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2020年5月16日 (土)

2020年5月17日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「あなた方は知らないのか ~裁判問題における教会のあるべき姿~」

説教テキスト:1コリント61節~20

 

初めに

アメリカのある番組で、ある女性が警察署にかけ、女性と警察官と実際にやりとりの音声が報道されていた。ある女性が警察に電話をかけ、ピザの注文をお願いしてきた。対応した警察官は初め呆れた感じで聞いていたが、女性の意図を読み取り、住所を聞いて彼女のところに駆け付けた。女性は夫から日常的に虐待を受けており、夫からピザを注文するように命令された。そこで女性は助けを求めるために警察に電話をかけた。女性の側には夫がいるので、警察に「助けて下さい」とは言えない。対応した警察官はそのことを読み取り、彼女の演技に応じたのだ。

抱えている問題を放っておくと、いつか表面化してくるものだ。パウロは教会の表面化した問題に対して根本的な解決を与えている。コリント教会は不品行問題だけではなく裁判問題も抱えていた。教会内で争いが起き、当事者同士がその問題を裁判沙汰にしてしまった。問題の詳細は書かれていないが、その問題は教会で解決すべき問題であった。つまり信仰または教会生活に関係する問題であった。パウロは裁判問題を通して、本来教会が如何にあるべきであるのかを説いている。

 

  • 教会が世を裁く者である。

パウロは裁判沙汰になっている問題の詳細を把握していた。それは(62)には書かれている通りに、きわめて小さい問題であった。パウロは教会の小さな問題を世の中の裁判で解決してはいけない理由を挙げている。それは教会は世を裁く存在であること。何を言っているのか分からない人もいるかもしれない。この世界は天地万物を造られた神が創造された。世界の中には人間も当然入っている。神は天地が創造されて以来、ご自身の正さによってこの世を裁き続けてこられた。神は神のお言葉(聖書の言葉)によって世を裁く。最大の裁きはイエス・キリストを十字架に架けられたこと。やがてこの世界は完全に神の裁きに服する。その時に、教会はイエスと共に世を裁く者となる。であるのに、教会が教会の問題を世の裁判に出すのはよろしくない。何故教会はそのような愚かな事をしたのか。それは教会に問題を解決できる者がいなかったこと。またコリントにはギリシャ人が多く住んでおり、彼らは裁判好きで有名であった。裁判でしばしば起こっていた事は、お金で裁判官を買収し、富める者が勝訴し、貧しい者は敗訴していた。教会には本来世の中を裁く権威が与えられているにも関わらず、その権威を用いずに、問題解決を世の裁判に求めた。それは不義な事(正しくない事)。パウロは教会に厳しく警告を与えている。

 

  • 正しくない者は神の国を継ぐことができない。

パウロは、不義な者(正しくない者)は神の国を継ぐことはできないと断言している。またそのような正しくない他の例として、(不品品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者)を挙げている。彼が挙げたリストはイエス・キリストを知らない者であり、知らないが故にそのような者となっている。しかし教会は既にイエス・キリストを体験した者たちの集まりである。イエス・キリストを体験するとは、主の御名と神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたことである。

世の中の人達は、クリスチャンは宗教的に熱心な者であり、戒律や規則を頑張って守っている人たちと思っている。それは間違い。本当のクリスチャンは主の御名と神の霊によって罪が洗われ、きよめられ、義とされた者である。その御業は一度や二度の話ではない。教会が主イエス・キリストの御名を呼び求め、神の霊に満たされることを求めるならば、生涯に渡ってなされる御業である。クリスチャンとは神の恵みの中に生きる者たち。だからクリスチャンは以前の古い生き方はできない者。コリント教会は神の御業をしっかりと受け取っていなかったので、造り変えられた様に生きる事が出来ずに、問題を裁判で解決しようとした。

 

  • あなた方の体はキリストのもの。

パウロは問題の解決を深く掘り下げていき、兄姉の体について言及していく。ギリシャ哲学では体を軽んじ、精神を重んじる。聖書ではどちらも重んじられている。コリント地方に広まっていた諺に、「食物は腹のため、腹は食物のため」というものがあり、コリント教会のある者たちはその諺に自分たちの性を当てはめていた。「性は体のためであり、体は性のため」という考えの元に、自分の体を不品行のために用いていた。性は神からの賜物であり、性関係は男女を1つとするものである。性関係が許されるのは夫婦関係の中だけのこと。聖書では、夫婦関係は性関係が伴うものであることを説いている。もし自分の性を結婚外で用いるならば、その人の体は相手のものになる。遊女と結ばれるならば、遊女のものとなる。性を乱用している教会に対して、パウロは「あなたがたの体は主イエスのもの」と宣言している。どんな意味において、兄姉の体はキリストのものであるのか。それは神から聖霊が与えられているから。この神の御業は私たちの体を神殿とするもの。神殿は神を礼拝するために存在し、神殿内には神を賛美するための道具しか置かれていない。もう1つは、キリストの犠牲という代価を払って買い取られたこと。この神の御業は、私たちを罪の奴隷から解放し、完全にキリストの所有となったことを表している。そのような神の御業を受けた教会は、自分の体で神の栄光をあらわすことが求めらている。

 

終わりに

教会の裁判問題は根の問題が表面化した事件。問題は根の部分にあった。私たちの根の部分にあるものが表面化してくる。神の宮とされた私たちの内側には神を礼拝するための道具しか置けない。その他の道具があるならば、その道具に相応しいものが私たちの体から表現されていく。自分から表面化している日常の言動から、自分の神殿の中にあるものを手繰っていくことができる。皆さんの神殿には何が置かれているだろうか。神は求める者に喜んで礼拝のための良きものを与えて下さる。神を礼拝する生き方は多くの問題を解決していく。反対に礼拝しないならば、問題は山積みになっていくことだろう。

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