかった。しかしペテロの告白は、自分だけが主に従えばよく、他の弟子がつまずいても構わないもの。自分だけが主の食事を食べ、他の者が倒れても構わない弱肉強食的な信仰。だから主はペテロに「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ2232)と言われた。もう1つは、弟子たちがイエスの言葉を聴こうとしないこと。イエスは、弟子たちはつまずくと予告された。しかし弟子たちはイエスのお言葉を聴こうとせずに、主が語られる事を認めようとしなかった。もしイエスの言われたことを認めることができたならば、そんな酷いことをする自分たちが主に愛されているという意識を持つことができた。それは恵みだと思うことができたはず。そのような認識は後になって与えられた。イエスは彼らの弱さを十二分に承知の上で、彼らにご自身を与えられた。

 

終わりに

「予告」について見てきた。イエスはご自身に関すること、また弟子たちの主に対する態度の全てをオープンにされている。主の予告を知るだけではなく、そのような主との出会いを自分の人生の中で体験することが大切である。私たちは、主が十字架にお架かりになったこと、弟子たちが主を見捨てて逃げ出したことを知っている。またそれを信じている。まともなクリスチャンであるならば誰でも信じているはずだ。しかし主が私たちの人生の中に現れて下さり、主が死んでしまうような出来事、自分が主を見捨てて逃げ出してしまうこと、ユダのようにイエスを裏切ろうとすることは、聞きたくない、信じたくない、認めたくないのではないか。私たちは自分の都合の良いストーリーだけを頭で描き、主のお言葉をブロックする者である。しかしイエスは主を見捨てて逃げ出すような私たちを、ご自身の食卓に招いて下さり、喜んでご自身のパンとぶどう酒を与えて下さるお方。そのようなイエスを信じる者が主の弟子であるのだ。

 

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