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2020年5月 9日 (土)

2020年5月10日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「不品行問題に対する教会の態度」

説教テキスト:1コリント51節~13

 

初めに

教会はこの世の中で最も問題が多き場所と言ってもよい。コリント教会もいつくかの問題を抱えていた。その1つが性の乱れであり、教会のメンバーの中に不品行な者がいた。その不品行は息子が継母と同棲しているというもの。その不品行はコリント地方の乱れた性も酷いものであった。聖書で不品行は禁じられている。(レビ18:8) パウロは教会の不品行問題を通して、教会のあるべき姿を説いている。パウロが問題としていることは、不品行を犯している本人よりも、不品行問題を知りながらそれを野放しにしている教会である。「不品行問題に対する教会の態度」について見ていく。

 

  • 指導者パウロの裁き

(5:36)にパウロの裁きが書かれている。パウロは手紙を教会に書いた時、コリントではなくマケドニアにいた。しかし体は離れていても霊は教会のメンバーと共にいて、不品行の罪を犯した者をさばいたと言っている。彼の裁きは、罪を犯した者をサタンに引き渡すこと。それは罪を犯した者が教会に出入りすることを禁止すること。そのようにすることで、罪を犯した者が罪を悔い改め、主の再臨の日までに彼が救われることを願っていた。パウロの裁きは、罪を犯した者を追放するのではなく、悔い改めを目的としていた。人の罪を裁くのは神であって人間ではない。だからパウロであってもそのようなことをすべきではないと思われるかもしれない。しかし教会には罪を犯した信者に対する対処方がイエス・キリストによって与えられている。それは(マタイ181518)に書かれており、その箇所においても、罪を犯した者が悔い改める勧めが記されている。しかし罪を犯した者が悔い改めない場合、教会はその者を信者として認めないことになっている。

 

  • 教会は過ぎ越しの祭りをする集まり

パウロは、教会は過ぎ越しの祭りをする集まりであると言っている。過ぎ越しの祭りは、神がイスラエル民をエジプトの奴隷から解放し、神を礼拝する民として下さった御業を記念する祭り。イエス・キリストの救いは過ぎ越しの祭りに根差している。罪の奴隷となった者を解放し、神を礼拝する者へと造り変えるのがイエスの十字架の御業である。パウロは過ぎ越しの祭りで用いられるパンを用いて、教会が本来あるべき姿を説いている。過ぎ越しの祭りではパン種が入っていない堅いパンを用いる。酵母の入ったパンは用いることはできないので、それらは外に捨てる。教会が用いることができるパンは種無しパンであり、それは純粋で真実なイエス・キリストのお言葉を表している。それに対してパン種の入ったパンは、神に逆らう悪意と邪悪とのパン種が入っているので用いることができない。教会はイエス・キリストのお言葉で祭り(神を礼拝)をする。2つのパンを同時に教会に置いておくことができない。不品行のパン種とそれを野放しにするパン種を教会に放置しておくならば、パン種は発酵してどんどん膨らんでいく。教会は不品行で汚染されてしまい、教会でなくなってしまう。だから不品行を犯した者を教会から除く必要がある。

  • 教会は世に存在し、世に染まらない集まり

パウロは不品行対処法を教会に教えると同時に、その事に関して教会が勘違いすることがない様に注意を与えている。それは教会の信者でない者と信者への対処法の違い。パウロは以前に教会に宛てた手紙の中で、不品行な者たちと交際してはいけないことを書いている。交際していけない者とは信者のことを指しており、未信者のことではない。もし未信者と交際していけないのならば、信者は世の中で生活できなくなり、修道院生活をするようになるだろう。信者でない者には聖書の言葉が教えられていない。彼らは言い伝えや住んでいる地域の風習に従って生きている。彼らは教会とは違った価値観で生きているので、彼らを裁くのは神であって教会ではない。しかし不品行な信者を裁くのは教会である。何故なら信者には世の中の悪に染まることがない神の霊と神の言葉が与えられているからだ。信者は神の聖さの中を歩む恵みに預かっているからだ。だから不品行だけではなくその他のリストも挙げられている。貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者がそれ。そのような者たちは教会に在籍することはできない。教会はそれらの者を取り除かなければいけない。教会の裁きによって、教会は世の価値観に染まらずに生きていくことを世界に示していくのだ。

 

終わりに

「不品行問題に対する教会の態度」を見てきた。コリント教会には不品行という悪が入ってきても、それを判断する能力が無かった。判断力が無いので行動力もなかった。つまりコリント教会には教会がこうあるべきだというイメージが無かった。私たち教会の一人一人も、教会がこうあるべきだという価値観をしっかりと持っていないと、教会は内部から崩壊していく。パウロが言っている「古いパン種、悪意と邪悪とのパン種」とは罪を犯した本人というよりも、教会が持っている価値観のことを指しているからだ。教会はどんな人でも歓迎されるコミニティであるが、何でも許されるコミニティではない。不品行、婚前交渉、不倫、同棲、偶像礼拝、酒に酔う、略奪をする者は教会で許されないことだ。教会は社会の中で最高基準のモラルを持つコミニティなのだ。何故なら教会のモラルは聖なる神のモラルであるからだ。いつも腐ったパンを食べている人は腐ったパンを食べることに違和感がなくなる。反対にフレッシュなパンを食べても美味しいと感じることができない。しかし、いつもフレッシュなパンを食べている人はフレッシュなパンしか食べることができない。腐ったパンなど食べることはできない。それは霊の世界でも同じこと。腐った考え方もあるよねと教会は判断してはいけない。腐ったパンは教会にとって危険だ。そのパンを教会は飲み込むことはできない。腐ったパンは教会から取り除かれなければいけない。そのように振舞うことができる人は、いつも純粋で真実パンを食べ続けている人だけ。もしこの教会に不品行やその類の人達が出てきたら、皆さんはパウロが勧めている様に振る舞うことができますか。

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