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2020年5月23日 (土)

2020年5月24日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「結婚と独身 ~性の問題~」

説教テキスト:1コリント71節~7

 

初めに

「男女七歳にして席を同じうせず」とは儒教の教え。この教えは日本の社会に浸透してきた教えであり、男子校や女子校はその影響を受けたもの。意味は、7歳にもなれば男子と女子の性の区別を明らかにし、みだりに交際してはならないということ。つまり男女のみだらな性の関係を戒める言葉。この言葉は誤解されやすい。「席」とは椅子ではなくござのことを表している。ござは床に敷いて4人ほどで座るためのものだが、ござは布団としても用いられた。つまり、「男女七歳にして席を同じうせず」は、同じ布団で寝てはならないと戒めている。国や地域によって性に関する意識は違っている。コリントの地域の性はかなり乱れていた。その証拠に、「コリントのような」という言い回しは淫乱を意味することで用いられていた。今朝の聖書箇所の7章~15章までは、教会からの質問にパウロが答えを与えている。教会は「結婚と独身 ~性の問題~」について彼に質問を投げかけた。彼の答えから教会の質問は以下のようなものであったと予想がつく。

 

  • 男子は性を自由に用いて良いのか。

コリントで生まれ育った人たちはギリシャ思想の影響を受けていた。ギリシャ思想では精神が重んじられ、肉体は軽んじられていた。その考えから、肉体に関する2つの極端な考えが生まれた。肉体は無意味なので、どう扱おうとかまわない。その考えで自分の性で用いた時には、性は不品行や淫乱なものとして扱われた。反対に、肉体は悪なので、肉体が持つ本能と欲望を完全に否定しなければいけない。この考えで性を用いると、性は禁欲的に扱われたものとなった。ギリシャの思想の中で育ったコリント教会の信者たちは、イエス・キリストを受け入れた後に、自分たちが持っている性の考え方に関してパウロに質問を送った。それは彼らが自分たちの性に関して何らかの違和感を抱いたからだ。質問をすることはその人が自分の殻を破るシグナル。彼らがパウロに質問をしたことにより、彼らは神が与えた肉体(性)に関する正しい知識を受け取ることができた。コリント教会はパウロに「男性は女性と自由に性関係も持って良いのではないか」という類の質問をした。何故なら彼らは「体は性のため、性は体のため」という考えで生きてきたからだ。それに対してパウロは「男子は婦人にふれないがよい。」と答えている。この彼の答えの背後には、自分の性を不品行や淫乱で用いることは、キリストのものとなったあなた方に相応しくないというもの。また、神は人が不品行や淫乱に陥らないために、結婚という秩序を与えており、その秩序の中で自分の性を用いなさい。それがパウロの答え。

 

  • 夫婦は性関係を持つべきではない。

コリント教会の次なる質問は、「夫婦は性関係を持ってはいけないではないか」というもの。この質問はコリント教会の禁欲主義者からもの。ギリシャ思想の影響を受けた信者は夫婦であったとしても禁欲生活をしなければいけないと考えていた。その質問に対して、パウロは夫婦の性の義務と権利に言及しながら回答を与えている。(735)に書かれている事柄は夫婦の性関係の事を言っている。(7:3)に書かれている「その分」と訳されている言葉は「義務」という言語であり、義務とは正しい務めという意味。夫婦は互いに神から与えられた正しい性の務めを果たべきである。「果たすべきである」と訳されているが、命令で書かれているので、「果たせ」と訳せる。(74)の「自由にすること」は「自由にする権利」という意味である。夫婦が性関係を持つ権利は自分ではなく、相手が持っている。しかしこの権利は相手が義務を果たす時に、有効となる。相手が義務を果たさないならば、その権利は絵にかいた餅になる。だからパウロは(7:5)でお互いに拒んではいけないと命令している。例外的に夫婦が祈るために、お互いの間に距離を取る事に関して書かれている。そのような場合であっても、それが夫婦の権利と義務の妨げとならない様に、3つの条件が挙げられている。それは「合意の上で」「しばらく」「また一緒になる」というもの。(6:16)でパウロは(創世記2:24)「ふたりの者は一体となるべきである」という御言葉を引用している。このみ言葉は、夫婦が性関係を持つことによって親密な結びつきを持つべきだと言っているのだ。もし夫婦の間にギリシャ思想を持ち込んで禁欲生活をするならば、それは神の命令に逆らうことであり、神から夫婦に与えられた権利と義務を放棄していることになる。

 

  • 結婚するかどうかは賜物による。

パウロは夫婦の性の問題に言及する中で、結婚するか独身でいるかについても言及している。(7:6)の「以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。」は、夫婦の性関係のことを指しているのではない。それは不品行に陥ることがないために結婚するかどうかについてである。その理由は(76~7)でパウロが言っていることから判断することができる。「みんなの者がわたし自身のようになってほしい。」と言っている。彼は(416)でも「わたしにならう者となりなさい。」と言っている。パウロのようになるとは(417)で言われている様に教会が「キリスト・イエスにおけるわたしの生活」をすること。彼は独身であったと言われている。彼が独身を貫き通したのは、ひたすら主の奉仕をするためであった。彼は独身であることを受け入れることができたのだ。しかし全ての人は独身を貫くことができる訳ではない。結婚を選ぶ人もいる。そのことをパウロは「ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。」と言っているのだ。独身であろうが結婚していようが、パウロはコリント教会が「キリスト・イエスにおけるわたしの生活」に倣って欲しいと願っていた。夫婦は性関係によって一体となり、その先に何を為していくのか。それは共に主に仕えていく。家庭生活、社会生活、教会生活の中で主に仕えていく。聖書では、夫婦関係はキリストと教会の関係を証しするものである。夫婦関係と同様に、教会はキリストと婚姻関係を結んでいるので、教会には主に仕える権利と義務が与えられている。教会はそれを果たしていく。

 

終わりに

「結婚と独身 ~性の問題~」について見てきた。山室軍平の名言「酒と色は、悪魔が人間を陥れる2つの最も大きな落とし穴。」 神から離れた人間が堕落した性質を最も表しやすい領域は性の世界において。淫乱や不品行の世界には必ず酒が付きまとう。その世界は、義なる神から離れさせ、永遠に神を忘れさせようする。しかし神が人間に与えておられる性は、夫婦を一体にさせ(親密にさせ)、共に神に仕えさせ、人間を神に近づけるものなのだ。ギリシャ世界と同様に日本にも性の乱れがある。日本で大学生伝道をしている宣教師の先生は、今の若い人たちの性生活を聞くに堪えることができないと言っている。またある青少年伝道に携わっている人は、性病に犯されている青少年の数が多いので、それを野放しにするならば、日本社会は崩壊してしまうと言っている。またある海外の先生は、日本のサラリーマンが仕事帰りに居酒屋で何時間も過ごしているので、日本の夫婦関係は崩壊していると言っていた。その他にも日本の性の問題として、出会い系サイト、同棲、婚前交渉、セックスレス夫婦、フリーセックス、これらはどれもソドムやゴモラで起こっていたことであり、このまま日本が進んでいくならば、日本は神の裁きで滅ぼされてしまう。何故日本がそのような状態になっているのか。それは周りに良き夫婦のモデルがいないからだ。悪いモデルしか見ていないから。この教会から良いモデルが生み出されていき、日本の性社会を変えていかなければいけない。そのためには、教会が性に関する神様の知識をしっかりと持ち、夫婦が共に主に仕えることである。

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