季節の木

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毎週の礼拝説教

2020年4月 5日 (日)

2020年4月5日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「イエスの予告」

説教テキスト:マルコによる福音書1422節〜31

 

初めに

読書メーターというコミニティサイトがある。読んだ本の感想を短文で書き込み、感想を分かち合うサイト。投稿することによって、同じ本を読んでいる読者とつながることもできる。自分の感想に対して、他の人がいいねや感想に対するコメントも投稿できる。感想を投稿する際にはネタバレを含むかどうかを選んで投稿できる。他の人がその本のネタを知りたくない場合があるので、そのような機能がついている。推理小説で予め犯人があらかじめ分かっていたならば、本を読み進めていく面白さが失われてしまう。イエスは十字架の苦難を前にして、すべのネタをオープンにしてしまわれた。今朝は「イエスの予告」というタイトルでみ言葉を見ていく。

 

  • ご自身が与えて下さるものを予告された。

イエスは過越しの食事を通して、弟子たちに与えておられるものがある。それはパンとぶどう酒、天国の宴会である。過越の食事は(祭り)は、イスラエルの民がエジプトから脱出した出来事を思い起す記念の祭り。しかしイエスの過越の食事は、出エジプトを記念するものではなく、出エジプトの記念を更新するもの。何が更新されるのか。それはイエスのパンと血受け取る弟子たちが神の民として契約を結ぶこと、また神の民である弟子たちが天の宴会に連なること。イエスの十字架による救いと天国の祝宴は、出エジプトと過ぎ越しの食事に根差したものである。十字架の救いを頂くことは、テーブルマターであるイエスが与えるパンとぶどう酒を受け取ること。また天国の祝宴は、共にぶどう酒を共に飲んでお祝いすること。さらにイエスが弟子たちに与えられたことは、蘇られたイエスとガリラヤで会う約束。

イエスが用意された食卓は十字架の苦難を受けられる前なので、どうしても暗いイメージが付きまとう。しかしイエスの食卓は明るいものであったはず。イエスはご自身が持っておられるものをいやいやながら弟子たちに与えられたのではなく、喜んで、喜びに溢れて、彼らに与えて下さった。弟子たちはイエスの言われていることを十分に理解できなかったので、主が与えて下さるものをしっかりと受け取ることができなかったはずだ。しかしその時はそれでよかった。彼らがしっかりと受け取ることができたのは、復活の主と出会い、聖霊を受けた時であった。その時に、彼らはイエスのお言葉を思い出し、それらを受け取ることができた。

 

  • 弟子たちの行動の予告

またイエスは弟子たちがやがてとる行動も予告されている。(ゼカリヤ1379)の聖書箇所を引用して、羊飼いであるイエスが打たれるので、羊である弟子たちはつまずいてしまうこと。しかしペテロは「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」とイエスに言い返してきた。イエスは彼に対して、彼がどのようにつまずくのかを具体的に教えられた。するとペテロは主の言葉を否定して、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」とイエスに言い返してきた。ペテロのその告白に、他の弟子たちも賛同し、同じ告白をした。弟子たちの告白はある意味立派な告白である。殺されるような事があったとしても、主を知らないとは絶対言わないと言い切っている。その結果はどうであったのか。弟子たちの内一人ぐらい有言実行する者がいても良さそうであったが、結果は全員惨敗に終わった。弟子たちの何がよろしくなかったのか。よろしくないことを2つ挙げることができる。1つは「みんなの者がつまずいても」という優越的な思い。高慢な思いと言ってもよい。イエスがなされた過ぎ越しの食事は、弟子たちと共になされたもの。またイエスは弟子たち全員がその食事を受け取って欲しかった。しかしペテロの告白は、自分だけが主に従えばよく、他の弟子がつまずいても構わないもの。自分だけが主の食事を食べ、他の者が倒れても構わない弱肉強食的な信仰。だから主はペテロに「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ2232)と言われた。もう1つは、弟子たちがイエスの言葉を聴こうとしないこと。イエスは、弟子たちはつまずくと予告された。しかし弟子たちはイエスのお言葉を聴こうとせずに、主が語られる事を認めようとしなかった。もしイエスの言われたことを認めることができたならば、そんな酷いことをする自分たちが主に愛されているという意識を持つことができた。それは恵みだと思うことができたはず。そのような認識は後になって与えられた。イエスは彼らの弱さを十二分に承知の上で、彼らにご自身を与えられた。

 

終わりに

「予告」について見てきた。イエスはご自身に関すること、また弟子たちの主に対する態度の全てをオープンにされている。主の予告を知るだけではなく、そのような主との出会いを自分の人生の中で体験することが大切である。私たちは、主が十字架にお架かりになったこと、弟子たちが主を見捨てて逃げ出したことを知っている。またそれを信じている。まともなクリスチャンであるならば誰でも信じているはずだ。しかし主が私たちの人生の中に現れて下さり、主が死んでしまうような出来事、自分が主を見捨てて逃げ出してしまうこと、ユダのようにイエスを裏切ろうとすることは、聞きたくない、信じたくない、認めたくないのではないか。私たちは自分の都合の良いストーリーだけを頭で描き、主のお言葉をブロックする者である。しかしイエスは主を見捨てて逃げ出すような私たちを、ご自身の食卓に招いて下さり、喜んでご自身のパンとぶどう酒を与えて下さるお方。そのようなイエスを信じる者が主の弟子であるのだ。

 

2020年3月31日 (火)

2020年3月29日(日)ウェルカム礼拝説教概要

説教タイトル:「遺言 ~受け取って欲しいこと~」

説教テキスト:ヨハネによる福音書131節〜17

 

初めに

遺言での笑い話。古い醤油屋を経営していた商店が経営難で近く廃業することになった。最後の店主となったお爺さんが亡くなる前に、家族に遺言をした。「創業者の爺さんが、どうにもならなくなったら山の頂上を掘りなさいと言っていた。確認したことが無いから分からんが、大爺さんが言うには大金が埋まっとるらしい。」 この話が発端で、親戚中で山の頂上を堀りに行くことになった。見たことも無いような親戚も集まってきた。しかし掘って出てきたものは熟成された年代物の醤油であった。

 

  • 僕の姿を通して表されたイエスの愛

13章から17章はイエスの告別説教。イエスはご自身が殺されて、三日後に蘇り、天に帰られることをご存じであった。イエスが12弟子たちと共に過ごすことができるのはわずかな日数。その間にイエスは彼らに受け取って欲しいことを与えられた。それはイエスが彼らを愛しておられること。イエスはご自身の態度で愛を示された。イエスは夕食の最中に、彼らの足を洗われた。当時のユダヤ社会では、自分の家にお客様をお招きする際、その家にいる奴隷がお客様の足を洗った後に、その家の主人がお客様と一緒に食事をした。だから弟子たちは自分の師であるイエスが奴隷の様な行いをされたので驚いた。弟子ペテロは師匠イエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」「わたしの足を決して洗わないで下さい」と言った。しかしイエスは「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」と言われて、彼らの足を洗われた。またイエスは「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」とも言っている。イエスの弟子たちに対する洗足は、イエスと彼らを深く結びつけるものであり、後で理解できるもの。後とは何時か。それはイエスが十字架にお架かりになり、三日後に蘇り、天に帰られた時である。洗足とは足の汚れを洗い流し、綺麗な体で、招かれた家の主人と交わるためのもの。洗足はイエスの十字架によって彼らに与えられる雛形。イエスの十字架は彼らの罪を赦し、罪を清め、親しく交わることを可能とする。イエスは十字架の愛で、弟子たちを招き、彼らを親しい関係を結びたいと願っておられる。イエスの十字架の愛は、天の栄光に輝くイエスが奴隷となられて弟子たちに仕え、彼らの足を洗うイメージを持ったもの。

 

  • 互いに愛し合うこと

イエスの洗足は弟子たちに注がれた愛であるのと同時に、その愛を受け取った弟子たちが互いに愛し合うための模範。組織はリーダーによって決まる。ブラック企業のリーダーは組織の人間を人間として見ていない。イエスはどのようなリーダーであったのか。イエスに従ってきた弟子たちがイエスに期待していたことは、イエスが国の王様なること。そして弟子たちは王様の下で働き、人々の上に立つ偉い人になることを思い描いていた。彼らはお互いに誰が一番偉いのかという議論に耽っていた。しかしイエスは彼らの夢を見事に打ち砕く。イエスは王様になることを拒否し、人に仕えるサーバント・リーダーとしての模範を示された。また弟子たちには、奴隷のように互いに足を洗い合うことを命令された。足を洗うとは相手を愛するための表現の1つ。足を洗うそのものの行為が大切な事ではなく、互いに仕え合うことが大切である。イエスの愛の行いから、弟子たちが互いに愛し合うための模範を知ることができる。愛は行いによって表されるべきもの。愛を行うためには、自分の肩書や立場を捨てて、卑しい立場になる必要がある。愛はその時理解されなくても良い。愛は受け入れられない場合がある。愛は自分を裏切る者にも注がれる。このようなイエスの愛が弟子たち(教会)に注がれている。教会は愛を受け取るだけではなく、愛されている者として愛し合うことが求められている。イエスは昇天される前に、そのような共同体をこの地上に残したいと願われた。

 

終わりに

「遺言 ~受け取って欲しいこと~」を見てきた。1つ目の勧めは、イエスの十字架の救いを受け取ること。イエスは十字架の救いを必ず受け取って欲しいものとして残された。イエスの救いは、私たちが神を信じないで生きようとする様々な夢や欲望を打ち砕き、私たちを愛のある者に造り変えていく。2つ目の勧めは、遺言を残す教会として生きる。教会はイエスの弟子たちの集まりであるから、イエスと同じ様に生きる。イエスが遺言を残されて生きた様に、教会も同じ様に生きる。アメリカ16代目大統領リンカーンの母親ナンシーさんの証し。リンカーンはアメリカのケンタッキーの貧しい家に生まれた。母親の息子リンカーンに対する遺言は「汝は百エーカーの農場を持つよりも、一冊の聖書を持つ者となりなさい」といもの。私たちは何を残そうとして生きているのか。人は自分が大切にしているものを残して生きるもの。あなたが大切にしているものは何か。

 

 

2020年3月22日 (日)

2020年3月22日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「成長させて下さる神 ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント31節〜9

 

初めに

自撮り画像をSNSに挙げることがはやっている。自撮り画像は撮影のために飾られたポーズである。飾られたポーズで日常を過ごすことはできない。私たちは自分の普段の様子を自分で見ることはできない。それは他人が見ているのだ。パウロはキリストの心でコリント教会の見、彼らに自分たちの姿とアドバイスを送っている。

 

 

  • 成長しないコリント信者

パウロは、キリスト者には霊の人と肉の人の2種類がいると言っている。霊の人は聖霊に満たされて神の言葉に従う人である。肉の人はイエスを信じてはいるが、幼子であり、救われていない普通の人たちと同じ様な人たち。肉の者は乳しか飲むことができず、堅い食べ物は食べることはできない。コリント教会が肉の人(幼子)である証拠は、指導者を担ぎ上げて、信者同士で妬みと争いを繰り広げていることである。妬みや争いは聖霊のご性質ではなく肉の(罪の)性質である。イエス・キリストは妬みと争いによって十字架に架けられた。つまり争いは教会からイエスを追い出すことになる。教会からイエスがいなくなったら、そこには人間の意見や欲望しか残らない。コリント教会に遣わされた教師はパウロ、アポロ、ペテロ。彼らがコリント教会に派遣された目的は、教会の兄姉を成長させるため。乳児を子どもへ、子どもを青年へ、青年を成熟した大人の信者へと成長させるため。一般的な子どもの成長を考えてみたとき、周りの大人たちは子どもの年齢や成長に合わせたことを提供していく。教師たちはそれぞれに与えられた賜物に従って、教会の成長に必要なものを与えていった。しかし蓋を開けてみたら、教会は幼子の状態であった。その原因は神が教師を通して与えられたものを受け取っていなかったから。

 

  • 成長しない者たちへの教え

教会が教師たちの立場と役割を誤解しているので、パウロは農業の譬えを用いて彼らの誤解を修正しようとしている。まず教会の兄姉は神の畑であり、その畑にパウロが福音の種であるイエス・キリストを植えた。次にアポロが畑に水を注いだのである。神の畑である教会がパウロとアポロによってもたらされたものを吸収すれば、畑には作物が実っていたはず。作物は神が成長させて下さる。しかし畑からは何時まで経っても芽が出てこない。しばらくすると雑草が伸びてきた。それは耕されていない畑に種と水が蒔かれたから。そこでパウロは、教会に神の農業共同体(教会)が遣わされた目的を教える。パウロとアポロは共同体から遣わされた僕であり、共同体の目的のために働いた。共同体と畑にとって大切な事は、指導者を通して与えられる神の賜物を受け取り、教会が成長すること。しかし教会は神の目的から逸脱していた。

 

終わりに

「成長させて下さる神 ~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。神が成長させて下させて下さることを知るだけではなく、実際に神が私たちを成長させて下さることを体験していくことが大切。成長のために2つの勧めをする。1つは、教師が語るみ言葉を大切にしていくこと。教師は四六時中み言葉を語っている訳ではない、必要な時にしか語らない。特に主日礼拝で語る。礼拝で語られるみ言葉を受け取らなければ教会の成長はない。成長がなければ、教会には妬みや争いなどが蔓延していく。礼拝の御言葉に餓え渇いて頂きたい。パウロとアポロは取るにならないものであるが、彼らが語るみ言葉が教会を成長させる。み言葉への食欲があることは成長したい証拠。

2つ目は、礼拝ノートとデボーションノートをつけること。書くことによってみ言葉の真理を自分の心に刻つけていくこと。書き留める内容は(読んだ聖書の要約、ポイントとなるみ言葉、何故そのようなことが起こったのか、何故主はそのような事をなされているのか、訴えたいことは何なのか、自分が為すべきこと、自分の祈り、決心したことなど) 書くことによって、み言葉の真理を悟り、思想を整理していく。思想を深く持ち、単純に信仰を持つこと。それが力強く主を証することに繋がっていく。

2020年3月17日 (火)

2020年3月15日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「2つの知恵~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント21節〜16

 

初めに

世の中には同じようで違うものがある。「そうめん」と「冷麦」。「ざるそば」と「もりそば」。ソーセージとウインナー。皆さんは違いが分かるだろうか。世の知恵と神の知恵も違っている。

 

  • この世の知恵

パウロはコリント教会に福音を伝えた時に、この世の知恵を用いることをしなかった。何故ならば、神の証しであるイエス・キリストは聖霊と神の力によって証明されるものだからである。またそれはコリント教会がどのような土に植えられて、どのような養分を頂いて生きているのかということにつながること。パウロは、教会の神の力によるものである、と言っている。パウロの言っていることは当たりの事。しかしその当たり前が教会に通じていなかった。新約聖書の教会に宛てた手紙の中で、「知恵」という言葉が「この世」と「神」とで対比して用いられている教会はコリント教会のみ。何故パウロはコリント教会に世の知恵のこと引き合いに出しているのか。それはコリント教会が神の知恵よりも世の知恵を大切にしていたからだ。その表れが(1:12)の告白。(「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」) 世の知恵は神の知恵であるイエス・キリストを愚かに扱い、イエスを犯罪者として十字架に架けてしまう。(2:14)でパウロが言っている通りである。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。」 コリント教会もそのように愚か者となっていた。

 

  • 神の知恵

パウロは世の知恵とは別に、(26)で「円熟している者の間では、知恵を語る。」と言っている。この知恵とはイエス・キリストのことである。コリント人への手紙はパウロが54年~57年に書かれたと言われている。知恵であるイエスはコリント教会に54年~57年前に突然現れたのではない。(2:7)に書かれている通りに、「世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。」 イエスは地上に来られる前には何もしておられなかったのではない。神の御心に忠実であった王、祭司、預言者を通してご自身を証ししておられた。そして時が満ちてこの地上に来られた主は、この世の知恵では受け入れることができないお方。コリントに蔓延していたギリシャの神々やエジプトの神々は、人間の五感で考え生み出すことができる偶像である。しかしイエス・キリストは人間が創造できる偶像の枠を超えた想定外のお方。想定内のことは受け入れられるが、想定外のことは受け入れられない。神はどのようにしてイエス・キリストを教会に与えて下さったのか。それは御霊による啓示である。御霊による啓示とは、御霊が語る言葉(聖書の言葉、イエス・キリストの御業)を御霊が理解させて下さること。御霊が語る言葉とはどのように教会にもたらされたのかというと、キリストの思いを持っているパウロ、アポロ、ケパ(ペテロ)が語る福音によってもたらされた。

 

終わりに

「2つの知恵~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。教会は神の知恵であるイエス・キリストで建て上げられていく。世の知恵では教会は建て上げられない。あるカルト宗教を脱会した人が書いた暴露本を読んだ。そのカルト宗教は聖書を用いているが、教理は聖書信仰ではない。信者はトップの人たちが語る教えだけを信じ、神から直接何も受けとっていない。その結果、信者は物事を善か悪で判断し、生まれながらの状態で神の言葉に従い、自分たちは悪ではなく善に生きていると思っている。キリスト教会も神から与えられるものを直接受け取っていないとカルト宗教になってしまう。教会が教会として建つためには、神の知恵であるイエス・キリストを受け取ること。イエスを受け取るためには2つのハードルがある。1つは世の知恵である。世の知恵とはイエス・キリストを認めない知恵。この知恵は私たちに染みついており、イエス・キリストを愚かに扱う罪である。もう1つのハードルは教師・牧師である。何故教師・牧師がハードルになるのか。それはイエス・キリストよりもイエス・キリストを語る教師をアイドル視するから。教師語られるイエスを受け取ること。

 

2020年3月 2日 (月)

2020年3月1日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「誇るな! 誇れ! ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント126節~31

 

初めに

心身共に健康であるためにオンとオフを上手に使い分けることは必要なこと。オフにするために趣味を持つことを勧める。私がオフの時にやっている事の1つは、ドリフのコントを見て、おもいっきり笑うこと。先週見たコントを内容を紹介する。夫婦が寝ている時に、大きな地震が起こった。夫は妻の身を心配するが、妻は引き出しの預金通帳と印鑑を心配する。夫は妻の行動に不信感を持ち、妻を問い詰める。妻は通帳ではなく夫のことを心配していると言う。しかし、その後何度か地震が起こる度に、妻は一目散に通帳のところに駆け寄っていく。人は大切なものを隠して生きることはできない。隠そうとするところに人間の愚かさがあり、それをコントにすると笑いを誘う。コリントの教会が大切にしていたことは、どの指導者につくのかということ。彼らは大切にしていることを隠さないで生きていた。そこに彼らの純粋さがあり、同時に幼さがあった。

 

  • 誇ってはいけないこと

パウロは誇ってはいけないことを教会に勧めている。それは神に選ばれたことに関して、自分たちを誇っていけないこと。初めに彼は召された時のことを考えてみよと兄姉に命令している。召されるとは呼ばれること。神はどのような人を呼ばれるのか。神は(知恵のある者)(権力のある者)(身分の高い者)を呼んだのではない。(この世の愚かな者)(この世の弱い者)(この世で身分の低い者)(軽んじられている者)(無きに等しい者)を呼んで下さった。この神の選びは世の中の選びとは全く異なっている。世の中の選びは条件付きであり、その条件には「だから」がつく。(知恵)(権力)(身分の高い)だから選ばれる。この条件は人を支配するために用いられる。しかし本来それらは人を愛し、人に仕えるために用いていくべきもの。(愚かな)(弱い)(身分の低い)(軽んじられている)(無きに等しい)は支配される側の条件。だから世の中では選ばれることは滅多にない。しかし神の選びは無条件であり、にも関らずの選び。(愚かな)(弱い)(身分の低い)(軽んじられている)(無きに等しい)にも関わらず選んで下さる。その目的は、(知者)と(強い者)は辱め、(有力な者)を無力な者にするため。はずかしめと無力にするとは、神を知ることができなくなること。神はこの世の弱い者と強い者を依怙贔屓しているのではない。しかし神の愛の眼差しは、社会的に虐げられた者たちに注がれている。それに対して神の怒りは弱者を虐げる支配者たちに注がれている。神の憐れみを受けることに関して、神に近い存在は弱者の側である。神は彼らに恵みを注ぎ、イエス・キリストを通して神を知る知識に満たす。弱者も強者も自分の知恵、才能、立場では神を知ることができない。神を知ることができたのは神の呼びかけよるものであり、神の一方的な恵み。だから神を知っていることに関して、どんな人間でも神のみまえに誇ることができない。

 

  • 誇るべきこと

次にパウロは教会の兄姉が誇るべきことを勧めている。それは教会の兄姉がキリスト・イエスの中にいることであり、それは神によるものであること。パウロは兄姉がキリスト・イエスの中にいることにより、兄姉に与えられたもの4つ(知恵、義、聖、あがない)挙げている。

キリストは私たちの知恵。キリストから私たちに知恵が与えられた。それはこの世の支配者が持つ様な貧しい者たちを支配するものではない。また学者や知者だけしか持つことができない難解なものでもない。救いをもたらす知恵である。神に敵対する罪、神から遠ざかろうとする罪から私たちを救う知恵である。

またキリストは私たちの義。義とは法廷用語。キリストを信じた者は神に正しい者と認められる。それは私たちの行いによって判断される正さではない。また誰かと比較して相対的に下される正さでもない。キリストを信じた故に与えられる正しさ。神は裁判において、イエス・キリストが兄姉の法廷弁護人となる。神はイエス・キリストの御業・弁護・言葉・とりなしにおいて、兄姉が罪人であるのも係わらず、彼らに義である判決を下す。その判決はキリストの故に覆らない。

キリストは私たちの聖。聖とは世と分離した状態。聖はこの世に存在しない。聖とは神とキリストのご性質。聖なる愛。聖なる裁き。その聖なるご性質がキリストを信じる者に与えられる。だからクリスチャンは聖徒と呼ばれる。聖徒は神らしさを表すように造り変えられた者。神を喜ばせる生き方を可能とさせる。

キリストは私たちの贖い。贖いは償いをすること。違反を帳消しにし、不正行為に対して賠償をすること。聖書は全ての人間が罪に対する贖いを必要としていると説いている。しかし人間は自分の罪を自分で贖うことはできない。贖いがないままの人間は神と和解しておらず、神と敵対している状態。しかしキリスト贖いを受け取った者は神と和解し、神の所有とされた民として生きる特権を頂いた。

兄姉がキリスト・イエスの中にいることにより、兄姉にキリストが持っておられる良きものが与えられ続けていく。それは、植物が良い土に植えられ、水と光が注がれるならば、成長し実を実らせるようなもの。またそれは、自分の体にジャストフィットする洋服が次々と与えられ、ドレスアップさせられていくようなもの。教会は成長させて下さる主を誇る。

 

終わりに

「誇るな! 誇れ!」を見てきた。教会は神に選ばれた者たちの集まり。私たちが神に選ばれた理由は神の側にある。神が選びたいと思われたから選ばれたのだ。その神の選びに私たちが「はい」と応答した。私たちの立場や状況、才能や能力が神の選びの条件ではない。また自分に福音を伝えてくれた牧師や兄姉が特別な存在だから、自分が選ばれたのでもない。福音を伝えてくれた牧師や兄姉は神に用いられた器にすぎない。

教会は何を誇っているのか。誇りたくなるような事柄は数多く存在する。有名な牧師、教会の人数、立派な教会の建物、献金の残高、優秀な人材、特別な身分、突出した才能。世の中の価値観はそのようなものに置かれている。教会が誇るべきことは、神がイエス・キリストによって私たちを選んで下さったこと。そしてイエス・キリストの恵みによって私たちが生かされていること。このことは教会が教会であるために最も必要なことであり、教会が教会として生きていく原動力。これは教会の人数が2~3人であろうが、何千人に増えても変わらないもの。また教会の建物が6畳一間であろうが、ホールのような大教会であろうが変わらないもの。

私たちが持っている誇りは私たちの生き方で表現されていく。あなたの口の告白や態度で表していることが、あなたが誇っていることである。誇り賛美となって表されていく。心からの賛美を捧げるために、イエスを誇っていこう。

 

2020年2月18日 (火)

2020年2月16日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「教会を1つにする福音 ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント110節~25

 

初めに

コロナウィルス関連のニュースが連日報道されている。このウィルスには特効薬がない。マスクはウィルスに感染した人が他の人に移さないためには有効であるが、感染していない人がマスクをしてもあまり効果がない。予防策としてできることは手洗いぐらい。ニュースでは日を追うごとに強調されるキーワードが更新されている。このウィルスの恐ろしいところは無症状でも感染している場合があること。それは罪という病を持った人間にも同じことが言える。罪の病に侵され重病に陥っているのにも拘わらず、本人は何ごともなかったように生きていける。パウロは今朝の箇所から3章の終わりにかけて、教会分裂問題を引き起こしている罪に対する解決策を説いている。

 

  • 福音は滅びゆく者には愚か。

彼は福音を世の中の知恵や賢さと対比しながら、兄姉に勧めている。先ずパウロはキリストの十字架を伝える際に、世の中の知恵や賢さを用いなかったと言っている。(119)にはそれらは空しいと言っている。空しい理由が(121)に書かれており、フランシスコ訳には「事実、この世は神の知恵に囲まれているのに、自らの知恵によって神を知るには至りませんでした。」と書かれている。コリントに蔓延していた知恵や賢さは、天地創造の神を知ることはできない。これは皮肉な話。神の恵みに囲まれているのに、神を知ることができない状況。何故そのようなことが起こるのか。それは、人間が神を認めようとせず、神に逆らう罪を持っているから。だ。罪は色眼鏡の役目を果たす。福音を愚かなものとしてしまう。また福音ではないものを求めさせる。ユダヤ人は自分の生活を圧迫しているローマ帝国からの解放を与えるしるし(奇跡)を求め、ギリシヤ人は神の知恵ではない知恵を求めていた。パウロとシラスがギリシャ人たちが大勢住むアテネに来て、福音を伝えた時の彼らの反応が(使徒17:32)に書かれている。ある者はあざ笑い、ある者は別の時に聞くことにしようと言っている。福音は神の力であるのにも拘わらず、罪ある人間は福音を愚かなものとする。

 

  • 福音は教会を1つにする。

コリント教会に遣わされた教師たちはパウロ、アポロ、ケパ(ペテロ)である。彼らは福音を語り、教会の兄姉たちに洗礼を授けた。しかし教会の兄姉たちは福音をしっかりと受け取らずに教師たちをアイドル視していた。彼らは教師たちの名を借りてグループを作り、派閥争いをしていた。彼らは福音のパッケージである教師たちを見て、福音の中身を受け取っていなかった。そのような状況に対して、パウロはもう一度彼らに福音の本質を語り聞かせる。彼が福音を再び語る目的は、教会を1つにするためである。福音は教会を1つにする。福音の何が教会を1つにさせるのか。それはキリストの十字架である。キリストの十字架は、救にあずかる教会の兄姉たちには神の力であり。またキリストは召された者たちには国籍に関係なく与えれ、神の力と神の知恵たるキリストであると勧めている。福音(イエスの十字架)は愚という考えは神のものではなく、罪ある人間の考えである。救い主はスーパーヒーローの活躍をするのではなく、十字架で処刑され、三日後に蘇るのである。十字架の周りにいた多くの者たちはイエスを愚か者とした。十字架にかけられた犯罪人の一人もイエスを嘲った。ギリシャ人にとってイエスの十字架は愚かなこと。神はこの宣教の愚かさによって、信じる者を救うようにされた。そのためにパウロが用いられた。彼はコリントの兄姉たちに福音を神の力として与えた。

 

終わりに

教会を1つにする福音」を見てきた。1つ目の勧めは、教会は常にどんな土台の上に立つのかが試されている。罪は神からの賜物を愚かなものとし、別なものにすりかえてしまう。それは未信者に限ったことではなく、信者にも起こること。コリントの兄姉たちは福音ではなく教師たちの上に立ち、教会を分裂させていた。教会がキリスト以外のもの(罪)に立つ時に、教会に分裂が起こる。罪は教会から離れさせる。ぜひ覚えておいて頂きたい。教会を分裂させるような事が起こった時には、分裂を起こす者が罪に立っているので、そのような事が起こっているのだと。自分の罪が福音を愚かなものとし、自分を罪と堅く結びつけているのだと。自分の罪に固執していると福音を受け入れることができなくなり、教会に留まっていることができなくなる。さらに罪は教会を破壊していく。そのような罪のためにイエスが十字架にお架かりになり蘇って下さった。そのことを覚えて、悔い改めること。

2つ目の勧めは福音を伝えること。パウロは福音を伝えるために遣わされた者。この意識は福音の土台に立つ者が持つ自覚。またパウロの宣教スピリットは、神は宣教の愚かさによって信じる者を救って下さること。この世の知恵や知識にはためになるものが多くある。しかしそれは決して天地万物を創造された神を知ることができない。もしそれで神を知ることができたならば、聖書は不要なものとなる。「この世は神の知恵に囲まれているのに、自らの知恵によって神を知るには至りませんでした。」という悲劇がこの世には起こっている。その悲劇を喜びに変えるために、私たちに福音が託されている。福音は罪に対する特効薬。福音を伝えなければ、私たちの家族、地域、国は罪で滅んでしまう。薬を取りに来てくださいではなく、薬を届ける者として生きていこう。

 

2020年2月12日 (水)

2020年2月9日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「パウロの感謝」

説教テキスト:1コリント11節~9

 

初めに

コリント教会はパウロの第二回伝道旅行によって誕生した。彼はコリントで1年半以上に渡って宣教をなした。コリントでの宣教は困難を極めた。彼はユダヤ人の迫害に遭い、コリントの地を去ろうとするが、神が彼に語りかけを与えて下さり、彼の宣教は継続されていった。その後彼はその地を去り、教会はエペソから派遣されたアポロによって導かれていった。第3回の伝道旅行の際、パウロはエペソに滞在していた時に、コリントの教会が持つ様々な問題が彼のもとに知らされた。その問題に対応して彼は手紙を教会に送った。それがコリント第一の手紙。

コリントは東西・南北の交通路の交差点であり、貿易で栄えた国際商業都市。当時の人口は約60万人。多くの外国人で活気に満ち溢れた町。商業以外にも、陶器製造、真鍮細工、建築が有名。宗教はエジプト、ギリシャ、シリアの偶像で満ちていた。倫理的な点においては特に乱れが酷かった。それは「コリントの人だ」と言えば不品行の代名詞として使用されるほど。

教会の特徴は、教会が分裂していた。性の乱れがあった。賜物が豊かで集会に秩序が失われていた。信仰生活での疑問をパウロに送った。パウロを使徒ではないと侮っている者がいた。 

今朝の箇所は、問題が山積されている教会に対する挨拶。手紙の書き出しから怒りをぶちまけたくなるように思われるが、パウロは初めに感謝を捧げている。

 

  • キリストにある言葉と知識に恵まれていること。

コリント教会に感謝することがあるのか。ある。第一番目の感謝は5節。コリント教会の兄姉がキリストにあるすべての言葉とすべての知識にも恵まれていること。言葉とは福音の言葉であり、知識とは福音の知識である。「恵まれ」という動詞は受動態で書かれており、「恵ませられている」。恵ませておられる方は神である。神はコリント教会の兄姉を、キリストの全ての言葉と全ての知識で恵んでおられた。そのために用いられた器たちがパウロ、使徒たち、教師たち。人間の成長とは体が成長すると共に、言葉と知識おいて成長することが成長である。幼児は単語でしかしゃべることができないが、成長するにつれ、文章でしゃべることができようになる。自分の周りの事と自分自身を言葉で表現できることが成長の印。キリストを知らなかったコリント教会の兄姉たちは人間の言葉(価値観)と人間の知識(コリントに蔓延している知識)で育ってきた。神を知らない状態で生きてきた。しかし福音を信じたことにより、彼らは自分と周りの世界をキリストの言葉と知識で理解していった。

 

  • キリストのための証しが確かなものとされたこと。

パウロの2つ目の感謝は、教会の兄姉の中にキリストのための証しが確かなものとされたこと。「確かなものとされた」とは「堅く根を下ろした」という意味。キリストが如何なる者であり、キリストが如何なることをなされたのかということが兄姉の中に根差した。それは聖書に啓示されているキリストに同意することであり、そのキリストが自分の人生の中で生きて働いて下さることを体験していくこと。「堅く根を下ろした」キリストは兄姉の中で静かに身を潜めてはいない。彼らの中で動き出し、彼らを成長させ、彼らをエルサレムとして外に向かっていく。まさに彼らがキリストを証しするために、彼らの中に根差すのである。

 

  • キリストの再臨を待ち望んでいること。

パウロの3つ目の感謝は、兄姉がキリストの再臨を待ち望んでいること。兄姉たちはキリストの恵みの賜物を頂いて自己満足に陥っていなかった。彼らの中に住むキリストは、彼らが再臨のキリストに出会うことを待ち望むようにさせておられた。パウロの感謝はここで終わっておらず、続いている。彼は、神が兄姉を堅く支えて、再臨の日に責められるところがない者として下さることを、感謝しているのだ。パウロの感謝は教会の現在のことだけではなく、未来になされる神のお働きを感謝している。彼の感謝は単なる期待ではない。その時の教会には責められるべき事柄が存在していた。このまま彼らが再臨の主と出会うことになるならば、主に責められることになる。主に責められる再臨も存在する。パウロはそんなことになってはいけないと思い、手紙と訪問を通して神が働いて下さり、教会が責められることのない者として主の前に立つことを期待していたのだ。

 

終わりに

「パウロの感謝」を見てきた。パウロの感謝は、神の恵みと神のお働きに基づく感謝。彼の働きも神の恵みと神のお働きに基づくもの。教会の土台は神の恵みと神の御業であり、その土台の上に自分と教会の兄姉が堅く植えられた。それがパウロの感謝を生み出している。私たちの感謝はどうであるか。今朝の聖書箇所は、教会がどのような存在であり、教会がどんな土台に立っているかが問われている箇所。神の恵みと神のお働きの上に私たちが植えられていないと、自分が頑張ったこと、感謝とは呼べないものが私たちから出てくる。コリント教会は「私の土台はパウロだ、アポロだ、ケパだ、キリストだ」と言い争っていた。(1:12) 自分の感謝を顧みて欲しい。私たちの感謝は、できたことや目に見えるものに対する感謝が多いのではないか。パウロのように、神の恵みと神のお働きに基づく感謝を捧げていこう。

2020年2月 4日 (火)

2020年2月2日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「福音が拡大していくために」

説教テキスト:使徒の働き15章36節~41節

 

初めに

穴があったら入りたい。マルコは今朝の場面でそのような気持ちになったのではないか。パウロ先生と自分のいとこのバルナバが、自分の事で大バトルを繰り広げている。自分は何も言えないで、うなだれているしかない。

 

  • 福音を伝えるための計画

第二次伝道旅行はパウロがバルナバに「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」と言ったことからスタートしている。パウロは福音を伝えるための計画を立てた。その計画は神のご計画に基づくもの。神は福音が拡大していくための計画を持っておられた。その計画は(使徒1:8)である。その大きな神のご計画の中に、使徒たち、弟子たち、パウロが加えられていた。神は(使徒1:8)の御言葉が実現するために、教会に働きかけておられた。第1次伝道旅行のきっかけはアンテオケ教会の断食礼拝。礼拝の中で、聖霊が教会に語りかけた。そこで教会は二人を伝道に遣わした。第2次伝道旅行は、第1次伝道旅行で福音を受け取った人たちをアフターケア。福音を受け取ったクリスチャンがどのような問題を抱えているのかを知り、彼らを信仰的に力づけるため。いずれの伝道も出所は神であり、神が彼らを派遣している。第一次伝道旅行を行った事で、次になすべきことが明確に示されたのである。第二次伝道旅行は第一次伝道旅行の賜物である。

 

  • 福音を伝えるためのスピリット

第2次伝道旅行を計画する中で、パウロとバルナバはマルコを連れていくかどうかで激しい議論を交わしている。パウロの勧めに対して、バルナバは開口一番,マルコを連れていくと言い出した。しかしパウロは第一次伝道から戦線離脱したマルコは連れていくことはできないと主張。

自分の信念をしっかりと持っている人は、その信念に基づいて生きており、普段は穏やかに過ごしている。しかし自分の信念が曲げられるようなことに直面すると、その人は梃でも動かなくなる。しっかりとした信念を持っていなければ、相手に流され、何でも相手の言いなりになる。そのような人は他の人との衝突は起こらない。この時、パウロとバルナバはお互いの信念を曲げなかったので、お互いの間に激しい衝突が起こった。

パウロの信念は、異邦人に福音を届けることである。福音の種を蒔く働き人は困難や迫害に耐える者でなければならず、マルコはそれに相応しくない。バルナバの信念は、マルコには指導者の素質がある。彼にもう一度チャンスを与えて、自分が彼をサポートしながら、福音を異邦人に伝えていくこと。彼らの激しい議論により、お互いの主張が明らかになり、彼らはお互いのスピリットに基づいて行動することになった。パウロはエルサレム教会のベテラン指導者であるシラスと共に、第一次伝道旅行とは違ったルートを辿り、異邦人伝道をなしていった。

バルナバはマルコと共に、バルナバの生まれ故郷のキプロス島に行き、そこで第一次伝道旅行で福音の種が蒔かれた人たちをフォローすることになった。マルコにとっては、それがベストな道であった。その理由は、パウロとシラスが辿った道のりは困難と迫害が待ち受けていたからだ。マルコがその道を進んでいったならば、再度引き返すようになって、二度と指導者としての道を歩むことができなかったかもしれない。

 

  • チームで福音を伝える

神が創造の御業をなされた時に、御父、御子、聖霊が協力して行った。また神はアダムとイブにエデンの園の管理を任せられた。同様に、神は福音を広げるために、教会に福音を委ねられた。パウロ、バルナバ、マルコというチームは第1伝道旅行に結成されたメンバーではない。それ以前に出来上がっていたチーム。(12:25)には「バルナバとサウロとは、その任務を果したのち、マルコと呼ばれていたヨハネを連れて、エルサレムから帰ってきた。」と書かれている。この時の彼らの任務は、アンテオケ教会からエルサレム教会に支援物資を運んでいくもの。この3人のメンバーが第1伝道旅行を行っていた。

パウロもバルナバもお互いに激しい議論をした後であっても、彼らは一人で伝道するのではなく、パウロはシラスと共に、バルナバとマルコとペアを組んで伝道に遣わされていった。チームを組むメリットを挙げれば枚挙に暇がない。一人は福音を語ることに専念し、もう一人はサポート役になる。一人は福音を語ることに集中し、もう一人は福音を聴いている人たちの霊的な状態に目を留めて、フォローの役割を担う。福音を伝えるために共に祈り合う。喜びを分かち合う。励まし合う。

パウロとバルナバはまさにそのようなコンビであった。パウロが父親のように福音を語り、バルナバは母親のように福音を受け入れた人たちをフォローしていった。

 

終わりに

「福音が拡大していくために」を見てきた。神が教会に与えられている使命は福音を拡大させていくこと。教会が教会として存在するためには福音を証しすること。福音を拡大させるためには、話した3つのポイントが大切。3つのポイントの中で最も大切な事はスピリット。スピリットは福音を伝える原動力。このスピリットが無ければ、計画とチームが存在しても無意味。どんなに素晴らしい計画を立てても、計画を実行する人たちがやる気ゼロであったり、やる気がない人たちを集めてチームにしても、何も良いものは生まれない。福音を伝える原動力は神を礼拝する者に注がれる。神を礼拝しないことは自分が神となって生きることであり、神を礼拝するとは神からのものを頂いて生きること。神は遜る者を聖霊で満たして下さる。また神は聖霊で満たされた者を証しするために遣わし下さる。聖霊に満たされ、福音を伝える者は信念のある者となっていく。信念のある人が人をキリストに導くことができる。

次に大切な事は、福音を伝えるための計画を立てること。人は自分の頭の中にある計画を実行に移す。計画にないことは実行しない。神は既に計画と約束を与えておられる。(使徒1:8)(ピレモン1:11) 私たちが立てる計画は神の計画に基づいたもの。ぜひ福音を伝えるための計画を立てて欲しい。教会では年間計画を立てた。その年間計画に合わせた計画を一人一人が立てて欲しい。

また年間計画で福音を伝えることができない対象者もいる。その場合には個人伝道しかない。そのための計画を立てて欲しい。個人で無理ならば指導者に依頼する計画。夫婦で伝える計画。計画のないところに実行はない。チームを作るのに難しく考える必要はない。あなたが立てた計画に、信頼できる人を誘えばチームになる。チームを作るのが先ではなく、あなたにその計画があるかが大切なこと。一歩踏み出す時に、次になすべき事が示されてくるものだ。

 

 

2020年1月26日 (日)

2020年1月26日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「サマリヤ人の信仰」

説教テキスト:ルカによる福音書17章11節~19節

 

初めに

「まちぶせ」という曲がある。荒井由実が作詞・作曲し、1976年に三木聖子によってシングルが発売された。1981年には石川ひとみがカバーしてヒットした。歌詞のさびに「もうすぐ わたしきっと あなたをふりむかせる」とある。イエスは愛の御業で10人のうち1人を振り向かせて方向転換させた。

 

  • イエスに求める信仰

イエスはエルサレムに向かっていく途中に、10人のらい病人に出会った。その中にサマリヤ人がいた。サマリヤ人とアッシリヤ人とイスラエルの民の間に生まれた混血民族であり、彼らはゲリジム山で独自の異端集団を作っていった。当時のユダヤ教では、らい病人は宗教的に汚れた者であったので、彼らは隔離された場所で共同生活をしていた。彼らが一般市民の集まる場所に行く際には、自分たちの汚れが他の人たちに移らないように、「私たちは汚れた者です」と叫ぶ必要があった。そのような彼らの近くをイエスが通られた。イエスが為された奇跡の噂は彼らにも届いていた。そこで彼らはイエスから遠くの場所に立ち、大声でイエスに叫び続けた。汚れた者である自分たちからイエスに近づいていくことはできないので、イエスの方から自分たちの所に来て頂くことを求めた。彼らの病気生活の中で、誰かに対して「私たちは汚れた者です」と大声で叫ぶことは幾度もあったが、自分たちを憐れんでと大声をあげたことはなかった。聖書の中には、大声でイエスに何かを求めた人たちは数少ない。らい病人たちはなりふり構わずイエスに叫び求めたのだ。

 

  • イエスの言葉に従う信仰

彼らの切なる求めに対して、イエスは応答され、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」という命令を彼らに与えられた。らい病人が癒された時、その人は祭司の所に行き、体を検査してもらう。祭司が検査して病人が癒されたと認められた場合、8日間の清めの儀式を経て、その者は自分の家族のところに帰ることができ、社会の中で生活することが許された。祭司の所には、病が癒された時に、検査をして頂くために行くのであって、癒されない状態で行っても無意味。しかしイエスは彼らに単なる命令を与えているのであって、その命令には何の約束も付け加えられていない。「祭司の所に行けば癒される」とか「8日後に癒される」という約束はどこにもない。ところが、病人たちは何を思ったのか、イエスの命令に従い、祭司のところ向かっていった。サマリヤ人も同じ行動をとった。サマリヤ人がユダヤ教の祭司の所に行っても、祭司は彼を門前払いするに違いない。何故ならユダヤ人にとって、サマリヤ人は汚れた民であり、らい病を患っているサマリヤ人は札付きの汚れた者であったから。しかし彼はそのような壁があることを承知で、イエスのお言葉に従っていった。すると奇跡が起こった。

 

  • 神が癒して下さった信仰

・サマリヤ人がイエスのもとに帰って来た時に、イエスは「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と言っておられる。イエスは彼らに癒されたら自分のところに帰って来なさいとは命じておられないが、癒された者たちが自分のところに帰ってくることを望まれていた。イエスはその場に留まり、彼らを待っておられた。彼らはイエスの命令に従うまでは同じ行動をとっていたが、癒された後に違いが生じている。9人と1人の行動を分けたのは一体何であったのか。イエスは帰ってきたサマリヤ人に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言っておられる。サマリヤ人には信仰があったことになる。どんな信仰であったのか。それは(17:15~16)に見られる。「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」 彼の信仰は、自分が癒されたことは神によるものという認識に基づいている。彼は癒された時、前に進むのを止めて、後ろを振り返った。振り返った先にはイエスがおられた。つまり自分の癒しは神であるイエスからのものであるという確信である。だから彼は引き返して、神を賛美し、神であるイエスに感謝を捧げた。反対に、9人にはその信仰がなかった。彼らはイエスに癒されたのにも拘わらず、誰に癒されたのか、何のために癒されたのか、を悟らないまま神不在の世界に飛び出していった。イエスは彼らに「ほかの九人は、どこにいるのか」(17:17)と言っている。イエスは彼らがいる場所を知りたかったのではない。自分との関係が希薄であることを嘆いておられる。9人には霊的な変化が起こりそうであったが、何も起こらなかった。しかしサマリヤ人にはイエスによる大きな奇跡が起こり、その御業に対する賛美と感謝を捧げる人生がスタートしたのだ。

 

終わりに

「サマリヤ人の信仰」について見てきた。今朝の御言葉から勧めをしたい。1つ目は、何のために、イエスに祈り求め、イエスのお言葉に従うのか。何のために。もし私たちが自分の問題解決のためだけに、それらを為していくならば、私たちは9人と同じ行動を取る様になる。神を己のために利用し、神を忘れるようになる。神の御名が崇められるために、私たちは神に祈り求め、神に従うべき。神の御名が崇められることが、私たちにとって最大の喜びである。

2つ目は、神が癒して下さった信仰に立つこと。神の癒しはイエスを通して私たちに与えられる。神の癒しは、神と私たちを親しい関係に造り変える。イエスのところに私たちが帰るためには、自分はイエスによって癒された確信を持つ必要がある。自分のために前に進むのを止め、イエス(イエスのお言葉)の方向を向くのである。神に感謝を捧げることは、皆と同じように振舞っていれば、自然にそうなるのではない。聖霊の助けを受けて、あなたが自分の意志でイエスの方を振り返る時、それは大きな喜びの中で起こる。

2020年1月22日 (水)

2020年1月19日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「壁を破るイエスのあわれみ」

説教テキスト:ルカによる福音書1025節~37

 

初めに

良きサマリヤ人の話は多くの画家によって描かれており、ゴッホとドラクロワも描いている。画家によって絵に違いが生じるのは、絵に自分の解釈が入るから。実際に、絵の下にはサイトの管理者の解釈付きのコメントがあった。‘’良きサマリヤ人の話は「種族や地位なんて関係ない。人を無条件で助けた者が天国へ行けるのだ」と教えている‘’というものでした。この解釈はキリスト教を知らない人に限らずクリスチャンにもすんなり受け入れられる解釈となっているのではないか。ある律法学者がイエスを試そうと質問し、両者の会話が積み重ねられていく。前半は律法学者のペースであるが、後半はイエスのペースで話がなされている。律法学者はイエスを試そうとして話しかけていくが、反対に彼はイエスから試されてしまう結果になった。話の初めは「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」という質問から始まり、終わりは「あなたも行って同じようにしなさい」で終わっている。イエスは一体何の目的で律法学者の話に付き合われ、彼に何を伝えたかったのか。

 

  • 自己中心の壁

律法学者は自分イエスの聖書理解と行いには違いがあることを知っていたので、敢えてイエスに質問している。それはイエスより自分が正しいことを示すためである。それは2つの聖書化箇所が示している。「イエスを試みようとして」(1025)「すると彼は自分の立場を弁護しよう(正当化)と思って」(10:29) 彼は永遠の命を手に入れるためには、律法の黄金律である神と人を愛することを行えばよいと思い、それを行っていた。しかしイエスは彼の聖書理解と行いが間違っていることを気づかせるために、1つの譬え話を話された。それは律法学者の「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」という問いに応えた譬え話の中に表されている。エルサレムからエリコに行き、強盗に半殺しの目に遭った者はユダヤ人。当時エリコには祭司階級の人達が多く住んでいた。譬え話の中に登場する祭司とレビ人はユダヤ人である。祭司は神殿で直接奉仕する人であり、レビ人は祭司をサポートする人たちであった。彼らは同族の者が倒れているのにも関わらず、その者を見て見ぬふりをして通り過ぎた。イエスは譬え話の中で、当時の祭司とレビ人たちの姿をここに描いている。神殿奉仕はするが、神と人への愛をなおざりにしている彼らの姿を描いている。譬え話の中の祭司とレビ人の姿は、当時の人が聞いたならばある程度説得力を持った人物描写であったはず。イエスから言わせると、祭司とレビ人は半殺しの目に遭った人の隣人にならず、隣人を愛さないで生きている代表者であった。何故、祭司とレビ人は同胞の民を介抱しなかったのか。考えられる理由は、そのような者に関わって犠牲を払いたくない思いがあった。自己中心の思いは、私たちと神の命令の間に壁を作る。そして、私たちが神を愛する命令と人を愛する命令を行えなくしてしまう。

 

  • 敵対している民族の壁

しかし3人目の者が半殺しに遭った者の側を通りかかった。それはサマリヤ人。当時、サマリヤ人とユダヤ人は宗教的な違いでお互いに付き合いをしなかった。特にユダヤ人はサマリヤ人を犯罪者のような罪人として見ていた。お互いは隣人とはなり得ない者たち。お互いは愛の対象ではなく憎しみの対象。ユダヤ人とサマリヤ人には民族の壁があり、お互いはその壁を乗り越えることはできなかった。

ルカ福音の中でのサマリヤ人の記事は3つ書かれている。1つは(ルカ95253)「ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入り、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。」イエスはサマリヤを通ってエルサレムに向かおうとされたが、サマリヤの人は受け入れなかったというのだ。この出来事を体験したならば、サマリヤ人を良い模範として用いることはしない。2つめは、(ルカ1711~)の記事。10人のらい病人がイエスに癒しを求めた。イエスはその10人全員を癒された。しかしイエスに感謝するために戻ってきた者はたった一人であり、それはサマリヤ人であった。この記事では、イエスはサマリヤ人の信仰が称賛している。そして3つ目の記事が今朝の記事である。2つの記事において、サマリヤ人がイエスに近づいたのではない。イエスがサマリヤ人たちに近づいていかれたので、彼らがイエスに近寄ってきた。イエスはユダヤ人が超えることができない民族の壁を越えて、サマリヤ人に近づいていかれた。

3つ目の記事では、サマリヤ人が半殺しに遭ったユダヤ人に近づき、愛の手を差し伸べている。サマリヤ人がユダヤ人に愛の手を差し伸べた動機は、「彼を見て気の毒に思った」(新改訳:かわいそうに)(10:33)から。「気の毒に思った」という言葉は、聖書でイエスのみに使われている言葉であり、神の深い憐れみを現わしている。つまりこのサマリヤ人はイエスご自身の。「気の毒に思った」その思いが、隣人を愛する行動へと駆り立てている。傷ついた人を介抱し、宿屋に導き、宿屋の主人に任せて、癒され自立できるまで費用を肩代わりする。サマリヤ人は律法学者が超えることができない壁を越えて隣人を愛した。それはサマリヤ人(イエス・キリスト)には民族の壁が無く、傷つき倒れている者に対する深い憐れみだけがあるから。

 

終わりに

「壁を破るイエスのあわれみ」について見てきた。イエスは最後に律法学者に「あなたも行って同じようにしなさい」。と言われている。その後、この律法学者はイエスの譬え話と命令をどのように受け取ったのだろうか。彼は、永遠の命を得るためには、神と隣人を愛するという神学を持っていた。イエスもそれに同意されている。しかしイエスは譬え話の中で、律法学者が持っている壁を越えて隣人を愛する模範を示し、彼に命令をされた。イエスが言われていることが隣人を愛することであるならば、彼はそれを行うことはできない。できないとなると、永遠の命を受ける資格を失ってしまう。イエスは人助けをして欲しいので、この譬え話をされているのではない。イエスは律法学者に自分の壁(罪)に気づかせるために、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた。「そんなことはあなたにはできないでしょう。」「隣人を愛する原動力はあなたにはないですよ。」「しかしサマリヤ人である私(イエス)は隣人愛を持っている。」そのことに気づいて欲しかった私たちは自分の壁を破って神と隣人を愛するためには、イエスから憐れみを頂くしかない。譬え話の中の登場人物の誰に自分を重ね合わせて生きるのか。祭司やレビ人のように自分の壁に閉じこもって今まで通りに生きるという道もある。しかし半殺しな目に遭ってサマリヤ人から憐れみを受けるという道があるのだ。イエスは人々のことを「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」(マタイ936)と見ておられた。イエスから憐れみを受けるとは、イエスの言葉を聴いて受け取り続けていくこと。

パウロはイエスから『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』というケアを受けていたので、オネシモをピレモンに推薦するに際に、「1:18もし、彼があなたに何か不都合なことをしたか、あるいは、何か負債があれば、それをわたしの借りにしておいてほしい。 1:19このパウロが手ずからしるす、わたしがそれを返済する。」(ピレモン118)という隣人愛に生きることができたのだ。

オネシモミッションは自分がイエスにケアされるミッション。またオネシモミッションは、自分がイエスにケアされたことを受けて、隣人を愛するミッション。そしてその隣人が神の働きのために遣わされていくミッション。あなたにとってのオネシモは誰か。

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