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2020年5月31日 (日)

2020年5月31日(日)ペンテコステ礼拝説教概要

タイトル:「イエス・キリストとあなた」

説教テキスト:使徒行伝2章1節~41節

 

初めに

使徒行伝2章はこの地上に教会が初めて誕生した記事。教会は神の約束によって誕生した。人間が全く関与しなかったといと、そうではない。教会が生み出されるために用いられたのは、イエスの弟子たち。彼らは教会が生み出されるために相応しい人物であったのかというと、そうとも言えない。彼らは、イエスが処刑される時に、師を見捨てて逃げたからだ。その後彼らはイエスの二の舞になって処刑されることを恐れて、引きこもり状態に陥った。しかしイエスは蘇り、彼らに現れて下さった。その後イエスは天に帰られる際に、彼らに「約束のものを送るので、エルサレムを離れないで待っているように。」という約束を与えられた。約束のもの何であるのか、それが与えられるとどうなるのか、いつ与えられるのかということは彼らに知らされていなかった。しかし弟子たちは、イエスが殺されたエルサレムから離れずに、祈りながら神からの約束を待ち望んでいた。神の約束とはイエスの霊(聖霊)が与えられることであった。与えられた証拠として、彼らは「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」である。その様子を周りで見ていた外国人たちは驚き怪しんだ。何故ならイエスの弟子であるガリラヤ人たちが自分たちの生まれ故郷の言葉で、イエスについて語っていることを聞いたからだ。そこでペテロは彼らにイエス・キリストを伝えている。彼は話を聞いている人たちにイエス・キリストとの個人的な関係を結ばせようとしている。

 

  • イエス・キリストはあなたに殺された。

ペテロは、神から使わされたイエスと、人がイエスどのように扱ったということを語っている。神から遣わされたイエスは人々の中で数々の力ある業、奇跡、しるしを行った。またイエスは旧約聖書に書かれている通りに、人間の不幸の元凶である罪の問題を解決するために、十字架で殺された。イエスがなされた全ての事は人間にとって良きものであった。そのイエスを人間はどう扱ったのか。人間は自分の生活の中からイエスを締め出し、イエスを殺すことに同意し、実際に殺した。イエスが処刑されるに当たり、処刑に関わった人たちは限られていた。ぺテロの説教を聞いていた人たちは、イエスの処刑に立ち会った訳ではなかった。しかし彼は自分の説教を聞いている人たちに対して、「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。」(2:23)「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(2:36)と言っている。ペテロは何を言っているのか。彼は人間の神に対する態度を言っている。旧約時代からイエスの時代に至るまで、神はイスラエルの民に預言者を送り続けてきた。しかし人間は神が遣わした預言者たちを拒否し続けてきた。そして最後に神は神の一人子であるイエスを人間に遣わした。そのイエスをも人間は処刑した。神が人間を処刑するという話は分かるが、イエスの十字架は人間が神を処刑したことを全世界に公然と示したものである。イエスを殺す事に関わった者は全人類一人一人なのだというのが、ペテロのメッセージである。

 

  • イエス・キリストはあなたの心を突き刺す

ペテロの説教を聞いていた人たちは、五旬祭でエルサレムに礼拝に来ていた人たちである。ユダヤ人もいたが、ユダヤ人以外の者もいた。彼らは少なくとも旧約聖書を知っていた人たち。イエスは旧約聖書に書かれている預言を成就するために来られたお方である。ペテロは彼らが知っている旧約聖書の言葉からイエスのことを解き明かしていった。彼の説教を聞いていた人たちの反応は、恵まれた話を聞いた、おもしろかった、分かったという類のものではなかった。彼らは自分たちの心を突き刺され、説教しているペテロに「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねた。何故彼らはそのような反応をしたのか。それは神の言葉がそのように導いたからである。ペテロの説教は聖書に基づくもの。神の言葉には聖霊のお働きが必ず伴う。神の言葉と聖霊は人間に罪を認めさせる。ペテロの説教を聞いた者は、自分たちがイエスを殺した者であることを認めたのである。また神のお働きはそれだけで終わらない。イエスを殺した罪が赦されるために、今の状態ではいけないという思いを与えて下さる。それが「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」ということである。先週も説教の中で語ったことであるが、何かを人に尋ねるとは、自分が自分以外の他のものを取り入れる表れ。ペテロの説教を聞いていた人たちの質問は、神に対する餓え渇きの表れ。

 

  • イエス・キリストはあなたに与えたいものがある。

ペテロは彼らの餓え渇きに答えを与える。彼が人々に与えたものは2つの事。悔い改めること、バプテスマを受けること。これは命令で書かれているので、神の言葉を受け取る者は「しなければいけないことになる。」悔い改めることはごめんなさいだけではない。悔い改めとは方向転換。今まで向かっていた先をイエスの方に向けること。イエスを拒否し、イエスを殺す生き方ではなく、神が自分のために立て下さったイエスを自分の主(主人)として迎えていくこと。そのような決断を神に捧げる者はバプテスマを受けることができる。バプテスマは洗礼を受けること。この2つはセットで行うべきことである。人殺しが赦される法律はこの世に存在しない。ましてや神殺しである私たちが赦されるはずはない。しかし悔い改めとバプテスマを受ける者には神の恵みが注がれる。イエスを拒否し、イエスを殺す生き方をしてきた罪は赦される。全人類はイエスを殺した罪の重荷を背負って生きている。その罪が赦される。何故赦されるのか。それは私たちが悔い改めるからではない。それは方法であり解決ではない。解決はイエスが私たちの罪のために処刑されたから。私たちの罪の代価はイエスの死だから。さらに、2つの命令を守る者に対して、聖霊の賜物が注がれる。聖霊は私たちの内側に住み、イエスを殺すような者を、イエスを愛する者へと変えて下さる。また聖霊は神の恵みがどれほど偉大なものであるのかを、私たちの生涯に渡って知らせて下さり、私たちが礼拝者として造り変える。

 

終わりに

「イエス・キリストとあなた」について見てきた。私たちが聖霊に満たされるためには、イエス・キリストとあなたが(私が)個人的な関係を持つ必要がある。個人的関係とは、あなたは神を拒み、イエスを殺した者であるのかを認めること。またあなたは自分が犯した罪の重大さに気がつき、神に向かって餓え乾いて求める必要がある。あなたが犯した罪をあなたは背負い切ることはできない。もし背負って生きていくならば罪に滅ぼされてしまう。罪はあなたの人間関係と神関係を滅茶滅茶にし、私たちの人格を破壊する。またあなたが神の恵みを頂くために、悔い改めてバプテスマを受けること。イエスと個人的な関係を持つ者だけがイエスを体験的に知る。個人的にイエスを知るとは、周りの人間関係よりイエスのお言葉を第一にすることである。周りの人たちは自分の都合で生きている。イエスが私たちのことを最も心配して下さっておられるのだ。

聖霊に満たされたペテロから出てきたことは、聖書に啓示されているイエスであり、自分が体験したイエスである。彼の説教はイエスが語っておられるかのような説教。それは彼が聖霊に満たされたからだ。何のために聖霊に満たされることを求めるのか。それはイエスを証しするため。それは伝道の方法論にまさるもの。聖霊に満たされるとは私たち生き方を根本的に変える。イエスを証しして生きたいと願う者を神は聖霊で満たして下さる。

 

2020年5月23日 (土)

2020年5月24日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「結婚と独身 ~性の問題~」

説教テキスト:1コリント71節~7

 

初めに

「男女七歳にして席を同じうせず」とは儒教の教え。この教えは日本の社会に浸透してきた教えであり、男子校や女子校はその影響を受けたもの。意味は、7歳にもなれば男子と女子の性の区別を明らかにし、みだりに交際してはならないということ。つまり男女のみだらな性の関係を戒める言葉。この言葉は誤解されやすい。「席」とは椅子ではなくござのことを表している。ござは床に敷いて4人ほどで座るためのものだが、ござは布団としても用いられた。つまり、「男女七歳にして席を同じうせず」は、同じ布団で寝てはならないと戒めている。国や地域によって性に関する意識は違っている。コリントの地域の性はかなり乱れていた。その証拠に、「コリントのような」という言い回しは淫乱を意味することで用いられていた。今朝の聖書箇所の7章~15章までは、教会からの質問にパウロが答えを与えている。教会は「結婚と独身 ~性の問題~」について彼に質問を投げかけた。彼の答えから教会の質問は以下のようなものであったと予想がつく。

 

  • 男子は性を自由に用いて良いのか。

コリントで生まれ育った人たちはギリシャ思想の影響を受けていた。ギリシャ思想では精神が重んじられ、肉体は軽んじられていた。その考えから、肉体に関する2つの極端な考えが生まれた。肉体は無意味なので、どう扱おうとかまわない。その考えで自分の性で用いた時には、性は不品行や淫乱なものとして扱われた。反対に、肉体は悪なので、肉体が持つ本能と欲望を完全に否定しなければいけない。この考えで性を用いると、性は禁欲的に扱われたものとなった。ギリシャの思想の中で育ったコリント教会の信者たちは、イエス・キリストを受け入れた後に、自分たちが持っている性の考え方に関してパウロに質問を送った。それは彼らが自分たちの性に関して何らかの違和感を抱いたからだ。質問をすることはその人が自分の殻を破るシグナル。彼らがパウロに質問をしたことにより、彼らは神が与えた肉体(性)に関する正しい知識を受け取ることができた。コリント教会はパウロに「男性は女性と自由に性関係も持って良いのではないか」という類の質問をした。何故なら彼らは「体は性のため、性は体のため」という考えで生きてきたからだ。それに対してパウロは「男子は婦人にふれないがよい。」と答えている。この彼の答えの背後には、自分の性を不品行や淫乱で用いることは、キリストのものとなったあなた方に相応しくないというもの。また、神は人が不品行や淫乱に陥らないために、結婚という秩序を与えており、その秩序の中で自分の性を用いなさい。それがパウロの答え。

 

  • 夫婦は性関係を持つべきではない。

コリント教会の次なる質問は、「夫婦は性関係を持ってはいけないではないか」というもの。この質問はコリント教会の禁欲主義者からもの。ギリシャ思想の影響を受けた信者は夫婦であったとしても禁欲生活をしなければいけないと考えていた。その質問に対して、パウロは夫婦の性の義務と権利に言及しながら回答を与えている。(735)に書かれている事柄は夫婦の性関係の事を言っている。(7:3)に書かれている「その分」と訳されている言葉は「義務」という言語であり、義務とは正しい務めという意味。夫婦は互いに神から与えられた正しい性の務めを果たべきである。「果たすべきである」と訳されているが、命令で書かれているので、「果たせ」と訳せる。(74)の「自由にすること」は「自由にする権利」という意味である。夫婦が性関係を持つ権利は自分ではなく、相手が持っている。しかしこの権利は相手が義務を果たす時に、有効となる。相手が義務を果たさないならば、その権利は絵にかいた餅になる。だからパウロは(7:5)でお互いに拒んではいけないと命令している。例外的に夫婦が祈るために、お互いの間に距離を取る事に関して書かれている。そのような場合であっても、それが夫婦の権利と義務の妨げとならない様に、3つの条件が挙げられている。それは「合意の上で」「しばらく」「また一緒になる」というもの。(6:16)でパウロは(創世記2:24)「ふたりの者は一体となるべきである」という御言葉を引用している。このみ言葉は、夫婦が性関係を持つことによって親密な結びつきを持つべきだと言っているのだ。もし夫婦の間にギリシャ思想を持ち込んで禁欲生活をするならば、それは神の命令に逆らうことであり、神から夫婦に与えられた権利と義務を放棄していることになる。

 

  • 結婚するかどうかは賜物による。

パウロは夫婦の性の問題に言及する中で、結婚するか独身でいるかについても言及している。(7:6)の「以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。」は、夫婦の性関係のことを指しているのではない。それは不品行に陥ることがないために結婚するかどうかについてである。その理由は(76~7)でパウロが言っていることから判断することができる。「みんなの者がわたし自身のようになってほしい。」と言っている。彼は(416)でも「わたしにならう者となりなさい。」と言っている。パウロのようになるとは(417)で言われている様に教会が「キリスト・イエスにおけるわたしの生活」をすること。彼は独身であったと言われている。彼が独身を貫き通したのは、ひたすら主の奉仕をするためであった。彼は独身であることを受け入れることができたのだ。しかし全ての人は独身を貫くことができる訳ではない。結婚を選ぶ人もいる。そのことをパウロは「ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。」と言っているのだ。独身であろうが結婚していようが、パウロはコリント教会が「キリスト・イエスにおけるわたしの生活」に倣って欲しいと願っていた。夫婦は性関係によって一体となり、その先に何を為していくのか。それは共に主に仕えていく。家庭生活、社会生活、教会生活の中で主に仕えていく。聖書では、夫婦関係はキリストと教会の関係を証しするものである。夫婦関係と同様に、教会はキリストと婚姻関係を結んでいるので、教会には主に仕える権利と義務が与えられている。教会はそれを果たしていく。

 

終わりに

「結婚と独身 ~性の問題~」について見てきた。山室軍平の名言「酒と色は、悪魔が人間を陥れる2つの最も大きな落とし穴。」 神から離れた人間が堕落した性質を最も表しやすい領域は性の世界において。淫乱や不品行の世界には必ず酒が付きまとう。その世界は、義なる神から離れさせ、永遠に神を忘れさせようする。しかし神が人間に与えておられる性は、夫婦を一体にさせ(親密にさせ)、共に神に仕えさせ、人間を神に近づけるものなのだ。ギリシャ世界と同様に日本にも性の乱れがある。日本で大学生伝道をしている宣教師の先生は、今の若い人たちの性生活を聞くに堪えることができないと言っている。またある青少年伝道に携わっている人は、性病に犯されている青少年の数が多いので、それを野放しにするならば、日本社会は崩壊してしまうと言っている。またある海外の先生は、日本のサラリーマンが仕事帰りに居酒屋で何時間も過ごしているので、日本の夫婦関係は崩壊していると言っていた。その他にも日本の性の問題として、出会い系サイト、同棲、婚前交渉、セックスレス夫婦、フリーセックス、これらはどれもソドムやゴモラで起こっていたことであり、このまま日本が進んでいくならば、日本は神の裁きで滅ぼされてしまう。何故日本がそのような状態になっているのか。それは周りに良き夫婦のモデルがいないからだ。悪いモデルしか見ていないから。この教会から良いモデルが生み出されていき、日本の性社会を変えていかなければいけない。そのためには、教会が性に関する神様の知識をしっかりと持ち、夫婦が共に主に仕えることである。

2020年5月16日 (土)

2020年5月17日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「あなた方は知らないのか ~裁判問題における教会のあるべき姿~」

説教テキスト:1コリント61節~20

 

初めに

アメリカのある番組で、ある女性が警察署にかけ、女性と警察官と実際にやりとりの音声が報道されていた。ある女性が警察に電話をかけ、ピザの注文をお願いしてきた。対応した警察官は初め呆れた感じで聞いていたが、女性の意図を読み取り、住所を聞いて彼女のところに駆け付けた。女性は夫から日常的に虐待を受けており、夫からピザを注文するように命令された。そこで女性は助けを求めるために警察に電話をかけた。女性の側には夫がいるので、警察に「助けて下さい」とは言えない。対応した警察官はそのことを読み取り、彼女の演技に応じたのだ。

抱えている問題を放っておくと、いつか表面化してくるものだ。パウロは教会の表面化した問題に対して根本的な解決を与えている。コリント教会は不品行問題だけではなく裁判問題も抱えていた。教会内で争いが起き、当事者同士がその問題を裁判沙汰にしてしまった。問題の詳細は書かれていないが、その問題は教会で解決すべき問題であった。つまり信仰または教会生活に関係する問題であった。パウロは裁判問題を通して、本来教会が如何にあるべきであるのかを説いている。

 

  • 教会が世を裁く者である。

パウロは裁判沙汰になっている問題の詳細を把握していた。それは(62)には書かれている通りに、きわめて小さい問題であった。パウロは教会の小さな問題を世の中の裁判で解決してはいけない理由を挙げている。それは教会は世を裁く存在であること。何を言っているのか分からない人もいるかもしれない。この世界は天地万物を造られた神が創造された。世界の中には人間も当然入っている。神は天地が創造されて以来、ご自身の正さによってこの世を裁き続けてこられた。神は神のお言葉(聖書の言葉)によって世を裁く。最大の裁きはイエス・キリストを十字架に架けられたこと。やがてこの世界は完全に神の裁きに服する。その時に、教会はイエスと共に世を裁く者となる。であるのに、教会が教会の問題を世の裁判に出すのはよろしくない。何故教会はそのような愚かな事をしたのか。それは教会に問題を解決できる者がいなかったこと。またコリントにはギリシャ人が多く住んでおり、彼らは裁判好きで有名であった。裁判でしばしば起こっていた事は、お金で裁判官を買収し、富める者が勝訴し、貧しい者は敗訴していた。教会には本来世の中を裁く権威が与えられているにも関わらず、その権威を用いずに、問題解決を世の裁判に求めた。それは不義な事(正しくない事)。パウロは教会に厳しく警告を与えている。

 

  • 正しくない者は神の国を継ぐことができない。

パウロは、不義な者(正しくない者)は神の国を継ぐことはできないと断言している。またそのような正しくない他の例として、(不品品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者)を挙げている。彼が挙げたリストはイエス・キリストを知らない者であり、知らないが故にそのような者となっている。しかし教会は既にイエス・キリストを体験した者たちの集まりである。イエス・キリストを体験するとは、主の御名と神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたことである。

世の中の人達は、クリスチャンは宗教的に熱心な者であり、戒律や規則を頑張って守っている人たちと思っている。それは間違い。本当のクリスチャンは主の御名と神の霊によって罪が洗われ、きよめられ、義とされた者である。その御業は一度や二度の話ではない。教会が主イエス・キリストの御名を呼び求め、神の霊に満たされることを求めるならば、生涯に渡ってなされる御業である。クリスチャンとは神の恵みの中に生きる者たち。だからクリスチャンは以前の古い生き方はできない者。コリント教会は神の御業をしっかりと受け取っていなかったので、造り変えられた様に生きる事が出来ずに、問題を裁判で解決しようとした。

 

  • あなた方の体はキリストのもの。

パウロは問題の解決を深く掘り下げていき、兄姉の体について言及していく。ギリシャ哲学では体を軽んじ、精神を重んじる。聖書ではどちらも重んじられている。コリント地方に広まっていた諺に、「食物は腹のため、腹は食物のため」というものがあり、コリント教会のある者たちはその諺に自分たちの性を当てはめていた。「性は体のためであり、体は性のため」という考えの元に、自分の体を不品行のために用いていた。性は神からの賜物であり、性関係は男女を1つとするものである。性関係が許されるのは夫婦関係の中だけのこと。聖書では、夫婦関係は性関係が伴うものであることを説いている。もし自分の性を結婚外で用いるならば、その人の体は相手のものになる。遊女と結ばれるならば、遊女のものとなる。性を乱用している教会に対して、パウロは「あなたがたの体は主イエスのもの」と宣言している。どんな意味において、兄姉の体はキリストのものであるのか。それは神から聖霊が与えられているから。この神の御業は私たちの体を神殿とするもの。神殿は神を礼拝するために存在し、神殿内には神を賛美するための道具しか置かれていない。もう1つは、キリストの犠牲という代価を払って買い取られたこと。この神の御業は、私たちを罪の奴隷から解放し、完全にキリストの所有となったことを表している。そのような神の御業を受けた教会は、自分の体で神の栄光をあらわすことが求めらている。

 

終わりに

教会の裁判問題は根の問題が表面化した事件。問題は根の部分にあった。私たちの根の部分にあるものが表面化してくる。神の宮とされた私たちの内側には神を礼拝するための道具しか置けない。その他の道具があるならば、その道具に相応しいものが私たちの体から表現されていく。自分から表面化している日常の言動から、自分の神殿の中にあるものを手繰っていくことができる。皆さんの神殿には何が置かれているだろうか。神は求める者に喜んで礼拝のための良きものを与えて下さる。神を礼拝する生き方は多くの問題を解決していく。反対に礼拝しないならば、問題は山積みになっていくことだろう。

2020年5月 9日 (土)

2020年5月10日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「不品行問題に対する教会の態度」

説教テキスト:1コリント51節~13

 

初めに

教会はこの世の中で最も問題が多き場所と言ってもよい。コリント教会もいつくかの問題を抱えていた。その1つが性の乱れであり、教会のメンバーの中に不品行な者がいた。その不品行は息子が継母と同棲しているというもの。その不品行はコリント地方の乱れた性も酷いものであった。聖書で不品行は禁じられている。(レビ18:8) パウロは教会の不品行問題を通して、教会のあるべき姿を説いている。パウロが問題としていることは、不品行を犯している本人よりも、不品行問題を知りながらそれを野放しにしている教会である。「不品行問題に対する教会の態度」について見ていく。

 

  • 指導者パウロの裁き

(5:36)にパウロの裁きが書かれている。パウロは手紙を教会に書いた時、コリントではなくマケドニアにいた。しかし体は離れていても霊は教会のメンバーと共にいて、不品行の罪を犯した者をさばいたと言っている。彼の裁きは、罪を犯した者をサタンに引き渡すこと。それは罪を犯した者が教会に出入りすることを禁止すること。そのようにすることで、罪を犯した者が罪を悔い改め、主の再臨の日までに彼が救われることを願っていた。パウロの裁きは、罪を犯した者を追放するのではなく、悔い改めを目的としていた。人の罪を裁くのは神であって人間ではない。だからパウロであってもそのようなことをすべきではないと思われるかもしれない。しかし教会には罪を犯した信者に対する対処方がイエス・キリストによって与えられている。それは(マタイ181518)に書かれており、その箇所においても、罪を犯した者が悔い改める勧めが記されている。しかし罪を犯した者が悔い改めない場合、教会はその者を信者として認めないことになっている。

 

  • 教会は過ぎ越しの祭りをする集まり

パウロは、教会は過ぎ越しの祭りをする集まりであると言っている。過ぎ越しの祭りは、神がイスラエル民をエジプトの奴隷から解放し、神を礼拝する民として下さった御業を記念する祭り。イエス・キリストの救いは過ぎ越しの祭りに根差している。罪の奴隷となった者を解放し、神を礼拝する者へと造り変えるのがイエスの十字架の御業である。パウロは過ぎ越しの祭りで用いられるパンを用いて、教会が本来あるべき姿を説いている。過ぎ越しの祭りではパン種が入っていない堅いパンを用いる。酵母の入ったパンは用いることはできないので、それらは外に捨てる。教会が用いることができるパンは種無しパンであり、それは純粋で真実なイエス・キリストのお言葉を表している。それに対してパン種の入ったパンは、神に逆らう悪意と邪悪とのパン種が入っているので用いることができない。教会はイエス・キリストのお言葉で祭り(神を礼拝)をする。2つのパンを同時に教会に置いておくことができない。不品行のパン種とそれを野放しにするパン種を教会に放置しておくならば、パン種は発酵してどんどん膨らんでいく。教会は不品行で汚染されてしまい、教会でなくなってしまう。だから不品行を犯した者を教会から除く必要がある。

  • 教会は世に存在し、世に染まらない集まり

パウロは不品行対処法を教会に教えると同時に、その事に関して教会が勘違いすることがない様に注意を与えている。それは教会の信者でない者と信者への対処法の違い。パウロは以前に教会に宛てた手紙の中で、不品行な者たちと交際してはいけないことを書いている。交際していけない者とは信者のことを指しており、未信者のことではない。もし未信者と交際していけないのならば、信者は世の中で生活できなくなり、修道院生活をするようになるだろう。信者でない者には聖書の言葉が教えられていない。彼らは言い伝えや住んでいる地域の風習に従って生きている。彼らは教会とは違った価値観で生きているので、彼らを裁くのは神であって教会ではない。しかし不品行な信者を裁くのは教会である。何故なら信者には世の中の悪に染まることがない神の霊と神の言葉が与えられているからだ。信者は神の聖さの中を歩む恵みに預かっているからだ。だから不品行だけではなくその他のリストも挙げられている。貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者がそれ。そのような者たちは教会に在籍することはできない。教会はそれらの者を取り除かなければいけない。教会の裁きによって、教会は世の価値観に染まらずに生きていくことを世界に示していくのだ。

 

終わりに

「不品行問題に対する教会の態度」を見てきた。コリント教会には不品行という悪が入ってきても、それを判断する能力が無かった。判断力が無いので行動力もなかった。つまりコリント教会には教会がこうあるべきだというイメージが無かった。私たち教会の一人一人も、教会がこうあるべきだという価値観をしっかりと持っていないと、教会は内部から崩壊していく。パウロが言っている「古いパン種、悪意と邪悪とのパン種」とは罪を犯した本人というよりも、教会が持っている価値観のことを指しているからだ。教会はどんな人でも歓迎されるコミニティであるが、何でも許されるコミニティではない。不品行、婚前交渉、不倫、同棲、偶像礼拝、酒に酔う、略奪をする者は教会で許されないことだ。教会は社会の中で最高基準のモラルを持つコミニティなのだ。何故なら教会のモラルは聖なる神のモラルであるからだ。いつも腐ったパンを食べている人は腐ったパンを食べることに違和感がなくなる。反対にフレッシュなパンを食べても美味しいと感じることができない。しかし、いつもフレッシュなパンを食べている人はフレッシュなパンしか食べることができない。腐ったパンなど食べることはできない。それは霊の世界でも同じこと。腐った考え方もあるよねと教会は判断してはいけない。腐ったパンは教会にとって危険だ。そのパンを教会は飲み込むことはできない。腐ったパンは教会から取り除かれなければいけない。そのように振舞うことができる人は、いつも純粋で真実パンを食べ続けている人だけ。もしこの教会に不品行やその類の人達が出てきたら、皆さんはパウロが勧めている様に振る舞うことができますか。

2020年5月 2日 (土)

2020年5月3日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「夕暮れの歌」

説教テキスト:詩編41節~8


初めに
 私が保育園に働いていた時、いつも夕方4時過ぎになると泣くたかしくんと言う一歳の男の子がいました。彼は毎日、4時から夕日を見ながら1時間ほど泣くのです。そのたかしくんを毎日1時間抱くのは私や他の先生の役目です。彼は様々な先生の胸を涙で濡らしながら渡り歩き、夕方の時間を過ごします。けれども5時になるとそれがピタリと終わります。お母さんが迎えに来ると一転してミラクルが起きるのです。それはもうにっこりなのです。たかしくんが本当に安心でき、笑顔になるのは先生ではなくお母さんなのでした。これは仕事一年目の私にとって感動と忘れないものとなりました。
 さてこの詩篇4篇は夕べの歌と呼ばれるダビデの詩です。ここでダビデには敵対者たちがいたことが伺えます。彼らはダビデを急き立て、自論で彼を責めていました。しかしダビデはそれでも歌うのです。誰に向かって?神に向かってです。それは彼が現実逃避しているのではありませんでした。

 

  • 心の置き場の違い

以下の様に、ダビデと敵対者が持っているもの、求めているものは違っていたのです。困難な時に自分の心にあることが表面化していきます。ダビデは敵対者の中で信仰を貫いていきます。敵対者たちは不満を抱いて人々の中で埋もれていったが、ダビデは神に信頼し自分を見出していきました。


◎義なる神(1節)VSむなしいもの(2節)
くださいました(1節) VS  知れ(知らない)(3節)
神からの特別扱い(3節) VS  人の栄光(2節)
主よ、主は(全節) VS  誰が、誰か(6節)
心の喜び VS  繁栄(7節)

 

  • 自分は聖別されていて、特別だという意識

ダビデの友人たちは、不平不満と絶望の中にいます。彼らには神への信頼とリーダーへの信頼がないのです。彼らはダビデに対して攻撃をし、弁が立ち優位なように見えますが、実際は、神への敬意と畏れ、信頼から離れた危険な状況でした。一方、ダビデは、困難の中においても責め立てられてもそれを貫くほどの強い神への信頼と喜びを持っていました。

 

  • 問題は現場で起きている

起きている問題は問題であるが、問題とすべきことはそのことではなく、問題の中において心が神様に向いているかどうかなのです。問題の中でダビデはどのように神様に向き合ったのかを見ていく

 

目をあげてみよう!
「イエスの御顔を照らしてください」(6節)


主に訴えてみよう
「呼ぶ」(1節)「アバ父と呼ぶ御霊を心に遣わしました。」(ガラテヤ4:6


主を体験したから!
「口でイエスを主と告白し、心で神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるならあなたは救われる」(ローマ10:9

大丈夫なんだ!という姿勢です。

 

終わりに
 私たちは神様へ信仰を抜きにして、速く安心したい、繁栄したい、命が助かりたい、と思ってはいないでしょうか。誰かがやってくれないと思ってはいないでしょうか。私たちの心は本当の救いにたどり着かない限り、永遠にさまよい歩きます。ダビデは友人達に言いました。「主が驚くべき方法を持って、その聖徒たちを導かれることを知りなさい」と。今日私たちがなすべきことは、聖徒になることです。神様の側につくなら裁かれることがなく、保護されるのです。どのようにしたら神様の聖徒になるのか。それは一つしかありません。「神を畏れ、罪を悔い改め、神の前に静まってみること。セラ」(4節) セラとは「静まること、一人になること、沈黙すること、止まること」「人から離れ、愛の眼差しを神様にじっと注ぐことです。」

今、あなたの心を見つめてください。そこには何がありますか。絶望と暗闇が襲って来ていることを実感することでしょう。よくよく考えてみてください、あなたが大事にしているものは、全ていつか終わりお別れ、裏切りがあるものなのです。なぜならそれらは神の栄光を表すものではないからです。それが罪なのです。これが神様と永遠に混ぜ合わせられないものなのです。神様と敵対するものなのです。実際に友人があなたを責めたてる目の前の問題よりも、これこそが真の問題です。神様に反逆し、敵対し、神様を要らないと言いながら自分の全てを自分のもののように扱う。それでいて心寂しく満たされずに、神様以外のどなたかに拾ってもらいたいと思っている。さまよい続けている。それこそがあなたの罪なのです。

しかし神様は「義なる神」(1節)です。義なる神とは、遊牧民語で『あなたを広くする』という意味を持っています。「御顔の光を私たちに照らしてください」(6節)とは「私が神の喜びに生きれますように」(6節)という祈りです。神様の光は、蛍光灯のようなものではありません。あなたがどんな時でも、神様の顔をみて、親しく話せる、という光なのです。この喜びは罪を、コロナを、面会謝絶を貫くほどの喜びの力を持っています。今(4節)に従ってみましょう。

祈り
神を認める

神様、私はあなたを知らないで生きて来ました。また居ても居ないように振る舞ってきました。いまあなたがここにいて私の心を見つめているのを信じて、恐れます。


罪を認める

私の心は罪に満ちています。忘れた言葉、心で思った言葉、行動、振り返れば数えきれません。私の内側は罪に満ちていて、がんばって良いことをしようとしても、綺麗にはなりません。


救いを求める

どうか、私の心にあなたの光を照らしてください。私が罪の支払うはずだった罰の肩代わりに、イエス・キリストが十字架で死んでくださり、私に命が与えられたことを受け入れます。私の罪の暗闇を消し去ってください。


神に信頼する

私があなたの子どもとして生きることができますように。どんな時もあなたの愛の広さ、光の中を歩むことができるように。それが本当の強さであることを私に体験させてください。 

 
イエスの名前で祈る

イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン(本気で信じますの意味)!

 今、救いを受け取り、お祈りした方はぜひ近くにいるクリスチャンにそのことを伝えてください。
この体験はあなたの人生そのものを変えます。今日からイエス・キリストを私の心に迎え入れたので、恋人のようにむようになります。

 

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