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2020年5月 2日 (土)

2020年5月3日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「夕暮れの歌」

説教テキスト:詩編41節~8


初めに
 私が保育園に働いていた時、いつも夕方4時過ぎになると泣くたかしくんと言う一歳の男の子がいました。彼は毎日、4時から夕日を見ながら1時間ほど泣くのです。そのたかしくんを毎日1時間抱くのは私や他の先生の役目です。彼は様々な先生の胸を涙で濡らしながら渡り歩き、夕方の時間を過ごします。けれども5時になるとそれがピタリと終わります。お母さんが迎えに来ると一転してミラクルが起きるのです。それはもうにっこりなのです。たかしくんが本当に安心でき、笑顔になるのは先生ではなくお母さんなのでした。これは仕事一年目の私にとって感動と忘れないものとなりました。
 さてこの詩篇4篇は夕べの歌と呼ばれるダビデの詩です。ここでダビデには敵対者たちがいたことが伺えます。彼らはダビデを急き立て、自論で彼を責めていました。しかしダビデはそれでも歌うのです。誰に向かって?神に向かってです。それは彼が現実逃避しているのではありませんでした。

 

  • 心の置き場の違い

以下の様に、ダビデと敵対者が持っているもの、求めているものは違っていたのです。困難な時に自分の心にあることが表面化していきます。ダビデは敵対者の中で信仰を貫いていきます。敵対者たちは不満を抱いて人々の中で埋もれていったが、ダビデは神に信頼し自分を見出していきました。


◎義なる神(1節)VSむなしいもの(2節)
くださいました(1節) VS  知れ(知らない)(3節)
神からの特別扱い(3節) VS  人の栄光(2節)
主よ、主は(全節) VS  誰が、誰か(6節)
心の喜び VS  繁栄(7節)

 

  • 自分は聖別されていて、特別だという意識

ダビデの友人たちは、不平不満と絶望の中にいます。彼らには神への信頼とリーダーへの信頼がないのです。彼らはダビデに対して攻撃をし、弁が立ち優位なように見えますが、実際は、神への敬意と畏れ、信頼から離れた危険な状況でした。一方、ダビデは、困難の中においても責め立てられてもそれを貫くほどの強い神への信頼と喜びを持っていました。

 

  • 問題は現場で起きている

起きている問題は問題であるが、問題とすべきことはそのことではなく、問題の中において心が神様に向いているかどうかなのです。問題の中でダビデはどのように神様に向き合ったのかを見ていく

 

目をあげてみよう!
「イエスの御顔を照らしてください」(6節)


主に訴えてみよう
「呼ぶ」(1節)「アバ父と呼ぶ御霊を心に遣わしました。」(ガラテヤ4:6


主を体験したから!
「口でイエスを主と告白し、心で神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるならあなたは救われる」(ローマ10:9

大丈夫なんだ!という姿勢です。

 

終わりに
 私たちは神様へ信仰を抜きにして、速く安心したい、繁栄したい、命が助かりたい、と思ってはいないでしょうか。誰かがやってくれないと思ってはいないでしょうか。私たちの心は本当の救いにたどり着かない限り、永遠にさまよい歩きます。ダビデは友人達に言いました。「主が驚くべき方法を持って、その聖徒たちを導かれることを知りなさい」と。今日私たちがなすべきことは、聖徒になることです。神様の側につくなら裁かれることがなく、保護されるのです。どのようにしたら神様の聖徒になるのか。それは一つしかありません。「神を畏れ、罪を悔い改め、神の前に静まってみること。セラ」(4節) セラとは「静まること、一人になること、沈黙すること、止まること」「人から離れ、愛の眼差しを神様にじっと注ぐことです。」

今、あなたの心を見つめてください。そこには何がありますか。絶望と暗闇が襲って来ていることを実感することでしょう。よくよく考えてみてください、あなたが大事にしているものは、全ていつか終わりお別れ、裏切りがあるものなのです。なぜならそれらは神の栄光を表すものではないからです。それが罪なのです。これが神様と永遠に混ぜ合わせられないものなのです。神様と敵対するものなのです。実際に友人があなたを責めたてる目の前の問題よりも、これこそが真の問題です。神様に反逆し、敵対し、神様を要らないと言いながら自分の全てを自分のもののように扱う。それでいて心寂しく満たされずに、神様以外のどなたかに拾ってもらいたいと思っている。さまよい続けている。それこそがあなたの罪なのです。

しかし神様は「義なる神」(1節)です。義なる神とは、遊牧民語で『あなたを広くする』という意味を持っています。「御顔の光を私たちに照らしてください」(6節)とは「私が神の喜びに生きれますように」(6節)という祈りです。神様の光は、蛍光灯のようなものではありません。あなたがどんな時でも、神様の顔をみて、親しく話せる、という光なのです。この喜びは罪を、コロナを、面会謝絶を貫くほどの喜びの力を持っています。今(4節)に従ってみましょう。

祈り
神を認める

神様、私はあなたを知らないで生きて来ました。また居ても居ないように振る舞ってきました。いまあなたがここにいて私の心を見つめているのを信じて、恐れます。


罪を認める

私の心は罪に満ちています。忘れた言葉、心で思った言葉、行動、振り返れば数えきれません。私の内側は罪に満ちていて、がんばって良いことをしようとしても、綺麗にはなりません。


救いを求める

どうか、私の心にあなたの光を照らしてください。私が罪の支払うはずだった罰の肩代わりに、イエス・キリストが十字架で死んでくださり、私に命が与えられたことを受け入れます。私の罪の暗闇を消し去ってください。


神に信頼する

私があなたの子どもとして生きることができますように。どんな時もあなたの愛の広さ、光の中を歩むことができるように。それが本当の強さであることを私に体験させてください。 

 
イエスの名前で祈る

イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン(本気で信じますの意味)!

 今、救いを受け取り、お祈りした方はぜひ近くにいるクリスチャンにそのことを伝えてください。
この体験はあなたの人生そのものを変えます。今日からイエス・キリストを私の心に迎え入れたので、恋人のようにむようになります。

 

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