毎週の礼拝説教

2020年7月 1日 (水)

2020年6月28(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「知識と愛 ~偶像に捧げられた供え物問題~」

説教テキスト:1コリント81節〜13

 

初めに

トランプ大統領のかつての側近であったボルトン前大統領補佐官が大統領を暴露する本を出した。本には驚くべき内容が書かれていると言われている。トランプ大統領といえば問題発言が多いことで有名である。欧州中央銀行(ECB)のプラート専務理事は、「われわれが新大統領から受け取っているシグナルは、複雑な背景がある物事をあまりに単純化した発言であり、気掛かりだ」と語っている。複雑な問題を単純化して過激な発言をすると民衆に対してインパクトは強くなるが、物事は解決されない場合がある。コリント教会は偶像に供えた食べ物の問題を抱えており、教会は単純な答えを出してそれに生きていた。「知識と愛 ~偶像に捧げられた供え物問題~」について今朝はみていく。

 

  • 偶像に捧げられた供え物に関して教会が持っていた知識

偶像に捧げられた食べ物の問題は、コリント教会のみならず初代教会には大きな問題であった。コリント社会においては異教の宗教的祭儀と日常生活は結びついていた。何故動物の肉を異教の神々に捧げるのか。それはギリシャ文化の中では悪霊が人間の中に入ると信じていた。そうならないためにギリシャの良い神々に肉を捧げて、それを食べるならば、悪霊が入ってくることを防ぐことができると考えられていた。ギリシャ文化の中では、偶像に捧げた肉を食べることは習慣となっていた。家で宴会を開き、親しい人たちをもてなすために、家の主人は動物を異教の祭司の所に持っていき、その肉を料理して人々をもてなした。また肉を異教の神々に捧げることは国家でも行われており、余った肉は役人が市場で売ったりしていた。だからコリント社会では偶像に捧げた肉を食べることは日常茶飯事の事であった。

そこでコリント教会の者たちは偶像に捧げた肉に関してパウロに質問を送った。教会からの手紙には(8:1)の「わたしたちはみな知識を持っている」という事が書かれていた。その知識とは、偶像の神々は存在しないのだから、神々に捧げられた肉を食べても問題ないというもの。彼らの知識には確信が伴っており、彼らはアクロコリントスにあるアフロディーテ女神の神殿で食事をしていたのである。しかしその結果、教会の信仰の弱いメンバーたちが彼らの姿を見てしまい、彼らの行いに流されてしまうものたちがいた。偶像に捧げた肉の問題はコリント10章で明らかにさるのだが、偶像に捧げた肉は悪霊に捧げられたものである。その肉を食べることは悪霊と交わる事であり、キリストに罪を犯すことであった。コリント教会の知識は自分も他の信仰者も生かさないものであった。

 

  • 偶像に捧げられた供え物に関して教会が持つべき知識と愛

パウロは知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を高めるものであると言っている。コリント教会の知識は人を愛し高めるものではないと言っている。パウロは教会が持つべき知識と愛を教えている。教会がもつべき知識と愛とはパウロが持っているものであり、コリント教会が持っているものとは対極をなしている。パウロはコリント教会が持っている知識を完全否定してはいない。偶像の神々は存在しないことを認めている。しかし彼がフォーカスしているのは偶像の神々ではなく、父なる唯一の神と主イエス・キリストである。教会にとって神と主イエス・キリストは唯一であり、万物はこのお方により、教会の存在はこのお方によるものである。パウロの知識は、教会とこの世のものは父なる唯一の神と主イエス・キリストによるものであることである。教会が持つべき知識は、父なる神と主イエス・キリストによるものでなければいけない。パウロは神の知識と愛によって教会を諭していく。まず食べ物は人間を神への信仰に導くものではない。だからと言って何を食べてもよいということにはならない。偶像に捧げた肉であることが明白な場合、その肉を食べてはいけない。それは自分が神の命令を守るためであり、信仰の弱い人に罪を犯さないためである。パウロは自分が教会に教えたことを自ら実践し、教会に模範を示している。パウロが伝道していた地域は全て殆どギリシャ文化の影響を受けていた地域である。自分が肉を食べることで、教会が偶像に捧げた肉を食べてもいいと判断されることがないように、今後決して肉を食べないと告白している。

 

終わりに

「知識と愛 ~偶像に捧げられた供え物問題~」について見てきた。クリスチャンの生き方とは自分の信仰を確立させるだけではなく、自分の生き方が教会の兄姉に良い影響を及ぼすことをも確立させていく必要がある。つまり主観的な自分の信仰と、自分の生き方が教会に良い影響を与えていくという客観的な信仰が必要である。主観的だけではなく客観的に信仰生活をしていくために私たちは教会に組み合わされている。客観的な信仰に生きるためには、教会全体を見渡す視野と愛の行いが必要になってくる。

コリント教会は偶像に関する個人的な信仰は持っていた。しかし自分の信仰が教会の弱い人たちに罪を犯させることになるという事にまで目がいかなかった。コリント教会は自分だけの信仰に生きており、教会全体を見渡すことができなかった。彼らの信仰は偶像に捧げた肉だけの問題に留まらずに、教会の集会にも悪い影響を与えていた。そこでパウロは肉を食べない勧めと行動によって教会に模範を示した。自分一人だけの信仰に生きていたら肉を食べても何の問題もない。しかしパウロは教会を躓かせないために、肉を食べない事に決めた。それは教会を愛する愛から出たものであった。

愛とは一体何であるのか。愛とは意志。教会を愛するために、自分が行う必要のないことを行う意思のこと。行う必要のない事を行うためには自分を捨て、自分を犠牲にする必要がある。今までの通りに生きていくことは簡単である。しかし今まで通りに生きていたら、教会に問題が生じた時に私たちは教会を愛することができない。ここだという時に、自分を捨て、自分が行う必要のないことを捧げて欲しい。

 

 

2020年6月22日 (月)

2020年6月21日(日)主日礼拝説教概要

2020621日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「ひたすら主の側で仕える心配り」

説教テキスト:1コリント725節〜40

 

初めに

パウロは主の霊を受けている者として、独身女性と男性の結婚についてコリント教会にアドバイスを与えている。彼らは何らかの問題を起こしている訳ではない。パウロは彼らが信仰者としてどのように生きていけばよいのかを教えている。パウロのアドバイスは彼らの心配りと主の再臨を踏まえたアドバイスとなっている。

 

  • 独身者の心配り

パウロは独身で主に仕えることコリント教会に勧めている。「未婚の男子は主のことに心をくばって、どうかして主を喜ばせようとする」「未婚の婦人とおとめとは、主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとする」とパウロは言っている。彼が独身を勧める理由がある。1つ目の理由は、結婚は苦難を招くから。結婚の苦難とは(732)の結婚のために思い煩うことである。思い煩いとは家族の事で思い煩うから。家族の事で思い煩う分、家族の体力と精神力はそこにつぎ込まれることになる。2つ目の理由は、時が縮まっているから。時が縮まっているとは主の再臨が近いことであり、信者は再臨に向かって生きているから。この世の生活がゴールであるかのような生き方をすべきではない。3つ目の理由は、結婚している者より独身者の方が主に心を配ることができるから。夫婦の生活の縛りが無い分、主にひたすら仕えることができる。

 

  • 結婚者の心配り

次に結婚した者たちの心配りを見ていく。結婚している者に関してパウロは言っている。「結婚している男子はこの世のことに心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとし」(7:33) 「結婚した婦人はこの世のことに心をくばって、どうかして夫を喜ばせようとする。」 パウロは結婚を禁じてはいない。しかし結婚することにより、夫婦の心はお互いのパートナーに向くと言っている。では夫婦の心は主に向かないのかというと、そうではない。(7:35)でパウロは「正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。」(口語訳)と言っている。独身や夫婦に関わらず、信仰者は心を主に向けて生きる事が可能であり、そのように生きることが信仰者の使命である。共同訳では「品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」と訳されている。パウロがコリント教会に伝えたいことはどのようなことであったのだろうか。原語をそのまま訳すと「品位のある生活をし、ひたすら主の側で仕える」という訳せる。パウロのこの勧めは、夫婦のお互いに対する心配りと独身者の主に対する心配りの中で勧められている。「どうかして主を喜ばせようとする」 「心をくばって、どうかして妻を喜ばせようとして」「主のことに心をくばって、身も魂もきよくなろうとする」「どうかして夫を喜ばせようとする。」という言葉が示して通りに、愛する者への心と態度を表している。「正しい生活を送って、余念なく主に奉仕させたいからである。」とは、信仰者が教会の奉仕活動に汗水たらして働くことを表現しているものではなく、信仰者が主の側にいて、どうにかして主に喜ばれようとする心配りと態度を表すもの。

 

終わり

信仰者は独身で生きるか、結婚するかを決めることができる。いずれにしても信仰者は「品位のある生活をし、ひたすら主の側で仕える」信仰を持つべきである。独身者は独身者の特権を生かして主の側で仕え、結婚している者は二人が一体となって主の側で仕えていく。夫婦で主に仕えていく場合、独身の場合よりも、お互いが1つとなるための努力が求められてくる。

主に仕えていくことは教会の奉仕をすることも含んでいるが、それだけではない。私たちの生活のことを指している。いつも主の側で仕えるように生きていくこと。ひたすら主の側で仕えるとは、主の喜ばれないことは行わないということではない。神様に怒られないために生きるのではない。ひたすら主に仕えていくとは、主に喜ばれることは何であるのかを自ら求め、どうにかして主の喜ばれることをなしていくこと。

パウロは独身者として主に仕えていった。また彼の同労者でアクラとプリスキラは夫婦で主に仕えていった。独身者でも結婚していても主の側にいて仕えることはできる。彼らにとって主に仕えるとは、福音を伝えることであった。アクラとプリスキラ夫婦はパウロが福音を語るために自分たちの家を解放し、パウロの旅行に同行した。またアクラとプリスキラ夫婦はコリント教会の建て上げて携わったアポロに神の道を詳しく教えた。「ひたすら主の側で仕える」ことはあなたから始まって、広がっていくもの。「ひたすら主の側で仕える」者同士はチームで働いていくようになり、世界を変えていく。

ひたすら主に仕える人と結婚したいならば、先ず自分がそのような人になることだ。主は自分の霊性と同じような人と出会わせて下さるし、私たちは自分と同じ人を選ぶのである。

2020年6月14日 (日)

2020年6月14日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「神に召されたままの状態で歩め」

説教テキスト:1コリント78節〜24

 

初めに

神学校時代の同級生にパソコンを愛していた人がいた。同級性たちはパソコントラブルが起こった時に、その人によく相談していた。ところがある日、ある人からのパソコントラブルの相談を受けて、その人のパソコンの中身を確認したところ、OS付属のソフトを次々に削除してしまい、OSが起動しなくなってしまったとのこと。

クリスチャン生活においても、捨てるべきものと捨ててはいけないものがある。捨てるべきものを握りしめていたり、捨ててはいけないものを捨ててしまうと、信仰者として生きることができなくなる。

コリント文化の中で育ったコリント教会の信者たちは、イエスを信じて新しい歩みを始めた。新しい歩みを始めるに当たって、今までの生活を捨てる者や、今まで違った状態や身分にならなければいけないと考える者たちがいた。そこでパウロが彼らに、神に召されたままの状態で歩むようにアドバイスを与えている。神に召されたとは神が呼ばれたという意味であり、コリントの教会の信者がイエスを信じた時の事を指している。

 

  • 神に召された時の結婚に関して

(未婚者たちとやもめたち)(789

未婚者の男性と伴侶に生き別れた女性のやもめたちに対して、パウロは独身でいることを勧めている。パウロは結婚を禁じている訳ではない。もし彼らが独身を貫く自制心がないならば、つまり異性に対する情愛を燃やしている状態ならば、過ちを犯すことになりかねない。そのようなことにならないように、神が定めた結婚という秩序の中に入った方がよいと勧めている。

 

(結婚している者たち)(71011

信仰を持っている夫婦の場合、離婚は禁じられている。これは主の命令である。しかし離婚した場合には、離婚したままでいるか、それとも和解するかのどちらかである。(7:10)では、特に妻が夫と離婚してはいけないと命令されている。何故パウロは妻にそのような命令をしているのか。それは妻が夫に対して離婚を切り出すような状況が起こっていたから。ギリシャ文化の中では性は無秩序になるか禁欲になるかのどちらかである。イエスを信じた婦人が信仰や奉仕に熱心になるあまり、禁欲的になり夫婦生活を捨てることがあったのかもしれない。また当時のコリントでは婦人解放運動が行われていたので、婦人側からの夫に対して離婚要求が行われていたのかもしれない。

 

(未信者の伴侶がいる夫婦)(71317

夫婦の一方が信者であり、他方が未信者である場合。これは主の命令ではなくパウロの命令となっている。主ではなくパウロの命令だから聞かなくても良いものではない。パウロは主イエスから遣わされた使徒としての権威を持って勧めをなしている。信者同士の結婚の場合と同様に、離婚は勧められていない。信者と未信者が夫婦でいることにより、未信者の伴侶と子どもがきよめられると言っている。このきよめられるとは信者の良い影響を受ける程度の意味であり、救われるという意味ではない(716)で、信者が未信者の伴侶を救うことができるかどうか分からないと言われているからだ。反対に、未信者の方が離婚したい場合には、信者は離婚に同意することが勧められている。その理由は、神は信者に平和を得させるでありから。夫婦が離婚について争っている家庭の中で、信者が信仰生活をしていくことは困難である。また信者は未信者を信仰に導くことができるどうか分からない。そのような場合は離婚が勧められている。

 

  • 神に召された時の状態と身分について(71824

・神に召された時の状態とは割礼を受けている状態であり、身分とは奴隷のことを指している。神に召された時に(イエスを信じた時に)、かつてのユダヤ教徒が割礼を受けている場合は、その跡を消す必要はない。また割礼を受けていない場合には受ける必要はない。割礼問題は初代教会では大きな問題となった出来事。ユダヤ人クリスチャンが旧約聖書の教えに従い割礼を受けなければ救われないと主張していた。また彼らは異邦人クリスチャンにも割礼を強要しており、教会に混乱が生じていた。エルサレム会議では救われるためには割礼は不必要なものであることが決定した。しかし罪ある人間はやらなくても良いことに手を出してしまう性質がある。割礼を受けた者は割礼が不必要であることを知って、その跡を消した者もいたかもしれない。また周りのユダヤ人たちが割礼を受けているのを目にして、自分も割礼を受けなければ不安になり、割礼を受けた者がいたかもしれない。また神に召された時に(イエスを信じた時に)、奴隷であった者は奴隷のままでいるべきだとパウロは言っている。また奴隷は自由の身分になれる場合にはそうしてもよいとも言っている。コリントは商業都市であり、人口の三分の二は奴隷であり、ほとんどが貧しい人たち。富裕層はごくわずか。クリスチャンであろうとなかろうと、貧しく虐げられた者は置かれた環境から抜け出したいと思うもの。クリスチャンの奴隷の中にもそのように願って行動を起こす者もいたはずだ。オネシモがそうであった。

 

終わりに

パウロは教会で起こっている問題に対して細かくアドバイスをしつつ、最終的には「神に召されたままの状態で歩め」と命令している。そしてその目的は(719)の「ただ神の戒めを守ること」である。さらに付け加えるならば(722~23)のに「また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。」と書かれているので、キリストの奴隷として神の戒めを守ること。クリスチャンが最優先していくべき事は、キリストの奴隷として神の戒めを守ること。このことを基準にして私たちは全てのことを考えていくべき。それは自分の生活よりも優先されること。聖書では、神の言葉と神の律法を捨てた民は、自分の生活を失っている。アダムとイブの失楽園。バビロン捕囚されたイスラエルの民。ローマに支配されたエルサレムとユダヤ。私たちがキリストの奴隷として神の戒めを守らなければ、私たちの生活は惨めなものになり、生活そのものは失われたものになる。

 

1つ目の勧め。結婚は結婚生活が目的ではない。それは手段である。結婚の目的は夫婦がキリストの奴隷となって神の戒めを守ることである。結婚を願う者は、先ず自分がそのために生きているかどうかが問われる。さらには相手がそのような者であるのかが問われる。自分にそれが無い場合または相手にそれが無い場合には、結婚は諦めた方が良い。

アブラハムは息子イサクの結婚相手を選ぶ時に、僕に言いつけたことは、カナン人(神を信じない民から)の中から選んではいけないこと。アブラハムの故郷に行き、同じ神を信じる者の中から相手を選ぶこと。さらにその女性を約束の地に連れてくることである。アブラハムは自分に与えられた約束を成就させるために、息子夫婦が神の約束の上に立たせているのだ。

結婚の目的は結婚生活ではなく神の言葉に従うことなので、結婚する者が優先するべきことは神の言葉(約束)である。神の言葉を受け取るカップルの生活を通して、神の言葉が表されていく。夫婦生活には初めから終わりまで神の言葉が流れていることだ。

 

2つ目の勧め。今の私たちは割礼問題や奴隷問題は抱えてはいない。それに似た問題として教会を辞めたい、教会を変えたい問題がある。引っ越しや転勤以外でそのようなことを行う人の多くは自分自身と家庭に問題を抱えている場合が多い。またその問題を突き詰めていくと、その人が抱える罪の問題であることが多い。その人が「キリストの奴隷として神の戒めを守る」気持がなければ、教会を辞めても、教会を変えても何も変わらない。逆に問題がさらにこじれてしまい、神様の前に出ることができなくなる。教会を辞めたい、教会を変えたい問題が自分に起こった時には、自分の罪が取り扱われ、神の恵みを体験する時。私たちの問題は、私たちがキリストの奴隷として神の戒めを守る中で解決してくもの。それは神があなたにプレゼントして下さったこの教会でなすべきこと。

 

2020年5月31日 (日)

2020年5月31日(日)ペンテコステ礼拝説教概要

タイトル:「イエス・キリストとあなた」

説教テキスト:使徒行伝2章1節~41節

 

初めに

使徒行伝2章はこの地上に教会が初めて誕生した記事。教会は神の約束によって誕生した。人間が全く関与しなかったといと、そうではない。教会が生み出されるために用いられたのは、イエスの弟子たち。彼らは教会が生み出されるために相応しい人物であったのかというと、そうとも言えない。彼らは、イエスが処刑される時に、師を見捨てて逃げたからだ。その後彼らはイエスの二の舞になって処刑されることを恐れて、引きこもり状態に陥った。しかしイエスは蘇り、彼らに現れて下さった。その後イエスは天に帰られる際に、彼らに「約束のものを送るので、エルサレムを離れないで待っているように。」という約束を与えられた。約束のもの何であるのか、それが与えられるとどうなるのか、いつ与えられるのかということは彼らに知らされていなかった。しかし弟子たちは、イエスが殺されたエルサレムから離れずに、祈りながら神からの約束を待ち望んでいた。神の約束とはイエスの霊(聖霊)が与えられることであった。与えられた証拠として、彼らは「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」である。その様子を周りで見ていた外国人たちは驚き怪しんだ。何故ならイエスの弟子であるガリラヤ人たちが自分たちの生まれ故郷の言葉で、イエスについて語っていることを聞いたからだ。そこでペテロは彼らにイエス・キリストを伝えている。彼は話を聞いている人たちにイエス・キリストとの個人的な関係を結ばせようとしている。

 

  • イエス・キリストはあなたに殺された。

ペテロは、神から使わされたイエスと、人がイエスどのように扱ったということを語っている。神から遣わされたイエスは人々の中で数々の力ある業、奇跡、しるしを行った。またイエスは旧約聖書に書かれている通りに、人間の不幸の元凶である罪の問題を解決するために、十字架で殺された。イエスがなされた全ての事は人間にとって良きものであった。そのイエスを人間はどう扱ったのか。人間は自分の生活の中からイエスを締め出し、イエスを殺すことに同意し、実際に殺した。イエスが処刑されるに当たり、処刑に関わった人たちは限られていた。ぺテロの説教を聞いていた人たちは、イエスの処刑に立ち会った訳ではなかった。しかし彼は自分の説教を聞いている人たちに対して、「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。」(2:23)「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」(2:36)と言っている。ペテロは何を言っているのか。彼は人間の神に対する態度を言っている。旧約時代からイエスの時代に至るまで、神はイスラエルの民に預言者を送り続けてきた。しかし人間は神が遣わした預言者たちを拒否し続けてきた。そして最後に神は神の一人子であるイエスを人間に遣わした。そのイエスをも人間は処刑した。神が人間を処刑するという話は分かるが、イエスの十字架は人間が神を処刑したことを全世界に公然と示したものである。イエスを殺す事に関わった者は全人類一人一人なのだというのが、ペテロのメッセージである。

 

  • イエス・キリストはあなたの心を突き刺す

ペテロの説教を聞いていた人たちは、五旬祭でエルサレムに礼拝に来ていた人たちである。ユダヤ人もいたが、ユダヤ人以外の者もいた。彼らは少なくとも旧約聖書を知っていた人たち。イエスは旧約聖書に書かれている預言を成就するために来られたお方である。ペテロは彼らが知っている旧約聖書の言葉からイエスのことを解き明かしていった。彼の説教を聞いていた人たちの反応は、恵まれた話を聞いた、おもしろかった、分かったという類のものではなかった。彼らは自分たちの心を突き刺され、説教しているペテロに「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねた。何故彼らはそのような反応をしたのか。それは神の言葉がそのように導いたからである。ペテロの説教は聖書に基づくもの。神の言葉には聖霊のお働きが必ず伴う。神の言葉と聖霊は人間に罪を認めさせる。ペテロの説教を聞いた者は、自分たちがイエスを殺した者であることを認めたのである。また神のお働きはそれだけで終わらない。イエスを殺した罪が赦されるために、今の状態ではいけないという思いを与えて下さる。それが「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」ということである。先週も説教の中で語ったことであるが、何かを人に尋ねるとは、自分が自分以外の他のものを取り入れる表れ。ペテロの説教を聞いていた人たちの質問は、神に対する餓え渇きの表れ。

 

  • イエス・キリストはあなたに与えたいものがある。

ペテロは彼らの餓え渇きに答えを与える。彼が人々に与えたものは2つの事。悔い改めること、バプテスマを受けること。これは命令で書かれているので、神の言葉を受け取る者は「しなければいけないことになる。」悔い改めることはごめんなさいだけではない。悔い改めとは方向転換。今まで向かっていた先をイエスの方に向けること。イエスを拒否し、イエスを殺す生き方ではなく、神が自分のために立て下さったイエスを自分の主(主人)として迎えていくこと。そのような決断を神に捧げる者はバプテスマを受けることができる。バプテスマは洗礼を受けること。この2つはセットで行うべきことである。人殺しが赦される法律はこの世に存在しない。ましてや神殺しである私たちが赦されるはずはない。しかし悔い改めとバプテスマを受ける者には神の恵みが注がれる。イエスを拒否し、イエスを殺す生き方をしてきた罪は赦される。全人類はイエスを殺した罪の重荷を背負って生きている。その罪が赦される。何故赦されるのか。それは私たちが悔い改めるからではない。それは方法であり解決ではない。解決はイエスが私たちの罪のために処刑されたから。私たちの罪の代価はイエスの死だから。さらに、2つの命令を守る者に対して、聖霊の賜物が注がれる。聖霊は私たちの内側に住み、イエスを殺すような者を、イエスを愛する者へと変えて下さる。また聖霊は神の恵みがどれほど偉大なものであるのかを、私たちの生涯に渡って知らせて下さり、私たちが礼拝者として造り変える。

 

終わりに

「イエス・キリストとあなた」について見てきた。私たちが聖霊に満たされるためには、イエス・キリストとあなたが(私が)個人的な関係を持つ必要がある。個人的関係とは、あなたは神を拒み、イエスを殺した者であるのかを認めること。またあなたは自分が犯した罪の重大さに気がつき、神に向かって餓え乾いて求める必要がある。あなたが犯した罪をあなたは背負い切ることはできない。もし背負って生きていくならば罪に滅ぼされてしまう。罪はあなたの人間関係と神関係を滅茶滅茶にし、私たちの人格を破壊する。またあなたが神の恵みを頂くために、悔い改めてバプテスマを受けること。イエスと個人的な関係を持つ者だけがイエスを体験的に知る。個人的にイエスを知るとは、周りの人間関係よりイエスのお言葉を第一にすることである。周りの人たちは自分の都合で生きている。イエスが私たちのことを最も心配して下さっておられるのだ。

聖霊に満たされたペテロから出てきたことは、聖書に啓示されているイエスであり、自分が体験したイエスである。彼の説教はイエスが語っておられるかのような説教。それは彼が聖霊に満たされたからだ。何のために聖霊に満たされることを求めるのか。それはイエスを証しするため。それは伝道の方法論にまさるもの。聖霊に満たされるとは私たち生き方を根本的に変える。イエスを証しして生きたいと願う者を神は聖霊で満たして下さる。

 

2020年5月23日 (土)

2020年5月24日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「結婚と独身 ~性の問題~」

説教テキスト:1コリント71節~7

 

初めに

「男女七歳にして席を同じうせず」とは儒教の教え。この教えは日本の社会に浸透してきた教えであり、男子校や女子校はその影響を受けたもの。意味は、7歳にもなれば男子と女子の性の区別を明らかにし、みだりに交際してはならないということ。つまり男女のみだらな性の関係を戒める言葉。この言葉は誤解されやすい。「席」とは椅子ではなくござのことを表している。ござは床に敷いて4人ほどで座るためのものだが、ござは布団としても用いられた。つまり、「男女七歳にして席を同じうせず」は、同じ布団で寝てはならないと戒めている。国や地域によって性に関する意識は違っている。コリントの地域の性はかなり乱れていた。その証拠に、「コリントのような」という言い回しは淫乱を意味することで用いられていた。今朝の聖書箇所の7章~15章までは、教会からの質問にパウロが答えを与えている。教会は「結婚と独身 ~性の問題~」について彼に質問を投げかけた。彼の答えから教会の質問は以下のようなものであったと予想がつく。

 

  • 男子は性を自由に用いて良いのか。

コリントで生まれ育った人たちはギリシャ思想の影響を受けていた。ギリシャ思想では精神が重んじられ、肉体は軽んじられていた。その考えから、肉体に関する2つの極端な考えが生まれた。肉体は無意味なので、どう扱おうとかまわない。その考えで自分の性で用いた時には、性は不品行や淫乱なものとして扱われた。反対に、肉体は悪なので、肉体が持つ本能と欲望を完全に否定しなければいけない。この考えで性を用いると、性は禁欲的に扱われたものとなった。ギリシャの思想の中で育ったコリント教会の信者たちは、イエス・キリストを受け入れた後に、自分たちが持っている性の考え方に関してパウロに質問を送った。それは彼らが自分たちの性に関して何らかの違和感を抱いたからだ。質問をすることはその人が自分の殻を破るシグナル。彼らがパウロに質問をしたことにより、彼らは神が与えた肉体(性)に関する正しい知識を受け取ることができた。コリント教会はパウロに「男性は女性と自由に性関係も持って良いのではないか」という類の質問をした。何故なら彼らは「体は性のため、性は体のため」という考えで生きてきたからだ。それに対してパウロは「男子は婦人にふれないがよい。」と答えている。この彼の答えの背後には、自分の性を不品行や淫乱で用いることは、キリストのものとなったあなた方に相応しくないというもの。また、神は人が不品行や淫乱に陥らないために、結婚という秩序を与えており、その秩序の中で自分の性を用いなさい。それがパウロの答え。

 

  • 夫婦は性関係を持つべきではない。

コリント教会の次なる質問は、「夫婦は性関係を持ってはいけないではないか」というもの。この質問はコリント教会の禁欲主義者からもの。ギリシャ思想の影響を受けた信者は夫婦であったとしても禁欲生活をしなければいけないと考えていた。その質問に対して、パウロは夫婦の性の義務と権利に言及しながら回答を与えている。(735)に書かれている事柄は夫婦の性関係の事を言っている。(7:3)に書かれている「その分」と訳されている言葉は「義務」という言語であり、義務とは正しい務めという意味。夫婦は互いに神から与えられた正しい性の務めを果たべきである。「果たすべきである」と訳されているが、命令で書かれているので、「果たせ」と訳せる。(74)の「自由にすること」は「自由にする権利」という意味である。夫婦が性関係を持つ権利は自分ではなく、相手が持っている。しかしこの権利は相手が義務を果たす時に、有効となる。相手が義務を果たさないならば、その権利は絵にかいた餅になる。だからパウロは(7:5)でお互いに拒んではいけないと命令している。例外的に夫婦が祈るために、お互いの間に距離を取る事に関して書かれている。そのような場合であっても、それが夫婦の権利と義務の妨げとならない様に、3つの条件が挙げられている。それは「合意の上で」「しばらく」「また一緒になる」というもの。(6:16)でパウロは(創世記2:24)「ふたりの者は一体となるべきである」という御言葉を引用している。このみ言葉は、夫婦が性関係を持つことによって親密な結びつきを持つべきだと言っているのだ。もし夫婦の間にギリシャ思想を持ち込んで禁欲生活をするならば、それは神の命令に逆らうことであり、神から夫婦に与えられた権利と義務を放棄していることになる。

 

  • 結婚するかどうかは賜物による。

パウロは夫婦の性の問題に言及する中で、結婚するか独身でいるかについても言及している。(7:6)の「以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。」は、夫婦の性関係のことを指しているのではない。それは不品行に陥ることがないために結婚するかどうかについてである。その理由は(76~7)でパウロが言っていることから判断することができる。「みんなの者がわたし自身のようになってほしい。」と言っている。彼は(416)でも「わたしにならう者となりなさい。」と言っている。パウロのようになるとは(417)で言われている様に教会が「キリスト・イエスにおけるわたしの生活」をすること。彼は独身であったと言われている。彼が独身を貫き通したのは、ひたすら主の奉仕をするためであった。彼は独身であることを受け入れることができたのだ。しかし全ての人は独身を貫くことができる訳ではない。結婚を選ぶ人もいる。そのことをパウロは「ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしている。」と言っているのだ。独身であろうが結婚していようが、パウロはコリント教会が「キリスト・イエスにおけるわたしの生活」に倣って欲しいと願っていた。夫婦は性関係によって一体となり、その先に何を為していくのか。それは共に主に仕えていく。家庭生活、社会生活、教会生活の中で主に仕えていく。聖書では、夫婦関係はキリストと教会の関係を証しするものである。夫婦関係と同様に、教会はキリストと婚姻関係を結んでいるので、教会には主に仕える権利と義務が与えられている。教会はそれを果たしていく。

 

終わりに

「結婚と独身 ~性の問題~」について見てきた。山室軍平の名言「酒と色は、悪魔が人間を陥れる2つの最も大きな落とし穴。」 神から離れた人間が堕落した性質を最も表しやすい領域は性の世界において。淫乱や不品行の世界には必ず酒が付きまとう。その世界は、義なる神から離れさせ、永遠に神を忘れさせようする。しかし神が人間に与えておられる性は、夫婦を一体にさせ(親密にさせ)、共に神に仕えさせ、人間を神に近づけるものなのだ。ギリシャ世界と同様に日本にも性の乱れがある。日本で大学生伝道をしている宣教師の先生は、今の若い人たちの性生活を聞くに堪えることができないと言っている。またある青少年伝道に携わっている人は、性病に犯されている青少年の数が多いので、それを野放しにするならば、日本社会は崩壊してしまうと言っている。またある海外の先生は、日本のサラリーマンが仕事帰りに居酒屋で何時間も過ごしているので、日本の夫婦関係は崩壊していると言っていた。その他にも日本の性の問題として、出会い系サイト、同棲、婚前交渉、セックスレス夫婦、フリーセックス、これらはどれもソドムやゴモラで起こっていたことであり、このまま日本が進んでいくならば、日本は神の裁きで滅ぼされてしまう。何故日本がそのような状態になっているのか。それは周りに良き夫婦のモデルがいないからだ。悪いモデルしか見ていないから。この教会から良いモデルが生み出されていき、日本の性社会を変えていかなければいけない。そのためには、教会が性に関する神様の知識をしっかりと持ち、夫婦が共に主に仕えることである。

2020年5月16日 (土)

2020年5月17日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「あなた方は知らないのか ~裁判問題における教会のあるべき姿~」

説教テキスト:1コリント61節~20

 

初めに

アメリカのある番組で、ある女性が警察署にかけ、女性と警察官と実際にやりとりの音声が報道されていた。ある女性が警察に電話をかけ、ピザの注文をお願いしてきた。対応した警察官は初め呆れた感じで聞いていたが、女性の意図を読み取り、住所を聞いて彼女のところに駆け付けた。女性は夫から日常的に虐待を受けており、夫からピザを注文するように命令された。そこで女性は助けを求めるために警察に電話をかけた。女性の側には夫がいるので、警察に「助けて下さい」とは言えない。対応した警察官はそのことを読み取り、彼女の演技に応じたのだ。

抱えている問題を放っておくと、いつか表面化してくるものだ。パウロは教会の表面化した問題に対して根本的な解決を与えている。コリント教会は不品行問題だけではなく裁判問題も抱えていた。教会内で争いが起き、当事者同士がその問題を裁判沙汰にしてしまった。問題の詳細は書かれていないが、その問題は教会で解決すべき問題であった。つまり信仰または教会生活に関係する問題であった。パウロは裁判問題を通して、本来教会が如何にあるべきであるのかを説いている。

 

  • 教会が世を裁く者である。

パウロは裁判沙汰になっている問題の詳細を把握していた。それは(62)には書かれている通りに、きわめて小さい問題であった。パウロは教会の小さな問題を世の中の裁判で解決してはいけない理由を挙げている。それは教会は世を裁く存在であること。何を言っているのか分からない人もいるかもしれない。この世界は天地万物を造られた神が創造された。世界の中には人間も当然入っている。神は天地が創造されて以来、ご自身の正さによってこの世を裁き続けてこられた。神は神のお言葉(聖書の言葉)によって世を裁く。最大の裁きはイエス・キリストを十字架に架けられたこと。やがてこの世界は完全に神の裁きに服する。その時に、教会はイエスと共に世を裁く者となる。であるのに、教会が教会の問題を世の裁判に出すのはよろしくない。何故教会はそのような愚かな事をしたのか。それは教会に問題を解決できる者がいなかったこと。またコリントにはギリシャ人が多く住んでおり、彼らは裁判好きで有名であった。裁判でしばしば起こっていた事は、お金で裁判官を買収し、富める者が勝訴し、貧しい者は敗訴していた。教会には本来世の中を裁く権威が与えられているにも関わらず、その権威を用いずに、問題解決を世の裁判に求めた。それは不義な事(正しくない事)。パウロは教会に厳しく警告を与えている。

 

  • 正しくない者は神の国を継ぐことができない。

パウロは、不義な者(正しくない者)は神の国を継ぐことはできないと断言している。またそのような正しくない他の例として、(不品品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者)を挙げている。彼が挙げたリストはイエス・キリストを知らない者であり、知らないが故にそのような者となっている。しかし教会は既にイエス・キリストを体験した者たちの集まりである。イエス・キリストを体験するとは、主の御名と神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたことである。

世の中の人達は、クリスチャンは宗教的に熱心な者であり、戒律や規則を頑張って守っている人たちと思っている。それは間違い。本当のクリスチャンは主の御名と神の霊によって罪が洗われ、きよめられ、義とされた者である。その御業は一度や二度の話ではない。教会が主イエス・キリストの御名を呼び求め、神の霊に満たされることを求めるならば、生涯に渡ってなされる御業である。クリスチャンとは神の恵みの中に生きる者たち。だからクリスチャンは以前の古い生き方はできない者。コリント教会は神の御業をしっかりと受け取っていなかったので、造り変えられた様に生きる事が出来ずに、問題を裁判で解決しようとした。

 

  • あなた方の体はキリストのもの。

パウロは問題の解決を深く掘り下げていき、兄姉の体について言及していく。ギリシャ哲学では体を軽んじ、精神を重んじる。聖書ではどちらも重んじられている。コリント地方に広まっていた諺に、「食物は腹のため、腹は食物のため」というものがあり、コリント教会のある者たちはその諺に自分たちの性を当てはめていた。「性は体のためであり、体は性のため」という考えの元に、自分の体を不品行のために用いていた。性は神からの賜物であり、性関係は男女を1つとするものである。性関係が許されるのは夫婦関係の中だけのこと。聖書では、夫婦関係は性関係が伴うものであることを説いている。もし自分の性を結婚外で用いるならば、その人の体は相手のものになる。遊女と結ばれるならば、遊女のものとなる。性を乱用している教会に対して、パウロは「あなたがたの体は主イエスのもの」と宣言している。どんな意味において、兄姉の体はキリストのものであるのか。それは神から聖霊が与えられているから。この神の御業は私たちの体を神殿とするもの。神殿は神を礼拝するために存在し、神殿内には神を賛美するための道具しか置かれていない。もう1つは、キリストの犠牲という代価を払って買い取られたこと。この神の御業は、私たちを罪の奴隷から解放し、完全にキリストの所有となったことを表している。そのような神の御業を受けた教会は、自分の体で神の栄光をあらわすことが求めらている。

 

終わりに

教会の裁判問題は根の問題が表面化した事件。問題は根の部分にあった。私たちの根の部分にあるものが表面化してくる。神の宮とされた私たちの内側には神を礼拝するための道具しか置けない。その他の道具があるならば、その道具に相応しいものが私たちの体から表現されていく。自分から表面化している日常の言動から、自分の神殿の中にあるものを手繰っていくことができる。皆さんの神殿には何が置かれているだろうか。神は求める者に喜んで礼拝のための良きものを与えて下さる。神を礼拝する生き方は多くの問題を解決していく。反対に礼拝しないならば、問題は山積みになっていくことだろう。

2020年5月 9日 (土)

2020年5月10日(日)主日礼拝説教概要

タイトル:「不品行問題に対する教会の態度」

説教テキスト:1コリント51節~13

 

初めに

教会はこの世の中で最も問題が多き場所と言ってもよい。コリント教会もいつくかの問題を抱えていた。その1つが性の乱れであり、教会のメンバーの中に不品行な者がいた。その不品行は息子が継母と同棲しているというもの。その不品行はコリント地方の乱れた性も酷いものであった。聖書で不品行は禁じられている。(レビ18:8) パウロは教会の不品行問題を通して、教会のあるべき姿を説いている。パウロが問題としていることは、不品行を犯している本人よりも、不品行問題を知りながらそれを野放しにしている教会である。「不品行問題に対する教会の態度」について見ていく。

 

  • 指導者パウロの裁き

(5:36)にパウロの裁きが書かれている。パウロは手紙を教会に書いた時、コリントではなくマケドニアにいた。しかし体は離れていても霊は教会のメンバーと共にいて、不品行の罪を犯した者をさばいたと言っている。彼の裁きは、罪を犯した者をサタンに引き渡すこと。それは罪を犯した者が教会に出入りすることを禁止すること。そのようにすることで、罪を犯した者が罪を悔い改め、主の再臨の日までに彼が救われることを願っていた。パウロの裁きは、罪を犯した者を追放するのではなく、悔い改めを目的としていた。人の罪を裁くのは神であって人間ではない。だからパウロであってもそのようなことをすべきではないと思われるかもしれない。しかし教会には罪を犯した信者に対する対処方がイエス・キリストによって与えられている。それは(マタイ181518)に書かれており、その箇所においても、罪を犯した者が悔い改める勧めが記されている。しかし罪を犯した者が悔い改めない場合、教会はその者を信者として認めないことになっている。

 

  • 教会は過ぎ越しの祭りをする集まり

パウロは、教会は過ぎ越しの祭りをする集まりであると言っている。過ぎ越しの祭りは、神がイスラエル民をエジプトの奴隷から解放し、神を礼拝する民として下さった御業を記念する祭り。イエス・キリストの救いは過ぎ越しの祭りに根差している。罪の奴隷となった者を解放し、神を礼拝する者へと造り変えるのがイエスの十字架の御業である。パウロは過ぎ越しの祭りで用いられるパンを用いて、教会が本来あるべき姿を説いている。過ぎ越しの祭りではパン種が入っていない堅いパンを用いる。酵母の入ったパンは用いることはできないので、それらは外に捨てる。教会が用いることができるパンは種無しパンであり、それは純粋で真実なイエス・キリストのお言葉を表している。それに対してパン種の入ったパンは、神に逆らう悪意と邪悪とのパン種が入っているので用いることができない。教会はイエス・キリストのお言葉で祭り(神を礼拝)をする。2つのパンを同時に教会に置いておくことができない。不品行のパン種とそれを野放しにするパン種を教会に放置しておくならば、パン種は発酵してどんどん膨らんでいく。教会は不品行で汚染されてしまい、教会でなくなってしまう。だから不品行を犯した者を教会から除く必要がある。

  • 教会は世に存在し、世に染まらない集まり

パウロは不品行対処法を教会に教えると同時に、その事に関して教会が勘違いすることがない様に注意を与えている。それは教会の信者でない者と信者への対処法の違い。パウロは以前に教会に宛てた手紙の中で、不品行な者たちと交際してはいけないことを書いている。交際していけない者とは信者のことを指しており、未信者のことではない。もし未信者と交際していけないのならば、信者は世の中で生活できなくなり、修道院生活をするようになるだろう。信者でない者には聖書の言葉が教えられていない。彼らは言い伝えや住んでいる地域の風習に従って生きている。彼らは教会とは違った価値観で生きているので、彼らを裁くのは神であって教会ではない。しかし不品行な信者を裁くのは教会である。何故なら信者には世の中の悪に染まることがない神の霊と神の言葉が与えられているからだ。信者は神の聖さの中を歩む恵みに預かっているからだ。だから不品行だけではなくその他のリストも挙げられている。貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者がそれ。そのような者たちは教会に在籍することはできない。教会はそれらの者を取り除かなければいけない。教会の裁きによって、教会は世の価値観に染まらずに生きていくことを世界に示していくのだ。

 

終わりに

「不品行問題に対する教会の態度」を見てきた。コリント教会には不品行という悪が入ってきても、それを判断する能力が無かった。判断力が無いので行動力もなかった。つまりコリント教会には教会がこうあるべきだというイメージが無かった。私たち教会の一人一人も、教会がこうあるべきだという価値観をしっかりと持っていないと、教会は内部から崩壊していく。パウロが言っている「古いパン種、悪意と邪悪とのパン種」とは罪を犯した本人というよりも、教会が持っている価値観のことを指しているからだ。教会はどんな人でも歓迎されるコミニティであるが、何でも許されるコミニティではない。不品行、婚前交渉、不倫、同棲、偶像礼拝、酒に酔う、略奪をする者は教会で許されないことだ。教会は社会の中で最高基準のモラルを持つコミニティなのだ。何故なら教会のモラルは聖なる神のモラルであるからだ。いつも腐ったパンを食べている人は腐ったパンを食べることに違和感がなくなる。反対にフレッシュなパンを食べても美味しいと感じることができない。しかし、いつもフレッシュなパンを食べている人はフレッシュなパンしか食べることができない。腐ったパンなど食べることはできない。それは霊の世界でも同じこと。腐った考え方もあるよねと教会は判断してはいけない。腐ったパンは教会にとって危険だ。そのパンを教会は飲み込むことはできない。腐ったパンは教会から取り除かれなければいけない。そのように振舞うことができる人は、いつも純粋で真実パンを食べ続けている人だけ。もしこの教会に不品行やその類の人達が出てきたら、皆さんはパウロが勧めている様に振る舞うことができますか。

2020年5月 2日 (土)

2020年5月3日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「夕暮れの歌」

説教テキスト:詩編41節~8


初めに
 私が保育園に働いていた時、いつも夕方4時過ぎになると泣くたかしくんと言う一歳の男の子がいました。彼は毎日、4時から夕日を見ながら1時間ほど泣くのです。そのたかしくんを毎日1時間抱くのは私や他の先生の役目です。彼は様々な先生の胸を涙で濡らしながら渡り歩き、夕方の時間を過ごします。けれども5時になるとそれがピタリと終わります。お母さんが迎えに来ると一転してミラクルが起きるのです。それはもうにっこりなのです。たかしくんが本当に安心でき、笑顔になるのは先生ではなくお母さんなのでした。これは仕事一年目の私にとって感動と忘れないものとなりました。
 さてこの詩篇4篇は夕べの歌と呼ばれるダビデの詩です。ここでダビデには敵対者たちがいたことが伺えます。彼らはダビデを急き立て、自論で彼を責めていました。しかしダビデはそれでも歌うのです。誰に向かって?神に向かってです。それは彼が現実逃避しているのではありませんでした。

 

  • 心の置き場の違い

以下の様に、ダビデと敵対者が持っているもの、求めているものは違っていたのです。困難な時に自分の心にあることが表面化していきます。ダビデは敵対者の中で信仰を貫いていきます。敵対者たちは不満を抱いて人々の中で埋もれていったが、ダビデは神に信頼し自分を見出していきました。


◎義なる神(1節)VSむなしいもの(2節)
くださいました(1節) VS  知れ(知らない)(3節)
神からの特別扱い(3節) VS  人の栄光(2節)
主よ、主は(全節) VS  誰が、誰か(6節)
心の喜び VS  繁栄(7節)

 

  • 自分は聖別されていて、特別だという意識

ダビデの友人たちは、不平不満と絶望の中にいます。彼らには神への信頼とリーダーへの信頼がないのです。彼らはダビデに対して攻撃をし、弁が立ち優位なように見えますが、実際は、神への敬意と畏れ、信頼から離れた危険な状況でした。一方、ダビデは、困難の中においても責め立てられてもそれを貫くほどの強い神への信頼と喜びを持っていました。

 

  • 問題は現場で起きている

起きている問題は問題であるが、問題とすべきことはそのことではなく、問題の中において心が神様に向いているかどうかなのです。問題の中でダビデはどのように神様に向き合ったのかを見ていく

 

目をあげてみよう!
「イエスの御顔を照らしてください」(6節)


主に訴えてみよう
「呼ぶ」(1節)「アバ父と呼ぶ御霊を心に遣わしました。」(ガラテヤ4:6


主を体験したから!
「口でイエスを主と告白し、心で神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるならあなたは救われる」(ローマ10:9

大丈夫なんだ!という姿勢です。

 

終わりに
 私たちは神様へ信仰を抜きにして、速く安心したい、繁栄したい、命が助かりたい、と思ってはいないでしょうか。誰かがやってくれないと思ってはいないでしょうか。私たちの心は本当の救いにたどり着かない限り、永遠にさまよい歩きます。ダビデは友人達に言いました。「主が驚くべき方法を持って、その聖徒たちを導かれることを知りなさい」と。今日私たちがなすべきことは、聖徒になることです。神様の側につくなら裁かれることがなく、保護されるのです。どのようにしたら神様の聖徒になるのか。それは一つしかありません。「神を畏れ、罪を悔い改め、神の前に静まってみること。セラ」(4節) セラとは「静まること、一人になること、沈黙すること、止まること」「人から離れ、愛の眼差しを神様にじっと注ぐことです。」

今、あなたの心を見つめてください。そこには何がありますか。絶望と暗闇が襲って来ていることを実感することでしょう。よくよく考えてみてください、あなたが大事にしているものは、全ていつか終わりお別れ、裏切りがあるものなのです。なぜならそれらは神の栄光を表すものではないからです。それが罪なのです。これが神様と永遠に混ぜ合わせられないものなのです。神様と敵対するものなのです。実際に友人があなたを責めたてる目の前の問題よりも、これこそが真の問題です。神様に反逆し、敵対し、神様を要らないと言いながら自分の全てを自分のもののように扱う。それでいて心寂しく満たされずに、神様以外のどなたかに拾ってもらいたいと思っている。さまよい続けている。それこそがあなたの罪なのです。

しかし神様は「義なる神」(1節)です。義なる神とは、遊牧民語で『あなたを広くする』という意味を持っています。「御顔の光を私たちに照らしてください」(6節)とは「私が神の喜びに生きれますように」(6節)という祈りです。神様の光は、蛍光灯のようなものではありません。あなたがどんな時でも、神様の顔をみて、親しく話せる、という光なのです。この喜びは罪を、コロナを、面会謝絶を貫くほどの喜びの力を持っています。今(4節)に従ってみましょう。

祈り
神を認める

神様、私はあなたを知らないで生きて来ました。また居ても居ないように振る舞ってきました。いまあなたがここにいて私の心を見つめているのを信じて、恐れます。


罪を認める

私の心は罪に満ちています。忘れた言葉、心で思った言葉、行動、振り返れば数えきれません。私の内側は罪に満ちていて、がんばって良いことをしようとしても、綺麗にはなりません。


救いを求める

どうか、私の心にあなたの光を照らしてください。私が罪の支払うはずだった罰の肩代わりに、イエス・キリストが十字架で死んでくださり、私に命が与えられたことを受け入れます。私の罪の暗闇を消し去ってください。


神に信頼する

私があなたの子どもとして生きることができますように。どんな時もあなたの愛の広さ、光の中を歩むことができるように。それが本当の強さであることを私に体験させてください。 

 
イエスの名前で祈る

イエスキリストのお名前によってお祈りします。アーメン(本気で信じますの意味)!

 今、救いを受け取り、お祈りした方はぜひ近くにいるクリスチャンにそのことを伝えてください。
この体験はあなたの人生そのものを変えます。今日からイエス・キリストを私の心に迎え入れたので、恋人のようにむようになります。

 

2020年4月25日 (土)

2020年4月26日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「教会にとってパウロは何者 ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント41節~21

 

初めに

オーストラリアの番組で、ドミノピザの最高経営責任者(CEO)が現場で社員がどのように働いているかを知るために、ピザのお店で新人として働くことになった。新人は仕事をする中で店員たちが複雑な事情を抱えて働いていることを知るようになる。店長のアルさんは15歳の時にいとこの男性が自殺して不登校になった。しかしピザ屋で働いたことにより、自分の人生が救われた。配達のラジさんは息子たちに良い教育を受けさせるためにインドから移住してきた。アルさんはオリジナルのピザを作って新人に食べさせた。後日、新人は自分が関わった従業員たちを都会にそびえたつ本社に招き、身分を明かして、それぞれに見合った報酬を彼らに与えた。アルは大学に行く奨学金を与えられ、ラジには新しいピザを商品化するその報酬が与えられた。彼らは驚き中でCEOに感謝を表した。

組織にはリーダーにしかできないことがあり、リーダーが組織を変えていく力を持っている。それは教会にも通じること。しかしコリント教会ではパウロをリーダーとして認めていない人たちがいたので、彼は教会でリーダーシップを発揮できない状態であり、教会が教会として存在していない状態。そのような教会に彼は自分が何者なのかを明かしている。

 

  • パウロはキリストに仕える者であり、神の奥義の管理者。

パウロは自分のことを「パウロはキリストに仕える者、神の奥義の管理者」であると宣言し、教会が自分のことをそのような者として受け入れることを求めている。キリストに仕える者とはキリストの奴隷のことである。奴隷は自分勝手に生きること、働くことはできない。奴隷パウロは主人キリストの命令と指示に従い、教会に仕えて働く者であった。キリストが望まれる働きを教会でなしていった。また神の奥義の管理者とは神の福音の監督者であること。神の福音の監督者はイエス・キリストのお言葉を守り、イエスに従い、教会の必要に応じてイエスのお言葉を提供する者。彼は自分の立場を教会に説明する中で、「自分が裁判にかけられること」「ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶること」に言及している。それは彼がキリストの奴隷であることと、神の奥義の管理者であることに関係している。

コリント教会には4つの派閥があった。パウロ派、アポロ派、ペテロ派、キリスト派。本来教会にはキリスト派のみが存在し、他の派閥は存在しない。アポロ派とペテロ派にとって、他所の派閥のリーダーであるパウロの言っていることは聞くに値しない。教会は人間の判断でパウロを見下していた。そのような愚かな教会の判断を「裁判」という言葉で表現している。パウロはイエスが自分を裁判(判断)し、全ての事を明らかにして下さるのだと言っている。「ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶること」も同じである。パウロは、教会で派閥争いをしている教会は高慢で裕福な王様のような存在であり、本来教会が生きるべき姿を現していないと警告をしている。彼は本来教会が生きるべき姿を自分の姿に重ね合わせて証ししている。彼の生き方は「コロッセウムに引かれて野獣の餌食にされる迫害者のようであり」「卑しめられ、飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いており、はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけられ、この世のちりのように、人間のくずのような者」である。教会がパウロのことを「キリストに仕える者、神の奥義の管理者」として受け取っていたならば、彼らもパウロと同じ生き方をしていたはずであった。

 

  • パウロは父親。

またパウロはコリント教会にとって父親として振舞っていた。そしてコリント教会がパウロをそのような存在として受け入れることを願っていた。どのような点においてパウロはコリント教会にとって父親であったのか。それは彼がイエス・キリストを彼らに伝えたことにおいて。彼はそのことを「キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。」と言っている。イエスを信じるとは新しく生まれること。新しく生まれるとは今まで通りの生き方ができなくなること。新しく生まれることをパウロ自身が体験していた。クリスチャンを迫害し、イエスを殺す者だった彼がイエスを愛する者へと変えられた。彼を変えたイエス・キリストはコリント教会のメンバーも造り変えて下さった。

また彼がコリント教会にとって父親である理由は、コリント教会を成長させ自立させようとしていること。親が子どもを叱る時の常套句は「親の言うことを聞きなさい」であって「自分の様に振舞いなさい」とはなかなか言えるものではない。しかしパウロは「わたしにならう者となりなさい」と教会に命令している。

パウロは教会にイエス・キリストを伝えた時に、イエス信じて生きることを自分のふるまいによって伝えていた。イエスを信じたばかりの者がクリスチャンとして生きていくためには、先輩クリスチャンの生き方を真似すること。イエスも弟子たちを訓練するためにその方法を用いられた。イエスは弟子たちを側に置き、ご自身の働き、祈り、弟子たちに見せられた。それは弟子たちがイエスの行いをまねるため。パウロがコリント教会に手紙を書いている時に、彼には別の計画があり、コリント教会に行く事ができなかた。そこで自分の代わりにテモテという指導者を教会に遣わした。その目的は、かつてパウロが教えたことを思い起こさせるため。

 

終わりに

「パウロは何者 ~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。今朝の御言葉から3つの勧めをしたい。

1つは、教会が指導者をどのような存在として受け入れるのか。この問題は教会が指導者をどう扱うのかという事だけではなく、教会がどのような教会として生きていくかに関わってくること。教会の指導者は神が立てられた者である。また神は指導者に教会を導くための賜物を与えて下さっている。教会はその指導者の働きを見て、神が立てられた者であることを受け入れること。また神が立てた指導者が教会に語る神の言葉に聞き従うこと。教会は建てられた指導者が語るみ言葉と、そのみ言葉に従う教会によって形成されていく。教会がそのような信仰に立たないと、教会には分裂が生じ、神を抜きにして満足するようなコミニテイになる。そうなってくると、指導者が語る神の言葉がほとんど教会に通じなくなってしまう。

2つめは、親の信仰を持つこと。親としての信仰をもつためには、誰かに福音を伝えることであり、誰かをクリスチャンとして育てることである。反対に、誰かに福音を伝えない、誰かをクリスチャンとして育てないことは、いつまでも子どものクリスチャンでいることになる。親は自分の持っているものを子どもに与える。親の振舞を子どもに見せる。そして子どもが自分でやるようにチャレンジさせ、そばで見守る。子どものテリトリーには入らない。そのようにして親になり、子どもを自立させていく。

3つめは、イエスを信じることについて。イエスを信じるとは、洗礼を受けて、神の家族(教会)に加わること。教会生活をすることで、イエスを信じた者は人格的に成長していく。生まれたばかり赤ちゃんのことを考えてみて欲しい。赤ちゃんが誰かの家族であると言っても、食べ物だけ与えられて、家族と共に過ごさなければ、どうなるだろうか。赤ちゃんは人格的に成長できない。死んだような人間になる。イエスを信じることも同じ。洗礼を受けて、教会に加えられなければ、イエスを信じていることにはならない。神はイエスを信じた者が洗礼を受け、神の家族(教会)に加わることを命じておられる。

 

 

2020年4月18日 (土)

2020年4月19日(日)主日礼拝説教概要

説教タイトル:「あなた方は教会 ~教会分裂問題に対する勧め~」

説教テキスト:1コリント310節~23

 

初めに

弘前城の本丸石垣の解体修理で、弘前城を支える土台の部分が露わになった。土台の四隅にはイカのような形をした隅石が置かれていることが分かった。また土台の石には小さくへこんだ箇所があり、それは隣の石のへこみとあわせると蝶の形になる。そのへこんだ箇所に蝶の形をした石がはめ込んであり、地震が起こっても、土台の石が動かないように固定されてあった。そのような土台は全国でも珍しいものである。今朝の箇所でパウロは教会を建物に譬えており、壊れたコリント教会の修理をしている。今朝は「あなた方は教会」というタイトルでみ言葉を見ていく。

 

  • 教会はキリストを土台とした家

パウロはコリントに教会を生み出したことを、家を建てることに譬えている。彼がなした働きは熟練した建築士として家の土台を据えたこと。土台は人目につく場所ではないが、家の中の最も重要な部分である。家が安定した建物になるかどうかは土台にかかっている。教会の土台はイエス・キリストであり、パウロは十字架に架けられたキリストを彼らに伝えた。

家は土台だけでは完成したことにならない。土台の上に材料を組み合わせていく。(312)にはその材料が書かれている。「金、銀、宝石、木、草、わら」。初めの3つの「金、銀、宝石」はキリストに相応しい材料であるが、後の3つである「木、草、わら」は3匹の子豚の話同様にキリストに相応しくない材料。パウロは家の土台を据えただけで、その後の家の建築はアポロとケパ(ペテロ)は神の材料である「金、銀、宝石」を用いて建てていった。

パウロは建てられた家の耐久性を語っている。木造の家の耐久性は20年前後。しかしキリストを土台とした家の耐久性はどのくらい。パウロは家の耐久性がかの日に試されると言っている。かの日とは(17)「わたしたちの主イエス・キリストの日」であり再臨の時である。再臨の日に家が残るか燃えるかによって、家の耐久性は試され、家が残るならば家を建てた者は神から報酬を受ける。キリストを土台とした教会にとって、今を生きている現在と未来に起こる再臨は密接に結ばれている。パウロと彼の同労者は、再臨の時に残る家を建築していった。

 

  • 教会は神の宮 

パウロは、教会は神の宮であると言っている。生まれながらの人間を神の宮をさせるものは神の御霊である。神の御霊を持たない者(イエスを信じていない者)は、どんなにがんばっても神が望まれる礼拝をすることはできない。自分の欲望を満足させるような神々を礼拝するものになってしまう。コリント教会の兄姉たちはイエス・キリストを自分の罪からの救い主と信じ、神から御霊を与えられた神殿であった。神殿の役目は父なる神と主イエスを礼拝することである。

しかしコリント教会の神の宮から発せられていたことは(礼拝での賛美は)、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」というもの。パウロは「もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。」と言っている。ここでパウロが言っている神殿破壊は迫害ではなく、教会の内部の分裂のことである。教会のメンバーが指導者を担ぎ上げて派閥争いをしていることが神の宮を破壊する行為。神の宮を破壊するような者は、神の裁きに会うことを警告している。

 

  • 教会はキリストと神のもの

最後に、パウロは、教会はキリストと神のものであると言っている。教会とはコリント教会の兄姉たちそのものである。コリント教会の中に兄姉だけではなく、使徒たちであるパウロ、アポロも、ペテロ(ケパ)も含めて存在している。またその枠の中には、世界、生、死、現在と未来という万物が含まれている。キリストが万物の主であるので、世の終わりに教会はキリスト共に万物を支配するのである。だからパウロは、万物はコリント教会のものであると言っている。

神がキリストを通して与えられた教会には大きな1つの枠があるだけである。その枠の中にパウロ教団、アポロ教団、ペテロ教団のような国境や排他的経済水域は存在しない。しかしコリント教会は指導者を担ぎ上げて、1つ枠の中に、さらに別な枠を作って小競り合いをしていた。そのような考えはこの世の知恵であり、神の前では愚かな(馬鹿な)ものである。パウロは旧約聖書を引用し、それは悪知恵であり、むなしいものであると言っている。

何故コリント教会はそのような状況に陥ってしまったのか、それはイエス・キリストを十分に受け取ることができていなかったから。もし神からのものを受け取ることができたならば、教会には所属意識が生じた。自分たちは神のもの、キリストのものであるという意識(信仰)である。しかし彼らには所属意識が薄かったので、教会とは別なグループが生み出された。パウロはそのような彼らに「あなたがたはキリストのもの」であると宣言している。

 

終わりに

・「あなた方は教会 ~教会分裂問題に対する勧め~」について見てきた。今朝の御言葉から2つ勧めをしたい。1つは、私たちは教会であること。神は私たちがイエスを信じた時から、私たちを教会として造り変えて下さった。それはキリストを土台とした家に造り変え、神の宮に造り変えて下さった。だから私たちは教会として成長できるし、神を礼拝できる。私たちを教会にして下さったのはイエスである。それは私たちの努力ではなく神の恵み。未だクリスチャンになっていない方に、勧めたいことは、教会に通い、礼拝に出席していれば、自然に教会になっていくのではない。イエスを信じ、洗礼を受けることにより、イエスの教会に造り変えられる。また教会はキリストを土台とした建物であるので強い存在である。(少しの困難や問題で崩れない存在) 教会は神の宮であり、目立つ存在である。(教会は掘っ建て小屋ではない。礼拝する者としてそびえたつ存在)さらに教会はキリストのものとされた者であり、愛されている者存在である。(孤独で惨めな存在ではない。) 

2つ目は、教会の所属意識について。何故自分はこの教会に所属しているのかという理由を自分に問いかけてみて欲しい。最も大切な意識は、自分はキリストのものであるという意識。その意識がないならば、教会内部に教会とは別なグループが存在するようになっていく。内部分裂が起こり教会は破壊されていく。教会を1つとするものはキリスト。家族を1つにするものはキリスト。民族や国を超えて私たちを1つにするものはキリスト以外にない。キリストを持たないコミニテイには争いと分裂が生まれる。人間の問題の根源はイエスを信じていないこと、イエスのものになっていないこと。イエスのものになっていないと、私たちは誰かのものになろうとしてさまよう。あなたは仕事や会社のもの(奴隷)になっていませんか。あなたは勉強のもの(奴隷)になっていませんか。またあなたは身近な人のもの(奴隷)になろうとしていませんか。またあなたは身近な人を自分の所有物(奴隷)であるかのように扱っていませんか。私たちはキリストのものだ。

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